秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

第10章:思わぬ接近

四角関係の兆しが水面下で蠢く中、雪菜の日常に、悠真との「思わぬ接近」が訪れた。それは、公私を問わず、以前よりもはるかに個人的な形で、二人の距離を縮めていくきっかけとなる。

ある日、雪菜が勤務するデザイン部門で、新たな大手プロジェクトが立ち上がった。内容は、片桐財閥が新たに展開する複合商業施設のメインビジュアル制作。そのプロジェクトの監修者として、総合プロデュース部門から派遣されてきたのが、一条悠真だった。

「片桐さん、今日からこのプロジェクトの監修を務めさせていただく、一条です。どうぞよろしくお願いします」
悠真は、会議室で、社員たちの前でそう挨拶した。雪菜は、彼の姿を見た瞬間、胸が大きく跳ねた。まさか、彼が、自分の直属のプロジェクトの監修者として現れるとは、夢にも思っていなかった。

「片桐さん、庶務だけでなく、デザインの資料作成も担当してもらうと聞いている。頼りにしているよ」
悠真の視線が、一瞬だけ雪菜に向けられる。その言葉は、あくまで業務上のものだったが、雪菜の心には、特別な響きをもって届いた。

それからというもの、雪菜は悠真と顔を合わせる機会が格段に増えた。資料の打ち合わせ、進捗報告、アイデア出し。二人きりで話す時間も、以前とは比較にならないほど多くなった。

ある日の午後、他の社員が会議に出ている間、雪菜と悠真だけがオフィスに残っていた。雪菜は黙々と資料を整理し、悠真は自分のPCで別の作業を進めている。静寂が支配する空間で、キーボードの打鍵音だけが響く。
「片桐さん、少し聞いてもいいかな」
不意に、悠真が声をかけた。
「はい、何でしょうか」
雪菜は緊張しながら答える。

「君は、デザインの仕事に興味があるのか?」
「ええ…元々、絵を描いたり、美術館に行ったりするのが好きでしたので。この部署で働かせてもらえて、毎日が新鮮です」
雪菜は、自分のささやかな趣味について語った。
悠真は、雪菜の言葉に静かに耳を傾けた。

「そうか。君は、そういう繊細な感性を持っていると思っていた」
彼の言葉に、雪菜は驚いた。自分の内面を、こんなにも正確に言い当てられるとは思っていなかったからだ。
「悠真さんは…どうしてこのお仕事を?」
雪菜も意を決して尋ねた。

「私は、財閥の跡取りとして、この道を選ぶべく教育されてきた。だが、最初はただの義務感だけだった」
悠真は、珍しく本心を語るように言った。
「しかし、様々な事業に携わるうちに、一つ一つの仕事に込められた人の想いや、それが社会に与える影響の大きさを知った。だから今は、この仕事に、誇りを持っている」

彼の言葉には、単なるビジネスマンではない、深い思慮と情熱が感じられた。
それは、雪菜が知っていた「姉の許嫁」という顔とは違う、一条悠真という一人の人間の、秘められた内面だった。

「悠真さんも…色々、大変だったのですね」
雪菜は、自然と悠真に寄り添うような言葉を口にしていた。
悠真は、ふっと穏やかに微笑んだ。
「ああ。だからこそ、今があると思っている。君も、いずれ自分の道を見つけられると思うよ」

二人の間に流れる空気は、これまでになく穏やかで、親密なものだった。仕事の話から始まり、お互いの人生観や価値観に触れる個人的な会話。それは、まるで、二人の間に存在する見えない壁が、少しずつ薄れていくようだった。

雪菜は、悠真の言葉一つ一つに、心が温かくなるのを感じた。こんな風に、彼と個人的な会話ができる日が来るなんて、夢にも思わなかった。ドキドキする心臓の音を抑えながら、雪菜は、この時間が永遠に続けばいいと、心の中で願った。

しかし、同時に雪菜は自分に言い聞かせた。これはあくまで仕事だ。彼は監修者で、私は担当者。この接近は、業務上の都合でしかない。そう、自分に言い聞かせるほどに、心の奥底で芽生え始めた特別な感情は、熱を帯びていく。
その日の夕方、オフィスを出て一人歩く雪菜の足取りは、いつになく軽かった。

悠真との距離が縮まったことへの喜び。
しかし、その喜びは、やがて大きな波となって、彼女の人生を揺るがすことになるだろう。

雪菜は、その予感に、まだ気づかないふりをしていた。
この淡い期待と、罪悪感の入り混じった感情が、一体どこへ向かうのか。
物語は、静かに、しかし確実に、新たな展開へと歩み始めていた。
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