豆の音がつなぐ恋 波音文庫カフェの交換日記
第1話 交換日記の朝
波の匂いが少しだけ混じる朝の空気が好きだ。駅前の商店街を抜けて二本目の路地。古い木の引き戸に小さな看板――「波音文庫カフェ」。私、桜都は今日からここで働く。
引き戸を開けると、紙と珈琲の香りがいっぺんに来た。壁一面の本棚と、真ん中に並ぶ木のテーブル。奥のカウンターでは、背の高い男性が、開店準備のチェックリストを片手に黙々と動いている。
髪はきれいに整っていて、シャツの袖をきっちり二回まくっている。仕事の邪魔をしたくないくらい集中しているのに、周囲の棚や椅子の位置まで目が届いている感じがした。
「おはようございます。今日からお世話になります、桜都です」
男の人は、ぱっと顔を上げた。目が合った瞬間、空気が一段引き締まる。
「おはよう。颯亮だ。来てくれて助かる。まずは店の流れを説明する」
言葉は丁寧だけど、余白がない。必要なことだけを、迷いなく並べる声。
私は背筋を伸ばし、頷いた。
――この人が店長の颯亮さん。商店街でも「合理的で頭の切れる若旦那」みたいに噂されている人、らしい。
カウンターの向こうで、もう一人の男性が静かに豆を量っていた。眼鏡越しの視線は柔らかいのに、まるで早朝の湖みたいにどこか深い。
彼は私に気づくと、軽く会釈をした。
「優範です。朝が得意なので、だいたい一番に来ます」
自己紹介が短いのに、説明が端的で心地いい。
目立ちはしないけれど、内側に整った世界がある人だと、なんとなく伝わってくる。
そこへ、勢いよく裏口のドアが開いた。
「おっはよーございまーす! 今日の私は“新しい学びを三つ入れる女”です!」
明るい声と一緒に、ショートカットの女性が飛び込んできた。
細かいアクセサリーも服の色も、昨日と違う。本人の宣言どおり、毎日なにか更新されていく人なのだろう。
「匡世です。桜都さん、はじめまして。ここ、最初はやること多く見えるけど、慣れたら楽しいから。揉めごとになりそうな時は私に振ってね」
笑いながら言うのに、ちゃんと相手の立場を考えた言い方をしてくれる。
私は気が抜けて、少し笑ってしまった。
朝礼みたいなものはない代わりに、颯亮さんはテーブルに一冊の分厚いノートを置いた。茶色い表紙に、黒いペンで大きく「みんなで交換日記」と書いてある。
「今日からこれを回す。店を良くするための意見、気づいたこと、困ったこと、なんでも書け」
まるで会計帳みたいな勢いで言うので、私は思わず聞き返した。
「交換日記、ですか?」
「会話だと抜けが出る。俺は全体を見て判断したいから、各自の視点を毎日拾う」
なるほど、颯亮さんらしい。
けれど“拾う”という言い方に少しだけ引っかかった。
見落としがないように、取りこぼしがないように――そんな意図があるんだろうけど、そこに“気持ち”が載るかどうかは、また別の話だ。
匡世さんが手を挙げた。
「いいね! ただ、堅くすると書かなくなる人が出るから、たまに“今日の小さな嬉しいこと”とか入れようよ。お客さんネタでも、スタッフ同士でも」
「……それは、必要なら」
颯亮さんの返事は一拍遅れて、ほんの少し柔らかかった。
私はその変化に気づいて、心の中で小さく頷いた。
頑固な人ではない。合理のためなら、感情の価値もちゃんと計算できる人。
そこからは怒涛の準備だった。
パンを温め、器を磨き、棚の帯を直して、入口の花瓶の水を換える。
私が花を整えていると、カウンター方向から「シュッ、シュッ」という変な音が聞こえた。
「……優範、ミルクの泡、変じゃないか?」
「え、今朝はちゃんと温度を測って――」
振り向くと、優範さんがスチームノズルと真剣に格闘していた。
ミルクピッチャーから出てきた泡は、きめ細かいというより、どこか“はくしゅ”に近い。
颯亮さんの眉間がじわりと寄る。
「昨日、フィルター掃除したのか?」
その言い方は正しくて、店長として当然なのだけれど。
優範さんは答えようとして、言葉に詰まった。
彼の指先が少し赤いのに気づいた。早朝からずっと準備していた手だ。
私は反射みたいに間に入っていた。
「まだ何も言わないで、颯亮さん」
自分でも驚くくらい、すっと声が出た。
颯亮さんが眉を上げる。
「……桜都?」
「優範さん、指、火傷してます。スチームの熱、いつもより強い気がします。機械の方を先に見るほうが早いかもしれません」
私がそう言うと、優範さんはハッとした顔で手を引っ込めた。
颯亮さんは一瞬だけ私を見て、それから機械に視線を移した。
「……了解。優範、手を冷やして。匡世、朝の一杯目用にドリップ準備。桜都は入口のメニューを整えてくれ」
指示が飛ぶ。
けれど、声の温度はさっきより落ち着いている。
優範さんは「すみません」と小さく言って、氷水に手を入れた。
私は入口に向かいながら、胸の中が小さく震えるのを感じた。
怒る前に状況を見る。責める前に相手を守る。
たったそれだけの順番で、空気ってこんなに変わるんだ。
開店時間。
一番乗りのお客さんは、ランドセルの小学生二人だった。
匡世さんがしゃがんで目線を合わせ、スタンプカードを見せる。
優範さんは片手を冷やしながらも静かにドリップを落とし、香りがカフェの隅まで広がった。
颯亮さんはレジ横で、店内全体の流れを見守っている。
私はカウンターから店内を見渡した。
この店は、ただ珈琲を出す場所じゃない。
本を選ぶ時間、知らない人と隣り合う時間、ちょっとした会話で心が軽くなる時間。
そういう“静かな良さ”がここにはある。
ふと、例のノートがカウンターの端に置かれているのが目に入った。
表紙の「みんなで交換日記」が、朝の光を受けて少しだけ眩しい。
私は胸の内で決めた。
このノートのページには、改善点だけじゃなくて、ここで起きた小さな幸せもちゃんと書こう。
それが、店を守りたい颯亮さんの“全体”に、きっと必要な色になる。
忙しさの合間に、颯亮さんが私の横に立った。
手元の伝票を確認しながら、ぼそっと言う。
「さっきは……助かった」
顔を上げると、彼は少しだけ目尻を緩めていた。
真面目な人が不器用に出す“ありがとう”は、妙に胸に残る。
「いえ。私は、見えたことを言っただけです」
「それが、難しいんだよ」
その言葉は店内の雑音に紛れていったけれど、私にははっきり届いた。
難しい、と言えたこの人は、きっと変われる。
私は、エプロンのポケットからペンを取り出した。
交換日記の最初のページに、そっと文字を書く。
『第一日目。開店前の泡が、拍手みたいになりました。
でも、拍手が出るほど頑張った手がここにあります。
怒る前に見つめ合えた朝でした。』
書き終えた瞬間、なぜだか笑ってしまった。
今日は、いい一日になりそうだ。
引き戸を開けると、紙と珈琲の香りがいっぺんに来た。壁一面の本棚と、真ん中に並ぶ木のテーブル。奥のカウンターでは、背の高い男性が、開店準備のチェックリストを片手に黙々と動いている。
髪はきれいに整っていて、シャツの袖をきっちり二回まくっている。仕事の邪魔をしたくないくらい集中しているのに、周囲の棚や椅子の位置まで目が届いている感じがした。
「おはようございます。今日からお世話になります、桜都です」
男の人は、ぱっと顔を上げた。目が合った瞬間、空気が一段引き締まる。
「おはよう。颯亮だ。来てくれて助かる。まずは店の流れを説明する」
言葉は丁寧だけど、余白がない。必要なことだけを、迷いなく並べる声。
私は背筋を伸ばし、頷いた。
――この人が店長の颯亮さん。商店街でも「合理的で頭の切れる若旦那」みたいに噂されている人、らしい。
カウンターの向こうで、もう一人の男性が静かに豆を量っていた。眼鏡越しの視線は柔らかいのに、まるで早朝の湖みたいにどこか深い。
彼は私に気づくと、軽く会釈をした。
「優範です。朝が得意なので、だいたい一番に来ます」
自己紹介が短いのに、説明が端的で心地いい。
目立ちはしないけれど、内側に整った世界がある人だと、なんとなく伝わってくる。
そこへ、勢いよく裏口のドアが開いた。
「おっはよーございまーす! 今日の私は“新しい学びを三つ入れる女”です!」
明るい声と一緒に、ショートカットの女性が飛び込んできた。
細かいアクセサリーも服の色も、昨日と違う。本人の宣言どおり、毎日なにか更新されていく人なのだろう。
「匡世です。桜都さん、はじめまして。ここ、最初はやること多く見えるけど、慣れたら楽しいから。揉めごとになりそうな時は私に振ってね」
笑いながら言うのに、ちゃんと相手の立場を考えた言い方をしてくれる。
私は気が抜けて、少し笑ってしまった。
朝礼みたいなものはない代わりに、颯亮さんはテーブルに一冊の分厚いノートを置いた。茶色い表紙に、黒いペンで大きく「みんなで交換日記」と書いてある。
「今日からこれを回す。店を良くするための意見、気づいたこと、困ったこと、なんでも書け」
まるで会計帳みたいな勢いで言うので、私は思わず聞き返した。
「交換日記、ですか?」
「会話だと抜けが出る。俺は全体を見て判断したいから、各自の視点を毎日拾う」
なるほど、颯亮さんらしい。
けれど“拾う”という言い方に少しだけ引っかかった。
見落としがないように、取りこぼしがないように――そんな意図があるんだろうけど、そこに“気持ち”が載るかどうかは、また別の話だ。
匡世さんが手を挙げた。
「いいね! ただ、堅くすると書かなくなる人が出るから、たまに“今日の小さな嬉しいこと”とか入れようよ。お客さんネタでも、スタッフ同士でも」
「……それは、必要なら」
颯亮さんの返事は一拍遅れて、ほんの少し柔らかかった。
私はその変化に気づいて、心の中で小さく頷いた。
頑固な人ではない。合理のためなら、感情の価値もちゃんと計算できる人。
そこからは怒涛の準備だった。
パンを温め、器を磨き、棚の帯を直して、入口の花瓶の水を換える。
私が花を整えていると、カウンター方向から「シュッ、シュッ」という変な音が聞こえた。
「……優範、ミルクの泡、変じゃないか?」
「え、今朝はちゃんと温度を測って――」
振り向くと、優範さんがスチームノズルと真剣に格闘していた。
ミルクピッチャーから出てきた泡は、きめ細かいというより、どこか“はくしゅ”に近い。
颯亮さんの眉間がじわりと寄る。
「昨日、フィルター掃除したのか?」
その言い方は正しくて、店長として当然なのだけれど。
優範さんは答えようとして、言葉に詰まった。
彼の指先が少し赤いのに気づいた。早朝からずっと準備していた手だ。
私は反射みたいに間に入っていた。
「まだ何も言わないで、颯亮さん」
自分でも驚くくらい、すっと声が出た。
颯亮さんが眉を上げる。
「……桜都?」
「優範さん、指、火傷してます。スチームの熱、いつもより強い気がします。機械の方を先に見るほうが早いかもしれません」
私がそう言うと、優範さんはハッとした顔で手を引っ込めた。
颯亮さんは一瞬だけ私を見て、それから機械に視線を移した。
「……了解。優範、手を冷やして。匡世、朝の一杯目用にドリップ準備。桜都は入口のメニューを整えてくれ」
指示が飛ぶ。
けれど、声の温度はさっきより落ち着いている。
優範さんは「すみません」と小さく言って、氷水に手を入れた。
私は入口に向かいながら、胸の中が小さく震えるのを感じた。
怒る前に状況を見る。責める前に相手を守る。
たったそれだけの順番で、空気ってこんなに変わるんだ。
開店時間。
一番乗りのお客さんは、ランドセルの小学生二人だった。
匡世さんがしゃがんで目線を合わせ、スタンプカードを見せる。
優範さんは片手を冷やしながらも静かにドリップを落とし、香りがカフェの隅まで広がった。
颯亮さんはレジ横で、店内全体の流れを見守っている。
私はカウンターから店内を見渡した。
この店は、ただ珈琲を出す場所じゃない。
本を選ぶ時間、知らない人と隣り合う時間、ちょっとした会話で心が軽くなる時間。
そういう“静かな良さ”がここにはある。
ふと、例のノートがカウンターの端に置かれているのが目に入った。
表紙の「みんなで交換日記」が、朝の光を受けて少しだけ眩しい。
私は胸の内で決めた。
このノートのページには、改善点だけじゃなくて、ここで起きた小さな幸せもちゃんと書こう。
それが、店を守りたい颯亮さんの“全体”に、きっと必要な色になる。
忙しさの合間に、颯亮さんが私の横に立った。
手元の伝票を確認しながら、ぼそっと言う。
「さっきは……助かった」
顔を上げると、彼は少しだけ目尻を緩めていた。
真面目な人が不器用に出す“ありがとう”は、妙に胸に残る。
「いえ。私は、見えたことを言っただけです」
「それが、難しいんだよ」
その言葉は店内の雑音に紛れていったけれど、私にははっきり届いた。
難しい、と言えたこの人は、きっと変われる。
私は、エプロンのポケットからペンを取り出した。
交換日記の最初のページに、そっと文字を書く。
『第一日目。開店前の泡が、拍手みたいになりました。
でも、拍手が出るほど頑張った手がここにあります。
怒る前に見つめ合えた朝でした。』
書き終えた瞬間、なぜだか笑ってしまった。
今日は、いい一日になりそうだ。
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