秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

第9章:四角関係の兆し

遥斗からの告白、悠真の優しい視線、そして志穂と悠真の確かな絆。雪菜の周囲を取り巻く感情の渦は、まるで嵐の前の静けさのように、水面下で複雑に絡み合い始めていた。それぞれの登場人物の視線が、微妙に交錯し、一見穏やかな日常の中に、確かなひずみが生まれつつあった。

ある日の夕食会。片桐家と一条家が一堂に会する、年に数回の定例会だった。華やかな雰囲気のダイニングルームで、和やかに会話が交わされる。
「雪菜さん、最近どうだい?仕事は慣れたか?」
一条家の当主、悠真の父が優しく尋ねる。
「はい、おかげさまで。少しずつですが、できることも増えてきました」

雪菜ははにかんで答えた。
その時、悠真の視線が、一瞬だけ雪菜に向けられた。その視線は、父の質問に応じる雪菜の控えめな姿を、じっと見守るようだった。その視線に、雪菜は胸の奥が温かくなるのを感じた。しかし、その直後、悠真の隣に座る志穂が、雪菜に笑顔を向けた。

「雪菜は、本当に真面目なのよ。私とは大違いでね」
志穂はそう言って笑ったが、その言葉には、どこか雪菜を「庇護すべき存在」と捉えるような響きがあった。
会話は移り変わり、仕事の話になった。

「一条さん、先日立ち上がった新しいプロジェクト、素晴らしいですね。私も参加したいぐらいです」
志穂が悠真に向かって、前のめり気味に話しかける。その熱意に、悠真も穏やかに応じる。二人の間には、ビジネスパートナーとしても、そして婚約者としても、確固たる信頼関係が築かれているのが見て取れた。

雪菜は、そんな二人の姿を静かに見つめていた。その傍らで、ふと、ある出来事が脳裏をよぎった。
数日前、会社で偶然、遥斗と悠真が言葉を交わしているのを見かけた。遥斗が雪菜のデスクで話しかけていたところに、たまたま悠真が通りかかったのだ。

「西園寺君、君は片桐さんの同僚だったね」
悠真は穏やかな声でそう言ったが、その瞳には、一瞬だけ鋭い光が宿っていたように雪菜には見えた。
「はい、一条様。いつも片桐さんにはお世話になっております」

遥斗は笑顔で返したが、その表情には、どこか警戒するような色が混じっていた。
二人の間に流れた、わずかな緊張感。それは、雪菜の錯覚ではなかったはずだ。
あの時、遥斗は雪菜に、夕食の誘いをしていた最中だった。悠真は、その会話をどこまで聞いていたのだろうか。
「雪菜、どうしたの?あまり食が進んでいないようだけど」

母の声に、雪菜ははっと我に返った。
「いえ、大丈夫です、お母様」
雪菜は慌てて笑顔を作った。
志穂は、遙斗が雪菜にアプローチしていることに、全く気づいていないようだった。彼女の視線の先にあるのは、常に悠真ただ一人。その無邪気なまでの幸福感が、雪菜の胸を締め付ける。

悠真は、再び雪菜に目を向けた。その瞳には、何かを言いたげな、しかし言葉にはできない葛藤のようなものが浮かんでいるように見えた。彼は、遥斗が雪菜に抱いている感情に、そして、遥斗が雪菜にとって「好意を寄せている同僚」であることに、気づいているのだろう。

そして、もしかしたら、雪菜の心の中の揺れ動きにも、薄々感づいているのかもしれない。
四人の視線が、目に見えない糸で結ばれ、複雑な模様を描き出す。

志穂は悠真だけを見つめ、悠真は志穂への責任感と、雪菜への微かな感情の間で揺れる。雪菜は悠真に片思いを抱きながら、遥斗からの純粋な好意に戸惑う。そして遥斗は、雪菜の心を手に入れるべく、静かに、しかし着実に接近していた。

このまま、穏やかに見えていた関係は、いつか崩れ去ってしまうのだろうか。
雪菜は、自分の手が汗ばんでいることに気づいた。
まだ誰も、核心には触れていない。

しかし、水面下では、確かに複雑な四角関係の兆しが、静かに、しかし確実に芽生え始めていた。
その兆しが、やがて大きな嵐を呼ぶことも知らずに、彼らはそれぞれの場所で、揺れる心と向き合っていた。
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