一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます



ホテルの部屋に入り、カードキーをスロットに差し込むと、無機質な照明が部屋を照らし出した。
坂上先生はジャケットを脱いでソファに放り投げると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口煽った。
一息ついた彼が、ふと思い出したように振り返る。

「そういえば、聞かなかったけど。そっちのポスターはどうだった」

自分のYIA受賞で頭がいっぱいかと思っていたのに、私の発表のことも気にしていたらしい。

私はヒールを脱いで足を休ませながら、正直に答えた。

「こっちは……まぁ、普通でした。何人かは足を止めて見てくれたのと、質問が3回ほど」

「3回か。まあ、基礎の進捗報告ならそんなもんだろ」

彼は興味なさそうにミネラルウォーターのボトルをテーブルに置く。

私はそこで、ある人物のことを思い出した。

「あぁ、そうだ……。循環器内科の御崎先生が質問をくれたんですよ。『この解析手法なら、あの疾患にも応用できるかな』って。……確か、先生と同期ですよね?」

その名前が出た瞬間、坂上先生の手がピクリと止まった。

彼は眉をひそめ、訝しげに私を見る。

「御崎? ……御崎日向か?」

「はい。エコー室の時少し関わりがあったんですけど、覚えてて下さってて……穏やかで優しい先生ですよね。すごくカッコいいし。でも、質問はすごく鋭かったです」

「……へぇ」

彼にしては珍しい反応だ。
ただの同期という以上の、何か複雑な感情が見え隠れする。

「……確かに同期だけど、仲が特別良かった訳じゃない。でも、あいつはあいつで優秀だ。内科のくせにカテーテルだけじゃなく基礎研究のセンスもある。……確か、もう助教だろう」

「もう助教なんですか? すごい……」

坂上先生と同い年で、すでに大学のポストを得ている。
出世欲の高い彼が、御崎先生を「優秀」と認める口ぶりには、ライバルに対する敬意と、先を越されていることへの僅かな苛立ちが混じっていた。

「で? その御崎が何だって?」

「あ、いえ。最後にポスターの共著者欄を見て、聞かれたんです。『指導教官は、心臓外科の坂上先生?』って」

私は彼の反応を伺いながら、御崎先生の最後の言葉を伝えた。

「『道理でよく出来てる』、とも言ってましたよ。『坂上は昔から、妥協とか適当って言葉が嫌いだからな』って、笑ってました」

その言葉を聞いた瞬間、坂上先生の顔から険が取れ、ふ、と口角が上がった。
それは、自尊心を満たされた男の、傲慢で魅力的な笑みだった。

「……ふん。あいつも、内科医にしちゃあ見る目があるな」

彼はソファに深く座り直すと、満足げにネクタイを完全に引き抜いた。

「俺が指導してるんだ。お前のデータが完璧なのは当然だろ。……それをあいつごときに評価されるのも癪だが、まあ、悪い気はしない」

機嫌は完全に直ったようだ。
むしろ、「ライバルに自分の手駒の優秀さを見せつけられた」ことで、高揚しているようにさえ見える。
彼はソファの隣をポンポンと叩き、私を見上げた。

その目は、先ほどのエレベーターの中と同じ、熱を帯びた色に戻っていた。

「おい、こっちに来い。……御崎の話はもう終わりだ」



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