幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない
第27章 『祐真の誘い、隼人の焦り』
深夜。
外の街はすでに眠り始めている。
静まり返ったリビングで、
由奈はソファに座ったまま、
スマホの画面を見つめていた。
《祐真:少し話せるか?》
画面の文字が胸を刺す。
(……話したくない
でも……無視もできない)
震える指先でスマホを握りしめた。
その横で、隼人は静かに立っていた。
由奈の様子をじっと見つめ、
何か言いたげに唇を開きかける。
しかし、
もう“どう声を掛ければいいのか”
わからなかった。
(俺が言うたびに……由奈は怯える。
泣きそうになる。
どうしたら……由奈を傷つけずに済む?
わからない……)
胸が締めつけられる。
そして、
その沈黙こそが
由奈の不安をさらに煽った。
(……隼人さん、怒ってる?
私……また迷惑かけてる……?)
由奈はそっと立ち上がった。
「……お水、取ってきます」
逃げたような声。
隼人の胸がぐっと痛んだ。
(逃げないでほしい……
俺から……離れないでほしい)
しかし、手は伸びない。
伸ばせない。
また震えられるのが怖いから。
⸻
キッチンに行った由奈のスマホが、
テーブルの上で再び光った。
隼人の目に通知が入る。
《祐真:心配だから言ってる》
胸が冷たくなる。
(……心配?
由奈のどこを、何を知っている?
何を知っているつもりだ)
隼人の拳が音もなく握られる。
そのとき、後ろから由奈が戻ってきた。
隼人は咄嗟に画面を隠したが、
もう遅い。
由奈の顔色が変わる。
「……見ましたか?」
隼人は苦しげに息をついた。
「悪かった。
でも……正直に言ってほしい」
「……何を……?」
目が揺れる。
隼人は、声を抑えながらも言った。
「祐真に……何を言われてるんだ?」
由奈はまた俯いた。
言えない。
祐真に言われた“弱点”が、
まだ胸を痛めつけていた。
――泣く女って、ほんと面倒なんだよ。
――由奈は重い。
――怒られるのが怖いだけだろ?
(隼人さんに……言えない……
こんな私を、軽蔑される……)
沈黙。
隼人の胸がまた裂ける。
(……どうして俺には言わない。
俺じゃ……頼りにならないのか?)
怒りでも嫉妬でもなく、
ただ悲しかった。
「……由奈」
声が震える。
「俺が……怖いのか?」
由奈は強く首を振った。
「違う……違うんです……違います……」
「じゃあ言ってほしい。
祐真が……お前に何をしているのか」
その“お前”という呼び方に
由奈はわずかに肩を震わせた。
隼人はすぐ気づき、
唇を噛んだ。
(ああ……また震えさせた……)
言葉が喉で止まる。
そこへ——
スマホが鳴った。
着信。
画面にははっきりと 祐真 の名前。
由奈は凍りついた。
隼人の心臓が跳ね上がる。
(今……このタイミングで……?)
緊張が走る。
「……出るなよ」
隼人の声は低く、
しかし震えていた。
由奈はうつむき、
そっと画面を押して着信を切ろうとした瞬間——
メッセージが届く。
《外にいる。話したい》
隼人の目が見開かれた。
(……外?
家の近くにいる……?)
血が逆流するような怒りが全身に走る。
「……っ、由奈。
ここにいろ」
隼人は玄関へ向かった。
由奈の影も祐真の影も、
すでに限界の線を越えていた。
隼人がドアを開けた瞬間。
外灯の下に、
祐真が立っていた。
両手をポケットに突っ込み、
薄く笑って。
まるで挑発するように。
「よ。
ずいぶん早く出てきたな、旦那さん」
隼人の拳が静かに震える。
「……何の用だ」
祐真は肩をすくめた。
「ただ“由奈が心配だっただけ”。
泣いてたからな。
お前のせいで」
隼人の目が鋭く燃えた。
祐真は楽しそうに続ける。
「昔から泣き虫なんだよ、由奈って。
俺は慣れてたけど?」
その一言が——
隼人の最後の理性を揺らした。
「……二度と言うな」
低い声。
抑えきれない怒りが滲む。
祐真は笑う。
「お、いい反応するじゃん。
で?
そんなに“大切”なら、ちゃんと抱いてやれよ」
隼人の呼吸が止まる。
(……こいつ……)
拳を握りしめた音が微かに鳴った。
祐真はさらに追い打ちをかける。
「触りもしないで、何が夫だよ?
そりゃ……俺のほうが由奈を分かってるだろ」
その瞬間——
隼人の拳が、無意識に一歩前へ踏み込んだ。
殴りかけたその手を、
ギリギリのところで止めたのは。
「隼人さんっ!!」
由奈だった。
泣きそうな顔で、
必死に腕を掴んで止めていた。
「だめ……です……!」
隼人は拳を下ろす。
しかし震えが止まらない。
由奈の手も震えている。
祐真は満足げに笑った。
「ほらな?
泣くだけで、簡単に止まる」
由奈の肩がびくりと跳ねた。
隼人は振り返り、
由奈を抱きしめたい衝動に駆られた。
(泣かせたくない……
守りたい……
けど、触れたら……また怯えるかもしれない)
手が、由奈の肩の上で止まった。
また触れられない。
祐真はそれを見て、
さらに笑う。
「ふーん。
やっぱり触れないんだ?」
隼人の目に、
深い焦りと苦しみが揺れた。
祐真は一歩後ずさり、
背を向けながら最後に言った。
「じゃあ……代わりに、俺が貰うよ」
隼人の呼吸が止まる。
由奈は蒼白になった。
夜風が吹く。
三人の影が揺れた。
そしてこの夜、
隼人の中で何かが確実に壊れ、
祐真の中で何かが確実に燃え上がった。
夫婦の危機は、
もうすぐ目に見える形で迫っていた。