一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
暗転
彼の現実を知って以後、私は今まで以上に研究に熱を入れた。
実験室のホワイトボードに書き込まれた、無謀とも言えるスケジュールの山。
以前なら「またこんな無茶ぶりして」と溜息をついていただろう。
だが、今は違う。
(……やるしかない)
私は電動ピペットを握り直し、96ウェルプレートに試薬を注入していく。
その手つきに、迷いはもうなかった。
彼は、無給でも頑張っている。
大学病院という巨大なシステムに搾取され、生活時間を切り売りしながら、それでも外科医としての誇りと、私との未来を守ろうとしている。
あの「0円」の明細書が、私の瞼の裏に焼き付いて離れない。
あれを見せられた後では、私の抱えていた悩みなんて、あまりにもちっぽけで贅沢なものに思えた。
(……論文の著者順? 成果の配分? どうでもいい)
今まで私は、「自分の手柄が横取りされるんじゃないか」「ただの雑用係で終わるんじゃないか」と、自分のキャリアのことばかりを気に病んでいた。
御崎先生の忠告も、その不安を煽るものだった。
けれど。
今、泥舟に乗っているのは私じゃない。坂上先生の方だ。
彼を一刻も早くこの泥沼から引き上げるためには、最強のデータが必要だ。
インパクトファクターの高い論文を一本通して、彼に「医学博士」というパスポートを持たせて、この搾取の塔から脱出させる。
そのためなら、私は喜んで彼の手足になろう。
「……高橋、そのデータまだか」
「できてます。解析も終わらせておきました」
「……早ぇな」
「急ぎましょう。次の細胞の培地交換、あと10分でやりますから」
驚く坂上先生を追い越して、私は次の作業へと移る。
文句を垂れたり、悩んだりしている暇はない。
これは「搾取」じゃない。
私が選んだ、彼との「共闘」だ。
「……頼もしいこった」
背後で彼が短く笑った気配がした。
私はある種吹っ切れた心持ちで、青白い実験室の光の中、ひたすらに手を動かし続けた。