一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます


激動の夜が明けた。

結局、あの後も断続的に追加オーダーが飛び交い、朝日が昇る頃には、赤血球製剤だけで10単位を超える量を払い出していた。
新鮮凍結血漿や血小板を含めれば、全身の血液がそっくり入れ替わるほどの総力戦だったことになる。

「……ふあぁ」

大きくあくびを噛み殺しながら、私は重たい足取りで検査室を後にした。
徹夜明けの身体に、廊下の突き当たりから差し込む朝日が眩しすぎて、目がちかちかする。

スクラブから私服に着替え、技師としての「武装」を解くと、また頼りない大学院生に戻ってしまったような心許なさを感じた。

(あれだけの出血量で、よく止血できたな……。患者さん、助かったんだ)

冷蔵庫の在庫がスカスカになった棚を思い出しながら、ぼんやりと歩いていると──。
前方の自動販売機コーナーに、見覚えのある広い背中があった。
坂上先生だ。
手術着の上に白衣を雑に羽織り、ベンチに深く腰掛けている。
手にはブラックコーヒーの缶。
いつもの整えられた髪は少し乱れ、横顔には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。

回れ右をして逃げようかと思ったが、タイミング悪く、空になった缶をゴミ箱に投げ入れた先生と目が合ってしまった。

「……あ」

足が止まる。
先生の鋭い視線が私を捉える。
研究室の時のように「考察が浅い」と詰められるのか、それとも電話の時のように「遅い」と怒鳴られるのか。
私は身構えた。

「……お疲れ」

けれど、聞こえてきたのは、拍子抜けするほど掠れた、低い声だった。

「あ……お、お疲れ様です」
「在庫管理、助かった。おかげでなんとかなった」

坂上先生はそれだけボソッと言うと、重そうに立ち上がった。
「一回帰って寝ろよ。ラボに来るのは午後でいい」

「え……」

「あんな顔色でピペット握られても、どうせまた変なデータ出すだけだろ」

先生は口の端を皮肉っぽく歪め、私の横を通り過ぎていく。
すれ違いざま、ふわりと消毒液と、微かな血の匂いが鼻を掠めた。

「……あ、ありがとうございます。先生も、お疲れ様でした」

慌てて背中に声をかけると、先生はひらりと片手を上げただけで、振り返らずに去っていった。
私はその背中を見送りながら、もう一度、今度は少しだけ安堵の混じったあくびを漏らした。

「……午後でいい、か」

数時間の猶予をもらえたらしい。
あの鬼教官にも、人の心はわずかに残っていたようだ。
私は泥のように眠るために、アパートへと急いだ。

とりあえず、午後になったらまた、あの冷たい研究室での戦いが待っているのだから。


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