一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
御崎先生は思い出したようにふっと顔を上げて私を見た。
「……高橋さんさ。でも、真面目な話」
「はい?」
「循環器内科のラボ、来ない?」
あまりに唐突なスカウトに、私はきょとんとした。
「……えっと、転職、ですか?」
「いや。学位の話だよ」
彼はそう言って持っていた缶を口に運ぶ。
「修士(マスター)はまぁ、今の基礎研で修了するとして……。その先、博士課程(ドクター)まで出来れば取りたいんだろ?」
「……はい、いずれは」
「だったら、うちで取るってのはどうだ。社会人大学院枠でもいいし」
彼はまるで「ランチ行かない?」くらいの軽さで、人生の岐路を提案してきた。
循環器内科の大学院。つまり、彼の下で研究をするということ。
魅力的だが、私はすぐに苦笑して首を振った。
「いやぁ……。基礎系じゃなくて、臨床系のラボなんて、それこそ検査技師の居場所ないですよ」
それは謙遜ではなく、事実だった。
基礎医学の講座なら、理学部や農学部出身の研究者も多い。
けれど、臨床(内科や外科)の講座は、基本的に「お医者様」の世界だ。
大学院生も全員医師。カンファレンスも臨床の話ばかり。
私のようなコメディカルが入っても、ただの雑用係か、あるいは「お客様」扱いされて浮いてしまうのがオチだ。
「周りはみんなお医者さんですし……。肩身が狭いというか、会話が通じないというか」
私が難色を示すと、御崎先生は「逆だよ」と鼻で笑った。
「だからこそ、君が必要なんだ」
「え?」
「臨床の大学院生なんて、ピペットもまともに握ったことない連中ばっかりだぞ? 細胞はカビさせる、FACSの流路は詰まらせる、試薬の計算は間違える……」
彼は頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
「俺がスライド修正してる間に、実験を安心して任せられる『プロ』が一人もいないんだよ。……君みたいな、FACSもNGSも回せる即戦力が来てくれたら、俺は泣いて喜ぶね」
「は、はぁ……」
「居場所? 作ってやるよ。誰にも文句は言わせない」
彼はニヤリと笑った。
「雑用なんてさせない。純粋にデータを出してくれれば、最短3年で学位取らせてやる。……坂上のところみたいに、無駄に泥水を飲ませるような真似はさせない」
その言葉は、あまりにも甘い誘惑だった。
「守ってやる」「正当に評価してやる」。
この人の下に行けば、きっと私は安全で、確実にキャリアを積めるだろう。
「……ありがとうございます。光栄です」
私は正直に礼を言った。
でも、同時に私の脳裏には、あの不器用で、今は一人で研究室に残っている外科医の顔が浮かんでいた。
「でも……。やっぱり私は、研究するとしたら、あの人の隣がいいんだと思います」
0円の明細書と戦いながら、二人で道を切り拓くと決めたから。
御崎先生は、私の答えを予想していたのか、優しく肩をすくめた。
「……ま、そう言うと思ったよ」
彼は飲み干した缶をゴミ箱に捨てると、ゆっくりと歩きはじめた。
「気が変わったらいつでもおいで。……うちはいつでも、優秀な『戦友』を募集してるから」
そう言い残して去っていく彼の背中は、やはりどこまでもスマートで──そして、敵わないな、と思わせるほど大きかった。