一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
ラボの扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
嵐が過ぎ去った後のような静寂が戻ると、横でモニターを見つめていた村瀬さんが、椅子の背もたれに体重を預けて大きく伸びをした。
「……高橋さん、お疲れ様。まあ、気にしすぎないで」
村瀬さんは眼鏡の位置を直しながら、慰めるように苦笑する。
「坂上先生は言い方がああだけど、言ってることに間違いはないから。科学的なロジックに関してはフェアな人だよ。……人間性がどうかは置いといて、ね」
「……ありがとうございます。村瀬先生も、遅くまで巻き込んでしまってすみませんでした」
私はぺこりと頭を下げ、リュックにパソコンを詰め込んだ。
時計の針は二十二時半を回ろうとしている。急がないと間に合わない。
「私も、これから輸血検査室の当直バイトが入っておりますので、一旦失礼します」
「え? ああ……そうか。高橋さん、臨床検査技師だったね」
村瀬さんが、ふと思い出したようにこちらを見た。
「はい。研究はさっぱりなへっぽこですが、技師としては一応五年目ですので」
「五年目か……。現場じゃもう中堅だね」
感心したように頷く村瀬さんだったが、ふと何かを思いついたように口元を引きつらせた。
「……待って。輸血部ってことはさ」
村瀬さんの視線が、さきほど坂上先生が出ていった扉の方角へと向く。
「また坂上先生と、仕事でも一緒になる可能性あるんじゃない?」
その言葉に、私はリュックを背負う動作を止めた。
想像したくなかった事実を突きつけられ、深い深いため息が漏れる。
「……はい、大アリですね。というか、さっきの緊急オペ、たぶん大動脈解離か破裂でしょうから、大量輸血オーダーが飛んでくるのは確定です」
私は天井を仰いだ。
研究室での冷徹な指導教官の顔から、手術着とマスクに身を包んだ「俺様外科医」の顔へ。
あの不機嫌な声が、病院の内線電話越しに響くのが今から幻聴のように聞こえてくる。
「あの先生、クロスマッチの結果が出る数分すら待てなくて『まだか!』って急かしてくるの、本当にやめてほしいんです。ああいうイラチな態度、ミスの温床になりかねないのに」
「あー……目に浮かぶなぁ」
「『こっちは患者の腹開けて待ってんだよ!』って怒鳴られますけど、不適合輸血したら患者さん死ぬんですよって話で……」
ぶつぶつと恨み言をこぼす私に、村瀬さんは「強く生きて」と哀れみの視線を送ってくれた。
「……じゃあ、戦場に行ってきます」
「うん、いってらっしゃい。お手柔らかに頼むよ、お互いのために」
私は重たい足取りで研究室を後にした。
白衣からスクラブに着替えても、あの男の支配から逃れられないなんて。
今夜の当直は、いつも以上に長い夜になりそうだ。