一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
間話
「先生、お疲れ様です」
すれ違う看護師からの挨拶に、俺は短く「ああ」とだけ返して、重たい自動ドアを潜り抜けた。
マスクを外し、張り詰めていた神経を少しだけ緩める。
今日のオペも手強かったが、なんとか予定時間内に終わらせた。
(……さて)
時計を見る。深夜2時を回っている。
この後はいつも通り、一度研究室に顔を出さなきゃいけない。
「博士号(PhD)を3年で取れ」
教授の指示は絶対だ。
だが、臨床業務(激務)と並行して、基礎研究でトップジャーナルを狙うなんて、正気の沙汰じゃない。普通なら4年、下手すれば留年コースだ。
内心、「無理だろうな」と諦めかけていた時期もあった。
だが──。
(……順調すぎるな)
ここ数ヶ月、データの集まり方が異常に早い。
俺がオペに入っている間も、外勤に行っている間も、実験は止まらずに進んでいる。
それもこれも、高橋有希というパートナーの、甲斐甲斐しい献身のおかげだ。
彼女は優秀だ。俺の意図を汲み取り、先回りして準備し、完璧なデータを上げてくる。
正直、彼女がいなければ俺のD論は破綻していただろう。
(……悪いな。だいぶ無理させてる自覚はある)
俺は自販機で買ったブラックコーヒーを煽った。
今の俺には、金と結果で報いることしかできない。
(……このデータがまとまったら、今度また、高い寿司でも奢ってやろう)
あいつ、肉よりは魚が好きだと言っていた気がする。
銀座あたりの、回らない寿司。
それで彼女が喜んでくれるなら、安いもんだ。
そんな、呑気なことを考えていた時だった。
──ブブブブッ。
白衣のポケットで、PHSが短く震えた。
急患か? 病棟からの呼び出しか?
俺は眉を顰めながら、画面の表示を確認する。
そこに表示されていた名前を見て、俺は足を止めた。
『循環器内科 御崎 日向』
(……御崎?)
循環器内科のエース。出世なんて興味ない、なんて言いながら、同期で一番出世が早かった鬱陶しい男。
個人的な連絡先ならともかく、院内PHSにかけてくるなんて珍しい。
しかも、こんな深夜に。
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
「高い寿司」なんて浮ついた考えが一瞬で吹き飛び、俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『……坂上。御崎だけど』
受話器の向こうの声は、いつになく低く、そして冷え切っていた。