一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
「……ふぅ。やっと、納得いく結果が出せました」
ポスドクの先生方からの鋭い質問を全て捌き切り、解放された安堵感と共にデスクに戻る。
窓の外は、しとしとと梅雨の雨が降り続いていた。
湿気の多い6月の研究室。
私は蒸し暑さと、PCの排熱で少し汗ばんだ額を拭いながら、大きく伸びをした。
「M2の6月でここまで出れば、夏の中間発表は余裕ですね。
働きながら2年で修士を修了できるか、ずっと不安でしたけど……なんとかなりそうです」
手元のマグカップに口をつける。
正直、去年の冬はずっとDNA抽出と、終わりの見えないデータ解析ばかりだった。
凍える手で何百本ものチューブを処理し、エラーが出るたびに絶望していた日々が、走馬灯のように蘇る。
あの地味で苦しい日々が、この「P < 0.001」という美しい数字に化けたのだ。
「……気が緩んでるぞ、高橋」
ピ、と電子音がした。
振り返ると、坂上先生がエアコンのリモコンを操作し、設定温度を下げているところだった。
湿気で不快だった空気が、少しだけひんやりと変わる。
「修士論文なんて、この発見の『おまけ』みたいなもんだ。
通過点に過ぎん」
「つ、通過点って……私にとっては死活問題なんですけど!」
「馬鹿言え。俺たちが狙ってるのは、そんな学内の作文発表会じゃない」
先生は私のデコを指で小突いた。
「『Circulation』だ。
インパクトファクター30越えの、循環器トップジャーナルに載せるぞ」
「さ、さんじゅう……!?」
桁違いの目標をサラッと言われて、私は絶句した。
私が「卒業できるかな」と心配している横で、この人は「世界を獲る」ことを当たり前のように考えている。
「夏までに、患者由来iPSの心筋分化誘導を安定させる。
秋にはCRISPRでゲノム編集を行い、このSNPの機能証明を叩き出す」
先生は冷徹なスケジュールを口にしながら、私のデスクの端に、分厚いプロトコルの束をドンと置いた。
「……今年の夏は、暑くなるぞ。
お前に盆休みはないと思え」
その言葉は、「卒業させてやる」という生温かい約束ではなく、「世界と戦う共犯者になれ」という、彼なりの最大の信頼の証だった。
私は置かれたプロトコルと、先生の挑戦的な目を見比べて──自然と口元が緩むのを止められなかった。
「……はい、望むところです!」