豆の音がつなぐ恋 波音文庫カフェの交換日記
第2話 ノートの余白に咲くもの
朝の潮風が少し冷たくなってきた。波音文庫カフェの入口の黒板に、私は季節の小さな絵を描く。どんぐりと、なぜかシュークリーム。
匡世さんがそれを見つけて吹き出した。
「どんぐりとシューって、並べる意味ある?」
「うーん、秋らしさと甘さの共存、みたいな……」
「はいはい、桜都さんの優雅な感性ね。私、好きよ。意味がふわっとしてるのも」
意味がふわっとしてる、は褒め言葉だろうか。匡世さんの笑顔を見る限り、褒め言葉だ。
そんな会話をしていると、優範さんがいつものように静かに裏から出てきた。手には新しいペーパーフィルターの束。
「昨日のスチーム、パッキンが少し劣化してました。今朝替えたので大丈夫です」
相変わらず短く要点だけ。しかも早い。
颯亮さんは既にカウンターで開店前の流れを頭の中で並べ終えた顔をしていた。
「ありがとう。交換日記に整備記録も残しておいてくれ」
「はい」
昨日、私が書いた最初のページに続いて、優範さんの字が丁寧に並んでいた。
それを見て、思わずうれしくなる。
“みんなで交換日記”が、ただの業務連絡ではなくなりつつある証拠だ。
開店して一時間ほどしたころ、入口の鈴がぱたぱたと元気に鳴った。
現れたのは、商店街の八百屋さんの奥さん二人と、近所の高校生らしい女子三人。カフェ奥の円卓が一瞬で満席になった。
「今日はね、ここで“読書会”やろうと思ってさ」
奥さんの一人が笑いながら言った。
読書会。つまり、本を持ち寄っておしゃべりしながら読む会。
私は頷き、席と飲み物を案内しようとしたのだけれど――
「すみません、店の中央テーブルは予約が入ってますか?」
颯亮さんの確認が入った。
目が店全体を一巡する。彼の“全体を見て判断する”癖は、こういう時に頼もしい。
「予約はないです。ただ、円卓が満席だと中央も使いたいって言われるかもしれません」
「了解。中央は空けて回転を確保したい。あの人数なら、奥の棚側の補助椅子を出そう」
「出すの、私やりますよ」
私が言うと、匡世さんがひょいと横に来て、耳元でささやいた。
「店長、こういう時ちょっとピリッとするから、上手く包んであげてね」
確かに。颯亮さんは合理のための変更には強いけれど、予定外の増員にはやや硬くなる。
私は補助椅子を出しながら、奥さんたちに声をかけた。
「こちら、棚側に椅子をもう二つ置けます。円卓が少し広くなるので、よかったらどうぞ」
「助かるわあ。桜都ちゃん、ほんと気が利くね」
こういう一言は、じんわり効く。
私は軽く頭を下げ、カウンターへ戻った。
ところが、その五分後。
ふと店内がざわついたかと思うと、円卓のほうから「ごめんなさーい!」という声。
振り向くと、高校生の一人が手を上げ、テーブルの上に水とカフェラテが広がっていた。
しかも、濡れているのはテーブルだけじゃない。
円卓の端に積んであった本――「店内閲覧用」の小説とエッセイが、見事に波打っている。
「うわ、マジでやば……」
高校生の顔が青くなる。
奥さんたちも固まっている。
その瞬間、颯亮さんがすっと近づいた。
表情は読み取りにくいけれど、動きはすばやい。
布巾とトレーを持ち、濡れた本を手に取る前に、まずテーブルの水を拭い始めた。
「大丈夫。まず手を拭いて。熱いのがかかった人はいない?」
声は硬い。けれど、責める響きがない。
高校生が首を振ると、颯亮さんは本をそっと持ち上げた。
「この本はうちの大切なものだ。だけど、誰にでも失敗はある。次は気をつけよう」
短い言葉。
でも、そこに“順番”があった。
私が昨日言ったことを、彼はちゃんと覚えている。
高校生は何度も頭を下げた。
元気のいい女子、さっきまで笑い声を上げていた女子たちが、しゅんと猫背になるのが見える。
私は横に並び、柔らかい声で足した。
「この本、乾かせば読めます。少し時間はかかるけれど、また戻ってきますよ。よかったら、代わりに別の本をご案内しましょうか」
女子たちの表情が少し緩んだ。
奥さんの一人が、息を吐く。
「ねえ、店長さん。私らが気をつけて見てたらよかったわ」
「いえ、こちらも混み合う時間の配慮が足りなかった。読書会、楽しんでください」
颯亮さんがそう返すのを、私は少し驚いて眺めた。
彼は、原因をひとつに決めつけない。
“全体”を見て、責任の置き場所を現実的に選ぶ。
だけど、言い方がちゃんと相手を守っている。
片づけが落ち着いたあと、優範さんが静かに濡れた本を受け取り、厨房の奥で乾燥用の紙を挟み始めた。
その手つきが驚くほど丁寧で、私はつい見入ってしまう。
「……本、好きなんですね」
小さく言うと、優範さんは目を伏せたまま頷いた。
「父が古書店をやっていたので。濡れた紙の匂いが、少し懐かしい」
懐かしい、という言葉のあとに、彼は何も足さない。
でも、その沈黙が、どこか温かく響いた。
昼過ぎ。店に短い静けさが戻ったころ、私は交換日記を開いた。
匡世さんのページに、丸い字でこんなふうに書かれていた。
『今日の小さな嬉しいこと。
店長が“怒らない順番”を守ってた。ちょっと感動。
桜都さんの「乾かせば戻ってくる」は良い言葉。真似する。』
私は笑ってしまった。
その下には、優範さんの整備記録と、濡れた本の処置のメモ。
そして、颯亮さんの短い一文。
『混雑時の円卓導線を再検討。
桜都の対応が早かった。ありがとう。
次回は水の位置とトレーの置き方を改善する。』
“ありがとう”が文字になっている。
たったそれだけで、胸のあたりがじわっと熱くなるのは、なぜだろう。
私はその余白に、そっと返事を書いた。
『怒らない順番、店に合っていました。
少しずつ育てていきましょう。
それと、店長の声は意外と優しいです。』
書き終えて顔を上げた瞬間、カウンター越しに颯亮さんと目が合った。
彼はレジ整理の手を止めていないのに、視線だけはまっすぐこちらに向いている。
「何か書いた?」
「はい。ちょっとだけ」
「……あとで読む」
それだけ言って、彼は視線を戻した。
でも耳が少し赤い。
私は気づかないふりをして、わざとメニュー表の角を整えた。
夕方、最後のお客さんが帰って、店の灯りを少し落とす時間。
片づけながら、颯亮さんがふいに言う。
「桜都」
「はい」
「今日は……俺、ちゃんとできてたか?」
彼の目は珍しく迷いの色を含んでいた。
合理の仮面の下にある、不器用な人の顔。
私は少しだけ笑って、答えた。
「できてました。怒る前に見て、言う前に守っていました」
「そうか」
短い返事。
でも肩から力が抜けたのが分かる。
店のドアを閉めたあと、潮風がまた頬を撫でた。
私たちは並んで歩き、商店街の角まで来る。
颯亮さんは、そこでもう一度こちらを見た。
「……交換日記、続けていけそうだな」
「はい。きっと、うまくいきます」
そう言った私の声は、自分でも驚くほど自然だった。
うまくいく、という言葉の中に、店のことだけじゃない何かが混じっていた気がする。
颯亮さんはそれに気づいたのか、気づいていないのか。
薄い夕焼けの中で、少しだけ口元をゆるめた。
帰り道、私は胸の中でそっと思った。
この店の余白に、言葉が増えるたび。
私たちの距離も、少しずつ変わっていくのかもしれない、と。
匡世さんがそれを見つけて吹き出した。
「どんぐりとシューって、並べる意味ある?」
「うーん、秋らしさと甘さの共存、みたいな……」
「はいはい、桜都さんの優雅な感性ね。私、好きよ。意味がふわっとしてるのも」
意味がふわっとしてる、は褒め言葉だろうか。匡世さんの笑顔を見る限り、褒め言葉だ。
そんな会話をしていると、優範さんがいつものように静かに裏から出てきた。手には新しいペーパーフィルターの束。
「昨日のスチーム、パッキンが少し劣化してました。今朝替えたので大丈夫です」
相変わらず短く要点だけ。しかも早い。
颯亮さんは既にカウンターで開店前の流れを頭の中で並べ終えた顔をしていた。
「ありがとう。交換日記に整備記録も残しておいてくれ」
「はい」
昨日、私が書いた最初のページに続いて、優範さんの字が丁寧に並んでいた。
それを見て、思わずうれしくなる。
“みんなで交換日記”が、ただの業務連絡ではなくなりつつある証拠だ。
開店して一時間ほどしたころ、入口の鈴がぱたぱたと元気に鳴った。
現れたのは、商店街の八百屋さんの奥さん二人と、近所の高校生らしい女子三人。カフェ奥の円卓が一瞬で満席になった。
「今日はね、ここで“読書会”やろうと思ってさ」
奥さんの一人が笑いながら言った。
読書会。つまり、本を持ち寄っておしゃべりしながら読む会。
私は頷き、席と飲み物を案内しようとしたのだけれど――
「すみません、店の中央テーブルは予約が入ってますか?」
颯亮さんの確認が入った。
目が店全体を一巡する。彼の“全体を見て判断する”癖は、こういう時に頼もしい。
「予約はないです。ただ、円卓が満席だと中央も使いたいって言われるかもしれません」
「了解。中央は空けて回転を確保したい。あの人数なら、奥の棚側の補助椅子を出そう」
「出すの、私やりますよ」
私が言うと、匡世さんがひょいと横に来て、耳元でささやいた。
「店長、こういう時ちょっとピリッとするから、上手く包んであげてね」
確かに。颯亮さんは合理のための変更には強いけれど、予定外の増員にはやや硬くなる。
私は補助椅子を出しながら、奥さんたちに声をかけた。
「こちら、棚側に椅子をもう二つ置けます。円卓が少し広くなるので、よかったらどうぞ」
「助かるわあ。桜都ちゃん、ほんと気が利くね」
こういう一言は、じんわり効く。
私は軽く頭を下げ、カウンターへ戻った。
ところが、その五分後。
ふと店内がざわついたかと思うと、円卓のほうから「ごめんなさーい!」という声。
振り向くと、高校生の一人が手を上げ、テーブルの上に水とカフェラテが広がっていた。
しかも、濡れているのはテーブルだけじゃない。
円卓の端に積んであった本――「店内閲覧用」の小説とエッセイが、見事に波打っている。
「うわ、マジでやば……」
高校生の顔が青くなる。
奥さんたちも固まっている。
その瞬間、颯亮さんがすっと近づいた。
表情は読み取りにくいけれど、動きはすばやい。
布巾とトレーを持ち、濡れた本を手に取る前に、まずテーブルの水を拭い始めた。
「大丈夫。まず手を拭いて。熱いのがかかった人はいない?」
声は硬い。けれど、責める響きがない。
高校生が首を振ると、颯亮さんは本をそっと持ち上げた。
「この本はうちの大切なものだ。だけど、誰にでも失敗はある。次は気をつけよう」
短い言葉。
でも、そこに“順番”があった。
私が昨日言ったことを、彼はちゃんと覚えている。
高校生は何度も頭を下げた。
元気のいい女子、さっきまで笑い声を上げていた女子たちが、しゅんと猫背になるのが見える。
私は横に並び、柔らかい声で足した。
「この本、乾かせば読めます。少し時間はかかるけれど、また戻ってきますよ。よかったら、代わりに別の本をご案内しましょうか」
女子たちの表情が少し緩んだ。
奥さんの一人が、息を吐く。
「ねえ、店長さん。私らが気をつけて見てたらよかったわ」
「いえ、こちらも混み合う時間の配慮が足りなかった。読書会、楽しんでください」
颯亮さんがそう返すのを、私は少し驚いて眺めた。
彼は、原因をひとつに決めつけない。
“全体”を見て、責任の置き場所を現実的に選ぶ。
だけど、言い方がちゃんと相手を守っている。
片づけが落ち着いたあと、優範さんが静かに濡れた本を受け取り、厨房の奥で乾燥用の紙を挟み始めた。
その手つきが驚くほど丁寧で、私はつい見入ってしまう。
「……本、好きなんですね」
小さく言うと、優範さんは目を伏せたまま頷いた。
「父が古書店をやっていたので。濡れた紙の匂いが、少し懐かしい」
懐かしい、という言葉のあとに、彼は何も足さない。
でも、その沈黙が、どこか温かく響いた。
昼過ぎ。店に短い静けさが戻ったころ、私は交換日記を開いた。
匡世さんのページに、丸い字でこんなふうに書かれていた。
『今日の小さな嬉しいこと。
店長が“怒らない順番”を守ってた。ちょっと感動。
桜都さんの「乾かせば戻ってくる」は良い言葉。真似する。』
私は笑ってしまった。
その下には、優範さんの整備記録と、濡れた本の処置のメモ。
そして、颯亮さんの短い一文。
『混雑時の円卓導線を再検討。
桜都の対応が早かった。ありがとう。
次回は水の位置とトレーの置き方を改善する。』
“ありがとう”が文字になっている。
たったそれだけで、胸のあたりがじわっと熱くなるのは、なぜだろう。
私はその余白に、そっと返事を書いた。
『怒らない順番、店に合っていました。
少しずつ育てていきましょう。
それと、店長の声は意外と優しいです。』
書き終えて顔を上げた瞬間、カウンター越しに颯亮さんと目が合った。
彼はレジ整理の手を止めていないのに、視線だけはまっすぐこちらに向いている。
「何か書いた?」
「はい。ちょっとだけ」
「……あとで読む」
それだけ言って、彼は視線を戻した。
でも耳が少し赤い。
私は気づかないふりをして、わざとメニュー表の角を整えた。
夕方、最後のお客さんが帰って、店の灯りを少し落とす時間。
片づけながら、颯亮さんがふいに言う。
「桜都」
「はい」
「今日は……俺、ちゃんとできてたか?」
彼の目は珍しく迷いの色を含んでいた。
合理の仮面の下にある、不器用な人の顔。
私は少しだけ笑って、答えた。
「できてました。怒る前に見て、言う前に守っていました」
「そうか」
短い返事。
でも肩から力が抜けたのが分かる。
店のドアを閉めたあと、潮風がまた頬を撫でた。
私たちは並んで歩き、商店街の角まで来る。
颯亮さんは、そこでもう一度こちらを見た。
「……交換日記、続けていけそうだな」
「はい。きっと、うまくいきます」
そう言った私の声は、自分でも驚くほど自然だった。
うまくいく、という言葉の中に、店のことだけじゃない何かが混じっていた気がする。
颯亮さんはそれに気づいたのか、気づいていないのか。
薄い夕焼けの中で、少しだけ口元をゆるめた。
帰り道、私は胸の中でそっと思った。
この店の余白に、言葉が増えるたび。
私たちの距離も、少しずつ変わっていくのかもしれない、と。