一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
戦
病院の地下にある輸血管理室。
IDカードをリーダーにかざし、重たい扉を開けた瞬間、独特の冷たい空気が肌を刺す。
私は白衣を脱ぎ捨て、スクラブに着替えながら深く息を吸い込んだ。
ここから先は、学生の「高橋有希」ではない。臨床検査技師としての時間だ。
「高橋さん、悪い! 到着早々だけどお願いできる? オペ室から準備要請、緊急!」
夜勤パートナーの先輩技師が、受話器を片手に血相を変えて手招きする。
「了解です。患者情報は?」
「救急搬送のスタンフォードA型大動脈解離。術者は──心外の坂上先生」
やっぱりか。
私は髪をゴムで一つに縛り上げると、メインの回線が繋がっているデスクへ滑り込んだ。
その瞬間、赤色のランプが点滅し、けたたましい電子音が鳴り響いた。手術室からの直通ホットラインだ。
「はい、輸血部です」
『遅い! いつまで待たせる気だ!』
受話器の向こうから、怒号とともに心電図のモニター音、そして吸引器のノイズが飛び込んできた。
研究室で聞いた冷ややかなトーンとは違う。アドレナリンが出まくっている、荒々しい坂上先生の声だ。
『出血がコントロールできない。MAP(赤血球製剤)とFFP(新鮮凍結血漿)、あるだけ全部持ってこい! 患者の血液型はまだか!』
鼓膜がビリビリと震える。
だが、不思議と私の手は震えなかった。
ここでは「データがないから」と怒られる学生ではない。血液の番人だ。
「検体は先ほどシューターで到着しました。現在、至急で血液型判定中です」
私は受話器を肩と耳で挟みながら、到着したばかりの紫色の採血管を遠心機にセットする。
『悠長なことを言ってる場合か! ショックバイタルだぞ、未交差でもいいからO型を出せ!』
「いいえ、出せません」
私は即答した。
遠心機の回転音が唸りを上げる中、冷静に、しかし語気を強めてマイクに向かう。
「患者さんの過去カルテに不規則抗体陽性の記録があります。O型であっても、検証なしで入れるのはリスクが高すぎます。あと六十秒待ってください。オモテだけでいいなら、型合わせした同型血を出せます!」
電話の向こうで、坂上先生が息を呑む気配がした。
『……六十秒だな?』
「はい。遠心終了まであと二十秒。判定と出庫処理に四十秒。──コアグラさえなければ、確実に間に合わせます」
『……チッ、わかった。一分だけ待つ。一秒でも過ぎたらO型を入れるぞ』
「了解しました」
通話が切れると同時に、遠心機が停止のブザーを鳴らす。
私は反射的に蓋を開け、チューブを取り出した。
凝集反応を目視確認。A型、Rhプラス。
「Aプラスです! 製剤準備!」
「よしきた!」
先輩が冷蔵庫からA型の赤血球バッグを掴み出し、バーコードリーダーにかざす。
私は即座にコンピュータ上で出庫処理を叩き、照射済み製剤であることを確認してバスケットへ放り込む。
「出庫完了。シューター流します!」
カプセルに血液バッグを詰め込み、気送管のボタンを叩く。
ゴォッ、という風切り音と共に、血液が頭上の配管を通って手術室へと吸い込まれていった。
壁の時計を見る。
宣言通り、五十八秒。
私は大きく息を吐き出し、再び鳴った電話を取った。
「はい、輸血部。A型MAP、四単位送りました。追加準備できてます」
『……届いた』
受話器の向こうの声は、さっきより幾分か落ち着いていた。
そして、ふと気づいたように低く呟く。
『……今の、高橋か?』
「はい。検査技師の高橋です」
研究室の時とは違う、毅然とした声で答える。
『……』
短い沈黙。
怒鳴られるかと思ったが、返ってきたのは意外なほど実務的な指示だった。
『FFPの融解も急いでくれ。今夜は長くなるぞ』
「承知しました。在庫は確保してあります」
プツリ、と通話が切れる。
ツー、ツー、という電子音を聞きながら、私はようやく強張っていた肩の力を抜いた。
「……はぁ。寿命が縮む」
「お疲れ、高橋さん。いやー、あの坂上先生相手に『出せません』って言い切ったの凄いわ。さすが五年目」
先輩がニヤニヤしながら缶コーヒーを差し出してくる。
「過去カルテがなかったら、言いなりになってましたよ……」
冷たい缶の感触を額に押し当てる。
研究室ではあんなに小さくなっていた自分が、ここでは対等に──とまでは言わないけれど、少なくともプロとして渡り合えた。
その事実は、少しだけ私の自尊心を回復させてくれた。
もっとも、明日の朝になればまた「ポンコツ大学院生」に戻って、あの男に詰められる運命なのだが。
「さて、FFP溶かしますか……」
私は気合を入れ直し、凍結庫のハンドルに手を掛けた。
長い夜は、まだ始まったばかりだ。