幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

第30章 『仕組まれた誤解』

午後二時。
社内の空気は落ち着いているのに、
由奈の胸の鼓動だけがそわそわと落ち着かない。

(……隼人さん、今日早く帰るって言ってたけど……
無理していないかな)

昨夜、隼人に抱きしめられたときの
震える腕を思い出す。

(私のせいで……
隼人さんが苦しんでる……)

胸が痛む。

そのときだった。

スマホが震えた。

ピッ

送り主:麗華
件名:なし

由奈は嫌な胸騒ぎを覚えつつ、
画面を開いた。



《隼人が、誰かと話していた。
奥さんのこと、かなり悩んでるみたいだった》

《“距離を置いたほうがいいかもしれない”って言ってた》



由奈の呼吸が止まった。

(……うそ……
隼人さん、そんな……)

胸がぎゅっと苦しくなる。

(昨日……
“離れないで”って言ってくれたのに……)

手が震える。

しかし、続くメッセージはもっと酷かった。



《あなたのために言ってるの。
隼人、疲れてる。
今はそっとしてあげて》



心臓の奥が、じわっと冷えていく。

(……私、負担なんだ……
やっぱり……)

視界が揺れ、
机の端をそっと掴んだ。

そのころ――。



隼人のスマホにも
一通のメッセージが届いていた。

送り主は 祐真。

隼人は眉をひそめ、
迷わず開く。



《由奈、倒れそうだった》
《昼休みに見かけて声をかけた。
泣きそうで、かなり限界だったぞ》



隼人の体が硬直する。

(由奈……限界?
なぜ……俺には言わない)

胸がざわつく。

震える指でスクロールすると、
さらにメッセージが続いていた。



《大事なのは、由奈のほうだ。
無理に一緒にいようとするな》

《お前といると、由奈が壊れる》



その一文が
隼人の胸を鋭くえぐった。

(……俺といると……
由奈が壊れる……?)

昨日、泣き崩れた由奈の姿が
まざまざと浮かぶ。

(俺のせいで……
由奈が泣いた)

(俺が……弱いから)

(俺が……触れられないから)

深い罪悪感の影が、
じわりと胸を覆いつくす。

そのとき。

祐真から、最後の一撃が届く。



《離してやったほうがいい》
《本当に由奈を大事にしたいなら》



隼人は、
スマホを強く握りしめた。

(本当に……
由奈のためになるのは……
俺が……離れることなのか?)

頭が真っ白になる。

言葉よりも先に、
胸が痛んだ。



その頃、由奈もまた
麗華の二通目を受け取っていた。



《隼人はね……
“自分じゃ由奈さんを支えきれない”って言ってた》



由奈の目から、
ぽろりと涙が零れた。

(そんな……そんなの……
言ってくれればよかった……)

さらに“三通目”が追い打ちをかける。



《今夜は帰らないほうがいい。
隼人も、そうしてほしいと思ってる》



(……帰らないほうがいい?)

(隼人さんが……そう思ってる……?)

胸の奥がぐしゃっとつぶれる。

昨日抱きしめられた温もりが、
まるで嘘のように思えてしまう。

(私のほうが……
勘違いだったの……?)

涙が止まらない。



夕方。
雨の匂いのする風が吹き始める。

隼人は一人、
エレベーター前に立っていた。

(今日、早く帰るって言ったのに……
帰って……いいのか?)

祐真の言葉が胸に刺さり続ける。

――お前といると、壊れる

――離してやったほうがいい

隼人は深く息を吸い込んだ。

(由奈のために……
俺が離れたほうが……いい?)

ジャケットの袖が震える。

(違う……違うはずなのに……
わからない……)



同じ頃、
由奈はマンションへ向かう足を止めていた。

エントランスの前で、
傘を握り締めたまま俯く。

(帰らないほうがいい……
隼人さんが、そう望んでる……?)

昨日の温度が胸で崩れていく。

(私が……隼人さんの重荷になってるなら……
そばにいたら、迷惑なら……)

唇が震える。

「……どうしたら……いいの……?」

雨が少し落ちてきた。

由奈の頬を濡らすのは
涙なのか雨なのかわからなかった。

そしてその様子を
少し離れた場所から見ている影があった。

麗華だ。

薄い笑みを浮かべたまま、
雨に濡れる由奈を見つめていた。

「――完璧」

そう呟き、
ゆっくりと踵を返す。

そしてこの夜、
由奈と隼人は“すれ違ったまま”
同じ家に戻れなくなる。

仕組まれた誤解は、
ついに夫婦を引き裂き始めた。
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