幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

序章『白いシュシュと、消えない不安』

朝の光がやわらかく差し込むキッチンに、
ほのかな紅茶の香りが漂っていた。

片岡由奈は、湯気の立つマグカップをゆっくり両手で包み込みながら、
テーブルに置きっぱなしになっているひとつの小さな布を見つめた。

――白いシュシュ。

ほんのり黄味がかった白。
高校生の頃、隼人が
「お前、これ似合いそうだな」
と何気なく渡してくれたものだ。

あの頃の自分は、隼人の言葉ひとつで嬉しくて、
髪を結ぶ位置まで迷ったものだった。

けれど今は、このシュシュを見るたび、胸の奥がずきりと痛む。

(……いつからだろう。
 あの人が私の髪に、触れてくれなくなったのは)

寝癖を直すために鏡の前に立っても、
隼人はいつも“少しだけ遠い”。
触れられたくて伸ばした手は、空を掴んでしまうような距離にある。

昨日も、そうだった。

家を出る直前、
由奈が「いってらっしゃい」と笑いかけたその瞬間、
隼人はふいに視線を逸らし、早足で玄関へ向かった。

振り返りもせずに閉まるドアの音だけが、
家の中に冷たく響いた。

(忙しいのは分かってる。でも……)

息を吸うたび、胸の奥が沈んでいく。
由奈はシュシュを手に取り、そっと手首に重ねた。

これをつけていると、
少しだけ隼人に触れられた日のことを思い出せる気がする。

けれど、そんな小さな願いも、
ここ最近は叶わないままだ。

隼人はいつも“優しい夫”で、
怒鳴ったり、冷たく突き放すようなことはしない。
ただ――

ただ、由奈にだけ触れない。

その理由を聞けないまま、
三年という時間が過ぎていった。

どこかで“何かを避けている”ような隼人の態度に、
由奈の心は少しずつ色を失っていく。

そのとき、
テーブルに置いたスマホが震えた。

画面に映った名前は――
“西園寺麗華”。

隼人の“幼馴染”。
最近、隼人がもっともよく微笑む相手。

(また……麗華さん)

胸が、キュンと音を立てるように痛んだ。

その痛みをごまかすように、
由奈はカップの紅茶にそっと口をつけた。
でも味は、ほとんど分からなかった。

窓の外では、穏やかな陽ざしが降りそそいでいる。
けれど由奈の心には、
晴れることのない薄い影が落ちたままだった。

――今日は、隼人と笑い合えるだろうか。
そんな希望すら、遠く感じる朝だった。
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