一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます



突然御崎先生の白衣のポケットが震えた。

彼は「……ごめん。ちょっと」と断りを入れて、スマホを耳に当てる。

「……もしもし、桜?」

声色が、ふわりと柔らかくなる。
けれど、次に続く言葉は、その優しさを裏切るような謝罪だった。

「あぁ……悪い。今日は……遅くなると思う。うん、先に寝てていい」

電話の向こうの彼女が何かを言ったのか、彼は眉間を揉みながら、苦しげに息を吐いた。

「……ごめんな。最近、ロクに帰れてなくて」

短い通話が終わり、彼はスマホをポケットにしまう。
その背中には、大学病院で働く医師特有の、慢性的な疲労と罪悪感が滲んでいた。

「……彼女さん、ですか」

私が尋ねると、御崎先生は曖昧に笑って、遠くを見た。

「うん。……待たせてばっかりだよ」

彼は自嘲気味に呟く。

「本当はもっと、大事にしたいんだけどな」

それは、建前ではない本心だろう。
けれど、急患が入ればデートはキャンセル。論文の締め切り前なら泊まり込み。
「大事にしたい」という気持ちと、「医師としての責務」は、いつだって天秤にかけられ、後者が勝ってしまう。

御崎先生はふと、気を取り直したように私を見た。

「高橋さんは? 恋人、いるの」

私は苦笑いを浮かべた。

私の脳裏に浮かぶのは、今この瞬間もどこかの当直室か、あるいは別の実験室で目を血走らせているであろう、あの男の顔だ。 

「……御崎先生と一緒で、ロクに家に帰ってきませんよ」

私は実験台の上のマイクロチューブを並べ替えながら答えた。

「仕事人間で……仕事だと人をこき使うし、感謝の言葉より先に次の指示が飛んでくるような人です」

「……それはまた、苦労してそうだ」

「慣れました。そういう生き物だと思ってますから」

私が肩をすくめると、御崎先生はふと何か引っかかったような顔をした。

「ロクに帰らない」「人をこき使う」「仕事人間」。 

そのキーワードが、彼の知っているある人物の輪郭と重なったのだろう。

「…………それ、俺の知ってる人?」

核心を突く問い。

私は答えず、ただ曖昧に微笑んで、PCの画面に視線を戻した。

肯定も否定もしない。それが、この狭い世界で生きるための、私なりの処世術だった。







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