幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

第8章 『由奈の小さな嘘』

家に帰ると、
部屋の中には、ほんのりと隼人の香りが残っていた。

けれど本人の姿はなく、
灯りだけが優しく部屋を照らしている。

(……今日も、遅い)

もう驚くほどのことではないはずなのに、
胸の奥がチクリと痛む。

コートを脱ぎ、
キッチンに向かうと、
カウンターの上に
隼人からの置きメモがあった。

──急な外回り。夕飯は気にしなくていい。

丁寧で、優しい。
けれど、その優しさが
今の由奈には遠い。

(外回り……麗華さんと)


胸の真ん中がぎゅっと締めつけられる。



夜遅く、
玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま」

隼人の声。
いつも通り、落ち着いた声――
だけど、どこか疲れているようだった。

由奈はすぐに玄関へ向かった。

「おかえりなさい。
ご飯は……食べましたか?」

「うん。向こうで軽く済ませた。
遅くなって悪かったな」

そんなやり取りは
何度目かも分からない。

隼人はブリーフケースを置きながら
由奈の顔をちらりと見た。

「……目、赤いぞ?」

由奈はとっさに
目元を指で押さえた。

「ほ、ほこりが入っただけです……」

そんなわけない。
自分でもわかっている。

でも、
本当のことを言ったら――

“私、不安で泣いていました”
“あなたを疑いそうになって苦しかったです”

そんな弱さを見せたら、
隼人に迷惑をかけてしまう。
重いと思われてしまうかもしれない。



「大丈夫です。……」

そう言って、笑ってしまう。

嘘だと自分で分かっている
小さな嘘。

隼人は気づかない。
優しい顔で「そうか」と頷くだけ。

(気づいて……ほしかったのに)

由奈は胸の奥で
小さくつぶやいた。



その後、
隼人はシャワーに向かった。

バスルームから流れてくる水音。
壁ごしのその音に耳を澄ませながら、
由奈は自分の胸へ手を当てる。

(どうして……もう少しだけでも、
私の気持ちに気づいてくれないんだろう)

隼人は優しい。
だからこそ、
その優しさを向けてもらえない自分が
痛いほど惨めに思えてしまう。

洗面台で水をすくい、
涙の跡を消す。

隼人に見つからないように。

(私が弱いから、いけない……)

そう信じ込んでしまう。



シャワーを終えた隼人が戻ってきた。

髪から滴る水滴をタオルで拭きながら、
ふいに由奈の手首を見つめた。

「……それ、最近よくつけてるな」

視線の先には、
白いシュシュ。

由奈の心臓が跳ねた。

でも――
その意味には気づかず、隼人は軽く笑う。

「似合ってる。……おやすみ」

それだけ言って、
寝室へ向かってしまう。

背中が遠ざかっていく。

由奈はその場で、
そっと目を閉じた。

(気づかないんだ……
これが“あなたがくれたもの”だって)

触れれば分かる距離にいるのに。
言葉にすれば届くはずなのに。

小さな嘘が
胸の中で膨らんでいく。

――“大丈夫”なんて、
本当はひとつも大丈夫じゃない。

けれどその夜も、
由奈はその嘘を飲み込みながら
ひとり、静かに眠った。
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