一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
俺の迷いをよそに、有希はそれ以来、ぱったりと研究室に来ることは無くなった。
俺だけが、実験室に取り残された。
深夜の研究室。
彼女のデスクは綺麗に片付けられていた。
いつも置いてあったマグカップも、ひざ掛けもない。
ただ一つ、クリアファイルに入った書類の束が置かれていた。
『D論追加実験・修正案』
彼女の几帳面な文字でそう書かれた表紙をめくる。
俺は息を飲んだ。
完璧だった。
今後必要になる病理染色のスケジュール、試薬のカタログ番号、外注業者の見積もり。
そして、これまで彼女が担当していたFACSの解析手順書。
『※以後の実験は、有機溶剤を使用するため、坂上先生が実施してください』
付箋に書かれたその一文は、事務的で、突き放すようで。
まるで「私はもう、あなたの共犯者ではありません」と告げているようだった。
「……はは。なんだよ、これ」
俺は乾いた笑いを漏らした。
相談なんてない。
「どうする?」という問いかけもない。
彼女は、俺がウジウジと金やキャリアの計算をしている間に、たった一人で覚悟を決めていたのだ。
俺が「産もう」と言おうが「諦めろ」と言おうが関係ない。
彼女はこの計画書通りに、自分自身と子供を守り、俺の前から去っていく。
その書類の束は、まるでこう言っているようだった。
『私は一人でも産みます。あなたはご自由に』
「……クソッ」
俺はデスクに拳を叩きつけた。
痛みが走るが、胸の痛みに比べれば蚊に刺された程度だ。
情けない。
「時間をくれ」なんて言った自分が、死ぬほど情けない。
彼女はもう母親になっているのに、俺だけがまだ、学生気分のまま立ち止まっている。
「……待ってくれよ」
誰もいない研究室で、俺は呻くように呟いた。
その完璧すぎる引き継ぎ資料が、俺たち二人の「終わり」を示しているようで、俺は恐怖に駆られながらそのページをめくった。