幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない
第1章 『隼人の微笑みは、麗華さんに向いている』
エレベーターの鏡に映った自分の顔を見て、
由奈はそっと視線を下げた。
化粧はちゃんとしてきたはずなのに、
どこか自信のない横顔に見える。
(……今日は、笑えるかな)
会社の扉を開けると、
人のざわめきとパソコンの音が一斉に耳へ流れ込んだ。
いつもと変わらない朝のはずなのに、
どこか落ち着かない。
「おはようございます」
小さな声で挨拶をしながら自分の席へ向かっていると、
ふいに女性の澄んだ声が聞こえた。
「隼人、本当にありがとう。
昨日も助かったわ」
その声が誰のものか、
由奈にはすぐ分かった。
――西園寺麗華。
足が止まりそうになるのを必死にこらえ、
振り返ることはしない。
ただ、耳が勝手にそちらへ向かってしまう。
隼人はいつもの穏やかな声で返していた。
「気にするな。困った時は言えよ。幼馴染だろ」
その言い方が、いつもより少しだけ優しかった。
(……どうして)
胸の奥が、じわりと痛む。
隼人と麗華は、幼い頃から家族同然の付き合いだ。
大人になった今でも、仕事の場でよく顔を合わせる。
それは知っていたし、理解もしていた。
けれど――
由奈に向けられない“柔らかい笑み”が、
麗華には簡単に向けられる。
隼人の横を通りかかった時、
由奈は小さく「おはようございます」と言った。
隼人は一瞬こちらを見たが、
その表情はいつもの無意識なものだった。
「おはよう。今日は早いな」
以前は一緒に出ていたのに――そんな日もいつの間にか減っていた。
淡く微笑むだけで、
どこか“距離のある夫の笑顔”。
由奈はその違いに気づき、
胸の奥でひどく切なくなる。
「この前の資料の件、手伝ってくれてありがとうね、隼人」
麗華がまた嬉しそうに笑う。
その横顔には、見慣れた自信と余裕がある。
隼人も自然に笑い返していた。
(……私には、そんな顔しないのに)
席に着いた瞬間、
由奈は指先に力を入れてデスクの端を握った。
指先が白くなるほどぎゅっと握らないと、
涙が溢れそうだった。
「片岡さん、今日の会議の資料……」
同僚の声で現実に引き戻される。
由奈は慌てて笑顔を作った。
「す、すみません。すぐ対応します」
笑ってみたけれど、
胸の奥はずっと冷たかった。
モニターの向こうで、隼人と麗華が話している気配がする。
目を向けることはできない。
向けたら、きっと泣きそうになるから。
(隼人は、私より麗華さんのほうが……話しやすいのかな)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、
息を吸うのが苦しくなる。
昼休み。
休憩室でひとりになった由奈は、
紙コップを両手で包みながら、
ポツリとつぶやいた。
「……私、何がいけないんだろう」
そんな答えの出ない問いばかりが、
静かに胸を締めつけてゆく。
そこへ、休憩室のドアが開いた。
入ってきたのは――麗華。
「あら、由奈さんも休憩?」
柔らかい笑顔。
けれどその瞳の奥に、冷たい光が一瞬だけ走る。
「隼人、今日も忙しそうね。
……でも大丈夫よ。私が支えてあげるから」
その言い方は、
あたかも“妻である由奈にはできないことを、私が代わりにしている”――
そんな意味を含んでいるように聞こえた。
由奈は笑えなかった。
紙コップを持つ手が、かすかに震えた。
「……そうですか」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
麗華は気づかないふりをして、
軽やかな足取りで部屋を出ていった。
由奈はしばらく動けなかった。
隼人の笑顔が麗華に向けられるたび、
心が削られていく。
(私、隼人の“妻”なのに)
視界がじんわりと滲んだ。
誰にも見られないように、
由奈はそっと俯いた。
――隼人の笑顔が、自分だけに向けられない朝。
それは、三年目にして初めて経験する“痛み”だった。
由奈はそっと視線を下げた。
化粧はちゃんとしてきたはずなのに、
どこか自信のない横顔に見える。
(……今日は、笑えるかな)
会社の扉を開けると、
人のざわめきとパソコンの音が一斉に耳へ流れ込んだ。
いつもと変わらない朝のはずなのに、
どこか落ち着かない。
「おはようございます」
小さな声で挨拶をしながら自分の席へ向かっていると、
ふいに女性の澄んだ声が聞こえた。
「隼人、本当にありがとう。
昨日も助かったわ」
その声が誰のものか、
由奈にはすぐ分かった。
――西園寺麗華。
足が止まりそうになるのを必死にこらえ、
振り返ることはしない。
ただ、耳が勝手にそちらへ向かってしまう。
隼人はいつもの穏やかな声で返していた。
「気にするな。困った時は言えよ。幼馴染だろ」
その言い方が、いつもより少しだけ優しかった。
(……どうして)
胸の奥が、じわりと痛む。
隼人と麗華は、幼い頃から家族同然の付き合いだ。
大人になった今でも、仕事の場でよく顔を合わせる。
それは知っていたし、理解もしていた。
けれど――
由奈に向けられない“柔らかい笑み”が、
麗華には簡単に向けられる。
隼人の横を通りかかった時、
由奈は小さく「おはようございます」と言った。
隼人は一瞬こちらを見たが、
その表情はいつもの無意識なものだった。
「おはよう。今日は早いな」
以前は一緒に出ていたのに――そんな日もいつの間にか減っていた。
淡く微笑むだけで、
どこか“距離のある夫の笑顔”。
由奈はその違いに気づき、
胸の奥でひどく切なくなる。
「この前の資料の件、手伝ってくれてありがとうね、隼人」
麗華がまた嬉しそうに笑う。
その横顔には、見慣れた自信と余裕がある。
隼人も自然に笑い返していた。
(……私には、そんな顔しないのに)
席に着いた瞬間、
由奈は指先に力を入れてデスクの端を握った。
指先が白くなるほどぎゅっと握らないと、
涙が溢れそうだった。
「片岡さん、今日の会議の資料……」
同僚の声で現実に引き戻される。
由奈は慌てて笑顔を作った。
「す、すみません。すぐ対応します」
笑ってみたけれど、
胸の奥はずっと冷たかった。
モニターの向こうで、隼人と麗華が話している気配がする。
目を向けることはできない。
向けたら、きっと泣きそうになるから。
(隼人は、私より麗華さんのほうが……話しやすいのかな)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、
息を吸うのが苦しくなる。
昼休み。
休憩室でひとりになった由奈は、
紙コップを両手で包みながら、
ポツリとつぶやいた。
「……私、何がいけないんだろう」
そんな答えの出ない問いばかりが、
静かに胸を締めつけてゆく。
そこへ、休憩室のドアが開いた。
入ってきたのは――麗華。
「あら、由奈さんも休憩?」
柔らかい笑顔。
けれどその瞳の奥に、冷たい光が一瞬だけ走る。
「隼人、今日も忙しそうね。
……でも大丈夫よ。私が支えてあげるから」
その言い方は、
あたかも“妻である由奈にはできないことを、私が代わりにしている”――
そんな意味を含んでいるように聞こえた。
由奈は笑えなかった。
紙コップを持つ手が、かすかに震えた。
「……そうですか」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
麗華は気づかないふりをして、
軽やかな足取りで部屋を出ていった。
由奈はしばらく動けなかった。
隼人の笑顔が麗華に向けられるたび、
心が削られていく。
(私、隼人の“妻”なのに)
視界がじんわりと滲んだ。
誰にも見られないように、
由奈はそっと俯いた。
――隼人の笑顔が、自分だけに向けられない朝。
それは、三年目にして初めて経験する“痛み”だった。