一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます
実験試薬や消耗品の補充。
これらは本来、誰がやると決まっているわけではない「名もなき家事」のような仕事だ。
でも、誰かがやらないと実験は止まる。
空になったボトルを放置して帰る学生も多いけれど、臨床現場出身の私には、それがどうにも気持ち悪くて耐えられないのだ。
「次の人が困る=業務停止」という刷り込みがあるせいだろうか。
私が黙々とゲルを型に流し込んでいると、先生はデスクに戻らず、腕を組んでその作業をじっと見ていた。
「……高橋が、そうやって何でも先回りするとこ、すごいと思う」
ポツリと、独り言のように落ちてきた言葉に、私は手を止めた。
「……え?」
「こういう雑用、俺も含めてみんな見て見ぬふりをする。
『自分の実験じゃないからいいや』って後回しにして、いざ使う時になって『無い!』って騒ぐんだ」
先生は少しバツが悪そうに視線を逸らし、コーヒーを啜った。
「お前は、誰に言われなくても在庫に気づいて、次の人のために補充しておく」
「あー……それはまあ、技師の癖というか」
「それができるのは才能だ。
外科医としても、そういう『段取りが見えてる』相棒が一番ありがたい」
そこまで言ってから、先生は「……と、素直に感心しただけだ」と付け足した。
「……そうですか?」
「ああ」
普段、皮肉かダメ出ししか言わない口から出た、ストレートな肯定。
私はなんだかむず痒くなって、固まりかけたゲルの表面を見つめた。
「……ありがとうございます。
ま、先生に感謝された分、明日の細胞の世話も頑張りますよ」
照れ隠しにそう言うと、先生はフッと微かに笑った。
「期待してる。……あと、コーヒー飲むか? 淹れ直すついでだ」
「あ、じゃあ頂きます。ブラックで」
「生意気な」
先生は軽口を叩きながら、給湯室へと歩いていく。
ファンの音だけが響く深夜の研究室。
その無機質な音が、今は少しだけ心地よく感じられた。