一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
その時、突然実験室のドアが荒々しく開き、不機嫌な足音が近づいてきた。
「おい、高橋。頼んでた試薬のリスト、まだか」
現れたのは、噂の主──坂上先生だ。
彼は私に向かって書類を突きつけようとして、隣にいる御崎先生の存在に気づき、眉を顰めた。
「……御崎?なんでお前がここにいる」
「坂上。久しぶり」
御崎先生は驚く様子もなく、ひらりと手を挙げた。
「こないだの学会、俺、途中で帰ったけど……YIA、取ったんだって? すごいな」
「……ハッ」
坂上先生は鼻で笑い、忌々しげに吐き捨てた。
「お前に言われると、ただの嫌味に聞こえるんだが」
「やめろって。煽ってないよ。純粋な賞賛だ」
御崎先生は苦笑いしながら、私のほうへ視線を流した。
「高橋さんにNGSの使い方を聞きに来てたんだ。今度俺もゲノム関連の研究する予定で。……彼女、教え方も手際もすごく優秀だな。俺のラボにも欲しいくらいだ」
「…………」
坂上先生の目が、スッと細められる。
「俺のラボにも欲しい」。その言葉に反応したのか、彼は無言で私の隣に立ち、威嚇するように腕を組んだ。
御崎先生はその空気を無視して、諭すように続けた。
「……でも、あんまりこき使うなよ」
「あ?」
「彼女、顔色が悪いぞ。優秀なのは分かるが、リソースにも限界はある。……壊してからじゃ遅いんだからな」
その言葉は、単なる「同僚への忠告」の範疇を少し越えていた。
先ほどの「恋人はロクに帰ってこない」という私の話を踏まえた、彼なりの警告、なのかもしれない。
坂上先生は舌打ちしたいのを堪えるように、ギリと奥歯を噛み締めた。
「……マネジメントに口出しするな。自分の女の心配でもしてろ」
「はいはい。お互い様だろ」
御崎先生は意味深に笑うと、「じゃあ、また」と言い残して去っていった。
嵐が去った後のような妙な静寂が残る。
坂上先生は、御崎先生の背中が見えなくなるまで睨みつけていたが、やがて私に向き直った。
「……おい」
「はい」
「あいつに余計なこと喋ってないだろうな」
「……NGSの使い方以外、何も」
嘘は言っていない。
ただ、御崎先生は勘のいい人だ。今の短いやり取りだけで、点と点を線で繋いでしまったかもしれない。
「チッ……。さっさと作業に戻るぞ」
彼は不機嫌そうに踵を返した。
その背中は、ライバルに見透かされた苛立ちと、図星を突かれた焦りで、いつもより少し小さく見えた。