一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
「……でも、いいですよねぇ、外科医は」
私はピペットのボタンを親指で押し込みながら、わざとらしくため息をついた。
「手術が成功すれば、患者さんからもご家族からも『神様!』『命の恩人!』って感謝されて。
涙ながらに『先生のおかげです』って両手で握手を求められたりして。
……私たち裏方も、たまには感謝されたいもんですよ」
デスクで論文を読んでいた坂上先生は、視線を外さずに淡々と答えた。
「……別に、感謝されるためにやってるわけじゃない」
「それはそうですけど、でも、報われるじゃないですか!」
私は手を止めて振り返った。
「こっちはどうですか?
間違った検体を必死で食い止めても、緊急で適合血をかき集めても、患者さんは私の名前すら知らないんですよ」
そう。私たちの仕事は、どこまでいっても黒子だ。
患者さんが麻酔で眠っている間に準備し、知らない間に輸血され、知らない間に終わっている。
「輸血検査って、『減点方式』なんです。
事故がなくて当たり前。適合して当たり前。
100点満点を出し続けて、ようやく『ゼロ』評価なんです。
もしミスして99点になったら? 即座に『人殺し』の烙印を押されて、ニュースで吊るし上げです」
何千回成功させても、誰も気づかない。
たった一回失敗すれば、全てが終わる。
そんな薄氷の上を毎日歩いているのに、誰も「氷の上を歩いてすごいね」とは言ってくれないのだ。
「……空気とか、水道みたいなもんだな」
先生がページをめくりながら言った。
「あって当たり前。止まるとキレられる。
インフラの宿命だ」
「そう! まさにそれです!
でも、水道管だってたまには『いつも水を流してくれてありがとう』って言われたいんですよ!
ドクターばっかりチヤホヤされやがって……!」
私が口を尖らせると、坂上先生はやっと論文から目を離し、こちらを見た。
そして、残酷な事実を告げた。
「……残念だが。患者は、お前のことなんて一生知らないままだろうな」
「うぐっ……せ、正論ですけど……」
言葉に詰まる私に、先生は椅子を回して正対した。
その瞳は、いつになく真剣だった。
「だが」
「……え?」
「俺は、知ってる」
ドキン、と心臓が跳ねた。
「俺がオペ場で、余計な心配をせずにメスに集中できるのは、お前が後ろにいるからだ。
『血液は大丈夫か?』『型は合ってるか?』なんて疑わなくていい。
高橋が出した血なら、絶対に間違いない──そう信じられるから、俺はリスクのある手技にも踏み込める」
先生の言葉は、熱を帯びて真っ直ぐに私に届いた。
「……患者からの感謝はないかもしれないが。
少なくとも、俺はお前に感謝してる。
……お前がいなきゃ、俺の手術は成り立たない」
「…………」
その言葉は、患者さんからのどんな「ありがとう」よりも、今の私の胸に深く、熱く染み渡った。
現場の最前線にいる、一番厳しくて、一番尊敬する相棒からの、最高級の評価。
目頭が熱くなるのを誤魔化すように、私は白衣の袖で顔をこすった。
「……先生」
「なんだ」
「……今の言葉、録音していいですか?
辛い時に再生して頑張るので」
私はポケットからスマホを取り出そうとした。
すると、先生はフッと呆れたように笑って、また論文に目を戻した。
「消せ。二度と言わん」
「えー、ケチー」
口では文句を言いながら、私は再びピペットを握った。
手元が軽い。さっきまでの鬱屈とした気分は、もうどこにもなかった。
誰にも知られない仕事でもいい。
この世界でたった一人、一番認めてほしい人が分かってくれているなら。
明日もまた、胸を張って100点満点の「当たり前」を積み重ねていける気がした。