一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
共同研究室の奥。
フローサイトメーター(FACS)の低い駆動音だけが、深夜の静寂に響いていた。
私は一人、モニターに映し出されるドットプロットを凝視し続けていた。
「……よし。ゲーティング、完了」
マウスを握る手に力を込める。
このデータを解析すれば、心筋分化の効率を示す決定的な証拠になる。
坂上先生のために。彼をあの0円の地獄から救い出すために。
次のサンプルをセットしようと、椅子から立ち上がった、その時だった。
「……ッ」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
天井と床がひっくり返ったような、ひどい眩暈。
足の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる。
私は慌てて実験台の縁を掴もうとしたが、指先が滑った。
(……あ、だめ。立てない)
冷たい床に座り込む。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
(……頑張りすぎた、かな)
薄れゆく意識の中で、ここ最近の自分の体調を振り返る。
体調は、正直に言って地の底だった。
食べ物は喉を通らず、無理に食べてもすぐにトイレで吐いてしまう。
元々低い血圧が、いつも以上にひどい。朝起きるのもやっとだ。
でも、休んでいる暇なんて、ない。
私が止まれば、彼のD論が止まる。彼を救うための計画が遅れる。
それだけは避けたかった。
プシュー、というドアの開閉音が遠くで聞こえた。
誰かが入ってきた。
こんな時間に? まさか、坂上先生?
私は這うようにして顔を上げた。
薄目を開けて姿を確認すると──そこに立っていたのは、白衣を着た、よく知った人影だった。
「……うわ。ちょ、っ、高橋さん!?」
彼──御崎先生は、床にうずくまる私を見て目を見開き、血相を変えて駆け寄ってきた。
「どうしたの! 大丈夫か!?」
普段の冷静な彼からは想像もつかない、切迫した声。
彼は私の肩を抱き起こし、その顔を覗き込んだ。
「……み、御崎、先生……?」
「意識はあるな。……なんて顔色だ」
「……何でも、ありません。少し眩暈、がして……」
私は気丈に振る舞おうと、無理やり笑みを作って立ち上がろうとした。
これくらい、いつものことだ。少し休めば動ける。
しかし、御崎先生の強い手がそれを制した。
「……っ、無理に立ち上がらなくて良い! 顔色が悪すぎる」
彼は私を強く抱き留めると、その手で私の手首を取り、脈を確認した。
そして、眉間に深い皺を刻んだ。
「……脈が速いし、不整だ。……いっつもこんな時間までやってるのか? どんなブラック研究室だよ。坂上は知ってるのか」
「……ただの、夏バテです。……実験、まだ途中なので……」
私は朦朧とする意識の中で、まだ回っている機械の方へ手を伸ばそうとした。
あと少し。あと数検体流せば、データが揃う。
しかし、御崎先生はその手を遮った。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう」
そう言って、彼は躊躇なく装置の電源ボタンに手を伸ばし──強制的に、機械をシャットダウンさせた。
ブツン。
ファンの回転音が落ちていく。
今まで部屋を満たしていた低い駆動音が止み、耳が痛くなるほどの静寂が支配した。
「あ……」
止まってしまった。
私の努力も、焦りも、全てを断ち切るような静けさだった。
「……当直室のベッドにでも運ぶ。絶対安静だ」
有無を言わせぬ口調。
御崎先生は私を軽々と抱き上げると、出口へと歩き出した。
抗う力なんて、もう残っていなかった。
私はその場に崩れるように意識を手放し、彼の腕の中に深く沈んでいった。