一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます


実験試薬や消耗品の補充。
これらは本来、誰がやると決まっているわけではない「名もなき家事」のような仕事だ。

でも、誰かがやらないと実験は止まる。

空になったボトルを放置して帰る学生も多いけれど、臨床現場出身の私には、それがどうにも気持ち悪くて耐えられないのだ。

「次の人が困る=業務停止」という刷り込みがあるせいだろうか。
私が黙々とゲルを型に流し込んでいると、先生はデスクに戻らず、腕を組んでその作業をじっと見ていた。

「……高橋が、そうやって何でも先回りするとこ、すごいと思う」

ポツリと、独り言のように落ちてきた言葉に、私は手を止めた。

「……え?」

「こういう雑用、俺も含めてみんな見て見ぬふりをする。
『自分の実験じゃないからいいや』って後回しにして、いざ使う時になって『無い!』って騒ぐんだ」

先生は少しバツが悪そうに視線を逸らし、コーヒーを啜った。

「お前は、誰に言われなくても在庫に気づいて、次の人のために補充しておく」

「あー……それはまあ、技師の癖というか」

「それができるのは才能だ。

外科医としても、そういう『段取りが見えてる』相棒が一番ありがたい」

そこまで言ってから、先生は「……と、素直に感心しただけだ」と付け足した。

「……そうですか?」

「ああ」

普段、皮肉かダメ出ししか言わない口から出た、ストレートな肯定。

私はなんだかむず痒くなって、固まりかけたゲルの表面を見つめた。

「……ありがとうございます。
ま、先生に感謝された分、明日の細胞の世話も頑張りますよ」

照れ隠しにそう言うと、先生はフッと微かに笑った。

「期待してる。……あと、コーヒー飲むか? 淹れ直すついでだ」

「あ、じゃあ頂きます。ブラックで」

「生意気な」

先生は軽口を叩きながら、給湯室へと歩いていく。

ファンの音だけが響く深夜の研究室。


その無機質な音が、今は少しだけ心地よく感じられた。




< 8 / 80 >

この作品をシェア

pagetop