一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
「……もし、あそこで私が断らずに血液を出していたら」
深夜の実験室。
マイクロピペットを握る手を止めて、私は独り言のように呟いた。
「今頃、警察とマスコミが病院を取り囲んで、地獄の責任のなすりつけ合いが始まっていたでしょうね」
デスクでPCを叩いていた坂上先生が、手を止めてこちらを見た。
「……だろうな。
研修医はなんと弁明すると思う?」
「決まっています」
私は溜息交じりに、その光景を幻視する。
「『救命のために必死だった』
『看護師が確認したと思った』
『検査技師が適合判定を出したから、正しい血液だと思って輸血した』
……絶対にこう言います」
医師は「現場の混乱」を盾にする。
「自分は血管を確保するのに精一杯だった。検体の管理はお前らコメディカルの仕事だろう」と。
「で、看護師さんはこう言うんです。
『私は先生が採血した検体をシューターに入れただけです。ラベルの貼り間違いなんて知りません』」
ボールは私たちの元へ転がってくる。
「そして最後、私たち輸血部が詰められるんです。
『なぜ、検体の異常に気づかなかった?』
『なぜ、バーコードのズレを見逃した?』
『専門家なら、リスクを予見できたはずだ。適合判定を出した時点で、お前たちが間違いを承認したのと同じだ』……って」
死人に口なし。
採血した瞬間を見ていない私たちが、「中身が違っていた」ことを証明するのは不可能に近い。
結果として、「間違った血液を出庫した」という事実だけが残り、私たちは「業務上過失致死」の実行犯として吊るし上げられる。
「……採血したのは医者でも、最終的にトリガーを引くのは私たちなんです」
だから、疑わしきは罰する。
「検体拒否」という最強の拒絶権を行使してでも、自分と患者を守らなきゃいけない。
私の話を聞いて、坂上先生は鼻を鳴らした。
「……違いない。
組織ってのは、トカゲの尻尾切りが大好きだからな」
先生は椅子を回転させ、私の方を向いた。
「だが、お前は防いだ。
研修医のミスを未然に止めて、患者の命も、その研修医の人生も、病院の評判も……ついでに俺たちの平穏な研究生活も、全部守ったんだ」
先生の言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
「……感謝しろよ、病院長」
「ああ。俺が院長なら、お前に金一封を出すところだ」
「じゃあ、代わりに先生が何か奢ってくださいよ」
「……チッ。高くつく女だ」
憎まれ口を叩きながらも、先生の表情は柔らかかった。
あの時、怒鳴り合いをしてでも止めたことは、決して間違いじゃなかったのだ。