幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

第10章 『隼人の無意識の嫉妬』

カフェを出たあとも、
隼人は由奈の手を離さなかった。

強く握るわけではない。
でも――
“逃がさない”と言わんばかりの、
はっきりとした主張が込められていた。

夕方の人混みを歩く隼人の横顔は、
普段よりもずっと険しい。

由奈は何度も声をかけようとしたが、
喉がうまく動かない。

(あの……どうしたら……
機嫌、直るんだろう……)

足元ばかりを見つめながら歩いていると、
ふいに隼人が立ち止まった。

由奈の手首を、軽く引く。

「……さっきの男」

由奈の心臓が跳ね上がる。

(元彼の……祐真さん……)

隼人は真正面から見つめてくる。
その眼差しには、
いつもの穏やかさが影も形もなかった。

「どういう関係だ?」

静かな声。
けれど“怒り”が混じった低い熱がある。

「え……あ、あの……大学のときの知り合い、で……」

由奈が苦しそうに答えると、
隼人の眉がぴくりと動いた。

「……知り合い?」

低く呟き、
視線を落とす。

その声の奥には、
完全な不信が滲んでいた。

由奈は胸が締めつけられ、
俯くしかなかった。

「……本当に、ただの知り合い、です。
そんな、特別な人じゃ……」

言いかけたとき、
隼人が由奈のあごをそっと持ち上げた。

まるで、自分から逃げるのを許さないように。

「……じゃあ何で、
あいつは由奈の名前を呼ぶ?」

由奈の息が止まる。

(き、聞こえてたんだ……あのとき……)

隼人はゆっくりと目を細めた。

「“由奈”なんて、
夫の俺しか呼んでいないはずだろ」

その言葉は、
嫉妬を自覚していない人間が口にするには
あまりにも独占的だった。

由奈は何も言えなかった。
ただ胸がぎゅっと苦しくなる。

隼人は怒っているのではなく――
なぜか、傷ついているようにも見えた。

「……呼ばせたくない」

低く、呟くような声。
本心がこぼれ落ちるような言い方だった。

由奈は胸の奥がじん、と熱くなる。

(隼人さん……
どうしてそんな顔……)

けれど、由奈は勇気を出せない。

もし真実を言えば――
“祐真からつけられた傷のこと”
“泣く女が嫌いと言われた過去”


全部話さなくてはいけなくなる。

そんなの……恥ずかしくて、情けなくて。

「……ごめんなさい」

か細い声でそう言うと、
隼人は驚いたように息を呑んだ。

「由奈、なんで謝るんだ」

「わ、私が……悪いんです。
きっとまた……迷惑で……」

そう言った瞬間。

隼人の表情から
サッと怒りが消えた。

代わりに現れたのは、
深い、深い困惑。

「迷惑……?
由奈が?」

由奈は下を向いたまま
小さく頷いた。

隼人は言葉が出ないように沈黙する。

けれど、その沈黙には
“自分の知らない由奈の傷”に触れてしまった
戸惑いが滲んでいた。

静かに、深く呼吸をひとつしたあと、
隼人は少しだけ歩み寄るように言った。

「……帰るぞ。
話は、後でいい」

その声は少しだけ柔らかかった。
けれどまだ奥には熱がある。

手を伸ばしてきた隼人の指が、
由奈の手を包む。

その手は温かいのに――
不安と緊張で、由奈の指先は冷たかった。

隼人は気づかない。

ただ無意識に、
由奈の手を離さないように強く握った。

由奈はその温度を感じながら、
胸に刻む。

――隼人さん、どうしてそんなに
“他の男”に反応するの……?

その答えはまだ分からない。

だがこのとき、
隼人の心の奥では
確かに“独占欲”が静かに燃え上がり始めていた。
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