豆の音がつなぐ恋 波音文庫カフェの交換日記

第3話 推し本はどれですか

 朝の仕込みが終わるころ、颯亮さんが一枚の紙を掲げた。コピー用紙に、細かい字でびっしりと表が引かれている。

「来週、商店街の店どうしで“本をすすめ合う一週間”をやる。うちはカフェだから、飲み物と一緒におすすめ本を並べて、感想カードを置く」

 私は耳を澄ませた。
 商店街の人たちが、各店で一冊ずつ“推しの本”を紹介する。読んだ人は隣の店でも別の本に出会える。そんな流れらしい。

「おすすめ本、店で一冊決めるんですか?」

「そうだ。今日中に候補を出して、明日決めたい」

 颯亮さんの指先が紙の端をきっちり揃える。目標と締切があると、彼はさらに冴える。
 匡世さんが横からのぞき込み、笑った。

「うわ、店長の表、分刻み。今日のうちに決めたいの、分かるけどさ。選ぶときは、もうちょい“胸がきゅん”も入れようよ」

「胸がきゅん、は後回しでもいい。基準は、店の客層と回転率と——」

「まだ何も言わないで」

 私の声が先に出た。
 言ったあとで少し恥ずかしくなったけれど、引っ込めない。

「……桜都?」

「基準は大事です。でも、本って、数字だけで選ぶと“置きたい気持ち”が抜けちゃいます。ここに来る人の、今日の心に合うものを選びたいです」

 颯亮さんは一息、言葉を飲んだ。
 いつものように反論が来ると思ったのに、彼は紙を置き、私の顔を見た。

「……具体的に、何がいいと思う?」

 そう聞いてくれたこと自体が、少しうれしい。
 私は店内を見回した。棚には新刊も古い名作もある。来る人は年齢層が広い。読書会をする奥さんたち、放課後に寄る高校生、仕事帰りの一人客。

「“読んだあとに誰かに優しくしたくなる本”がいいと思います。笑って、ちょっと泣けて、明日が軽くなる感じ」

 匡世さんがぱちんと指を鳴らす。

「いいねえ。じゃ、候補を持ち寄る? みんなで交換日記に一冊ずつ書いて、理由も書こうよ」

「了解。今日の閉店までに各自書く。俺も書く」

 颯亮さんが、妙に真剣な顔で言った。
 私はその真剣さに、なぜか笑いそうになる。
 彼が“推し本”なんて言葉を使う姿が、ちょっと想像できないのだ。

 昼の混みどきが過ぎたあと、優範さんが静かに棚の前に立っていた。
 小さく背伸びして、上段の奥から一冊抜き取る。
 その動きがとても丁寧で、私は声をかけた。

「優範さん、何を選ぶんですか?」

「……迷ってます」

 迷う、なんて言う人だろうか。
 優範さんは本を胸に抱えたまま、少し考えてから言った。

「父の古書店に、よく来ていた人がいまして。実は、僕が小さいころ、母がいない時期があったんです。言葉にできない寂しさのとき、その人が“この本、今の君に合うよ”って置いていってくれた」

 彼は、表紙をそっと撫でた。

「読んだらね、寂しさが消えたわけじゃないのに、居場所ができた気がしたんです。……だから、ここにも置きたい」

 そう言って、少しだけ微笑んだ。
 私は胸がきゅっとしたまま頷いた。

「すごく、ここに合いそうですね」

 優範さんは“ありがとう”の代わりに、軽く会釈をした。
 静かな人の言葉ほど、重みがある。

 夕方前。
 私はレジ前の小さなテーブルで、候補の本を二冊選び、付箋を挟んでいた。
 その横で、颯亮さんが珍しく腕を組んで唸っている。

「……決められない」

「え?」

「候補が多すぎる。店に合う本と、俺が好きな本が、必ずしも一致しない」

 颯亮さんが、困った顔をする。
 こんな顔、初めて見たかもしれない。
 合理の人が、本の前で立ち尽くすのは、なんだか可笑しい。

「颯亮さんって、本、たくさん読むんですね」

「読む。……というか、子どものころから逃げ場所が本だった」

 ふいに彼の声が少し低くなった。
 私は慌てて、軽く受け止めるように言った。

「逃げ場所、いいじゃないですか。本はそういう場所ですよね」

「そうだな」

 短い返事のあと、彼は棚から一冊引いた。
 装丁が少し古い、温かい色の本だ。

「これ、どう思う?」

 私が表紙を見ていると、匡世さんがスッと寄ってきた。
 そして、にやり。

「へえ、店長がその本選ぶんだ。意外」

「意外って何だ」

「だって、恋とか家族とか、そういう話でしょ? もっと硬い実用書選ぶと思った」

「……俺だって、そういうの読む」

 ぼそっと言う颯亮さんの耳が、うっすら赤い。
 匡世さんは声を潜め、私にだけ聞こえるように囁いた。

「ね、桜都さん。店長、こういう“自分の好き”を出すの苦手なのよ。交換日記で書くとき、たぶん照れて変な文章になる」

「変な文章?」

「“この本は有用である”みたいな感想書き出す。見てて面白いよ」

 匡世さんは笑いをこらえている。
 私はちょっとだけ想像して、確かに、と思った。

 閉店後。
 掃除を終えた私たちはカウンターに集まり、交換日記を回した。
 最初に匡世さん。

『候補:タイトルは秘密。
 読んだ人が“自分のドジもまるごと好きになれる”お話。
 笑って、涙がにじんで、明日会う人に優しくしたくなる。』

 次に優範さん。

『候補:父の店にあった一冊。
 寂しい夜に、手のひらを温めてくれるような文章。
 読むと、ここにいていいと思える。』

 そして、私。

『候補:雨の日を好きになれる話。
 心の角がゆっくり丸くなる。
 読み終えたら、温かいミルクティーが飲みたくなる本。』

 最後に、颯亮さんがペンを握った。
 ……握ったまま、止まった。
 肩が微妙に固い。

「えっと……」

 匡世さんがニヤニヤしながら促す。

「店長、ほら、書いて。気持ち、気持ち」

「気持ちは……ある」

「じゃ、言語化」

 颯亮さんは唇を引き結び、ようやく書き始めた。
 書いている最中、眉間にしわが寄ったりほどけたりして、見ているこちらが妙にドキドキする。
 数分後、彼はノートを閉じ、無言で差し出した。

 私たちは顔を寄せて読む。
 そこには、少し硬いけれど、彼なりの精一杯が並んでいた。

『候補:古い小説。
 登場人物が失敗するたび、周りの人がちゃんと手を貸す。
 読後、他人の弱さを許せる気がした。
 ……俺も、そうなりたいと思った。』

 一瞬、空気が止まる。
 匡世さんが最初に息を吐き、にやっと笑った。

「はい、優勝。店長、今の一文、すごく良い」

 優範さんも小さく頷く。

「……店長の“そうなりたい”は、もう半分なってると思います」

 颯亮さんがきょとんとして、そして少しだけ目を逸らした。

「……そうか?」

「そうです」

 私も、まっすぐ言った。
 颯亮さんは、照れ隠しみたいにノートを受け取り、ページを戻した。

「明日、三冊に絞って、客の反応を見て決めよう。味見シールを作る」

 また合理の声に戻ったけれど、その裏の温度が明らかに違う。

 帰り支度をして店を出ると、夜の商店街に灯りが点々と続いていた。
 颯亮さんが鍵を確認しながら、少し小さな声で言う。

「さっきの“好きな本と店に合う本が一致しない”って話、変だったか」

「変じゃないです」

 私は歩幅を合わせた。

「店のための目と、自分のための目、どっちも持ってるってことだから。むしろ、素敵だと思います」

 颯亮さんは黙ったまま、夜空を見上げた。
 それから、ぽつり。

「……俺、言葉にするのが下手だな」

「上手じゃなくても、伝わりましたよ」

「伝わった?」

「はい。 “俺もそうなりたい”ってところ」

 言った瞬間、彼の足がほんの少し止まった。
 振り向くと、街灯の下で、彼の横顔が少し柔らかくなっている。

「桜都」

「はい」

「……ありがとう」

 その声は、今日いちばん優しかった。
 私は胸の奥に温かいものが広がるのを感じながら、軽く笑う。

「どういたしまして。明日、その本、棚の一番いい場所に置きましょう」

 彼は小さく頷いた。
 商店街の灯りの列が、私たちの足元を静かに照らしていた。
 ノートの余白みたいに、まだ書かれていない日々が、すぐそこに続いている。
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