豆の音がつなぐ恋 波音文庫カフェの交換日記
第4話 投票箱と雨の匂い
商店街の朝は早い。魚屋の氷を叩く音、八百屋の威勢のいい声、パン屋の甘い匂い。それらが混ざり合って、波音文庫カフェの入口に小さな波みたいに押し寄せてくる。
今日から七日間、商店街の各店が“自分の推す一冊”を店先で紹介する。うちも三冊の候補を並べ、来た人に味見みたいに手に取ってもらい、気に入った本に一票を入れてもらう流れになった。
カウンター横の棚に、候補の三冊。
その前には、透明なガラス瓶が三つ並んでいる。
それぞれの瓶の横に小さな木札。
一つ目が匡世さんの推し。
二つ目が優範さんの推し。
三つ目が颯亮さんの推し。
瓶の中には、色の違う珈琲豆が少しずつ入っている。
投票用の豆は、白い小皿に山盛り。
気に入った本の瓶に豆を一粒落とす。その“ちゃりん”とした音で、店の空気が少しだけ楽しくなる、という仕掛けだ。
「分かりやすくて可愛いですね」
私が言うと、匡世さんは胸を張った。
「でしょ。目で見て楽しいって大事。店長の“効率第一”を、可愛いで包んでみた」
「包むのはいいが、瓶が割れたら危ない。子どもが走り回る時間帯は位置を変える」
颯亮さんが即座に言い、瓶の位置を数センチだけ奥へずらす。
そこまでやるんだ、と思うのに、不思議と嫌味がない。
むしろ、誰も困らないための数センチ。
「店長、いい感じ。守りの数センチ、好き」
匡世さんの軽口に、颯亮さんは小さく咳払いして、視線をそらした。
開店して少し。
最初に来たのは、いつもの小学生二人組。
ランドセルのまま、まっすぐ本棚へ行き、今朝並べた候補に気づくと、目を輝かせた。
「うわ、なにこれ! 豆?」
「ねえねえ、これ入れていいの?」
私はしゃがんで説明する。
「うん。気になった本の瓶に豆を一粒入れてね。どれが一番人気か、みんなで決めるんだよ」
「やるー!」
二人は三冊を交互に持ち上げ、表紙を見比べ、ああでもないこうでもないと真剣に悩み始めた。
その姿があまりに可愛くて、優範さんが奥でこっそり笑っているのが見えた。
ところが。
悩んだ末、片方の男の子が豆をつまみ――そのまま口に入れた。
「……にがっ!」
店内が一瞬、静止。
次の瞬間、匡世さんが吹き出し、私は慌てて駆け寄った。
「食べちゃだめだよ! それ珈琲豆だから!」
「え、だってチョコみたいだった!」
男の子は涙目で舌をぺろぺろしている。
颯亮さんがすっと近づき、冷たい水のコップを差し出した。
「水飲んで。大丈夫、死なない」
言い方が真顔すぎて、逆に笑いが起きた。
男の子が水を飲んでようやく落ち着くと、颯亮さんは真剣に瓶の前の札を見た。
「投票用の豆は、食べられません、と書き足す」
「いや、そこ書いても食べる子は食べるって」
匡世さんが肩を揺らして言う。
そのやり取りに、男の子たちもつられて笑った。
結局二人は、匡世さんの瓶に一粒ずつ落とし、得意げに帰っていった。
午前中はそんな調子で、豆の“ちゃりん”が絶えなかった。
奥さんたちは「この本、昔読んだわあ」と懐かしがり、
高校生たちは「表紙かわいい」と写真を撮り、
働き盛りの男性は「短いのがいい」と迷わず選び、
それぞれの手の中で本が“今日の一冊”になっていく。
豆の数は、夕方になるにつれて一定の差をつけ始めた。
颯亮さんの瓶が、少しだけ先行している。
「店長の本、人気だねえ」
匡世さんがニヤっとする。
颯亮さんはレジを打ちながら、ぶっきらぼうに返した。
「たまたまだ」
「たまたまって言う顔じゃないよ」
「……」
耳がまた赤い。
私はその横で、こっそり笑いを噛み殺した。
そんな中、夕方の風が少し強くなったころ。
入口の鈴が、控えめに鳴った。
入ってきたのは、背が低めの年配の男性。
黒い帽子を深くかぶり、手には使い込まれた革の鞄。
歩き方が慎重で、店内を見渡す目がどこか懐かしそうだ。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、男性は小さく頷き、候補の三冊の前で足を止めた。
そして、颯亮さんの推しの本を手に取り、表紙をじっと見た。
「……これ、まだ置いてある店があったんだな」
独り言みたいに言って、男性はページをめくる。
その指の動きが、まるで昔の友だちに触れるみたいに優しい。
私はそっと近づいた。
「その本、よくご存じなんですか?」
男性は顔を上げて、少し驚いたように笑った。
「若い頃、よく読んだ。あの頃は、こればかり棚から引き抜いてね。
……“読み終わったら、他人に優しくしたくなる本”だ」
その言葉に、私は胸がふわっと温まった。
まるで、颯亮さんの交換日記の文章を、別の口で聞いたみたいだったから。
「まさに、そういう理由で候補に入れたんです」
そう言うと、男性はさらに微笑み、豆皿から一粒つまんで、颯亮さんの瓶に落とした。
“ちゃりん”。
静かな音が、なぜだか特別に響いた。
男性はカウンター席に座り、ブラックを注文した。
優範さんが丁寧に淹れる。
湯気の向こうで、男性は本を読み始めた。
その背中を見ながら、私はふと、優範さんの言葉を思い出す。
父の古書店。
“今の君に合うよ”と言って本を置いていってくれた誰か。
まさか、ね。
でも、どこか重なる。
閉店時間が近づき、男性が席を立った。
会計を済ませ、帽子を軽く持ち上げて言う。
「いい店だね。静かで、紙の息を邪魔しない」
颯亮さんが、少しだけ姿勢を正した。
「ありがとうございます。……また、よかったら」
「うん。また来るよ」
男性が出ていく背中を、颯亮さんが珍しく目で追っていた。
何か言いたそうで、でも言葉が出ない顔。
私は、横からそっと声をかけた。
「……颯亮さん、知り合いですか?」
「いや」
即答。
けれど目が、ほんの少し揺れていた。
私は、問いを続けかけてやめた。
そして、あの朝と同じ言葉を選ぶ。
「まだ何も言わないで、って言いたかったんじゃなくて。
急がなくていいですよ、って意味です」
颯亮さんが私を見た。
少し驚いた顔のあと、ふっと息を吐く。
「……分かってる」
その声は、いつもより低くて、少し柔らかかった。
夜。
片づけを終えて、瓶の豆を数える時間。
匡世さんが電卓を叩きそうな勢いで数えながら、わざと大げさに言う。
「はいはい、暫定一位、店長の本ー!」
「暫定だ。まだ六日ある」
「うわ、現実派」
優範さんが小さく笑い、私は豆の数をノートに書き留めた。
颯亮さんの瓶が、やっぱり少し多い。
あの年配の男性の一粒が、なんだか特別に混じっている気がした。
店の灯りを落とし、外へ出た途端、ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。
秋の、軽い雨。
「……傘、一本しかないな」
颯亮さんが空を見て言った。
優範さんは「僕、走ります」と早起きの人らしい即断で先に帰り、
匡世さんは「私、コンビニ寄るから」と軽やかに手を振って消えた。
残ったのは、私と颯亮さんと、細い雨の線だけ。
「一緒に入りますか?」
私が傘を広げると、颯亮さんは一拍迷ってから、隣に来た。
傘の下は思ったより狭い。
肩がふと触れるたびに、心臓が妙に忙しくなる。
「雨、嫌いじゃないです」
私は言った。
「そうなのか」
「雨の日って、音がやわらかくなるから。
ここに来る人も、少しだけゆっくり歩くし」
言いながら、私は自分の候補の本を思い出していた。
“雨の日を好きになれる話”。
あれが選ばれたら、あの本の言葉も、この街の雨に似合うはずだ。
颯亮さんが、ぽつりと言う。
「さっきの年配の人……あの本を読んでた」
私は頷いた。
「すごく大事にしてる感じでしたね」
「俺も、あの本で救われたことがある」
雨音の中で、彼の声はいつもより素直だった。
「高校のころ。家が、うまくいかない時期があって。
言葉にしたら、余計に壊れそうで。
……本の中の人が、人を許すのを見て、俺も許していいと思えた」
私は足を止めず、ただ静かに聞いた。
彼が言葉を選んでいるのが分かる。
いつも冷静に計画する人が、今は計画じゃなくて気持ちを差し出している。
「だから、店の棚に置きたかった。
けど、ああいう人が本当に覚えてて来るとは思わなかった」
私は、傘を少しだけ彼の方へ寄せた。
「本って、そういうことがありますよね。
何年もたって、急に“ここに戻ってきた”みたいに感じる」
「……桜都の言葉、落ち着くな」
ふいに言われて、私は頬が熱くなるのを感じた。
雨のせいにできない温度。
「私、ただ思ったことを言ってるだけです」
「それが、いい」
短い会話なのに、傘の下の空気が少しだけ変わった。
波みたいに、ゆっくり寄せては返す距離が、今夜は少しだけ近い。
商店街の角に着いたころ、雨は弱くなっていた。
颯亮さんが傘を畳み、私を見た。
「明日も、豆が増えるな」
「増えますよ。きっと」
「……俺の本が一位になったら、桜都、何かしたいことあるか」
唐突な質問。
でも、彼の目は真剣だった。
「したいこと、ですか」
私は少し考えて、笑った。
「その時に考えます。
今は、七日間の途中ですから」
「合理的だな」
「颯亮さんに、うつったのかもしれません」
そう返すと、彼は小さく笑った。
雨の匂いの中で見たその笑顔は、店の灯りより優しくて、少しだけ胸が痛くなるくらいだった。
家へ向かう道で、私は交換日記の次のページを思い浮かべる。
豆の音。
年配の男性の一粒。
傘の下の言葉。
余白は、今日も静かに埋まっていく。
それが、どんな結末へつながるのか、まだはっきりとは分からない。
でも、分からないまま進む夜も、悪くないと思えた。
今日から七日間、商店街の各店が“自分の推す一冊”を店先で紹介する。うちも三冊の候補を並べ、来た人に味見みたいに手に取ってもらい、気に入った本に一票を入れてもらう流れになった。
カウンター横の棚に、候補の三冊。
その前には、透明なガラス瓶が三つ並んでいる。
それぞれの瓶の横に小さな木札。
一つ目が匡世さんの推し。
二つ目が優範さんの推し。
三つ目が颯亮さんの推し。
瓶の中には、色の違う珈琲豆が少しずつ入っている。
投票用の豆は、白い小皿に山盛り。
気に入った本の瓶に豆を一粒落とす。その“ちゃりん”とした音で、店の空気が少しだけ楽しくなる、という仕掛けだ。
「分かりやすくて可愛いですね」
私が言うと、匡世さんは胸を張った。
「でしょ。目で見て楽しいって大事。店長の“効率第一”を、可愛いで包んでみた」
「包むのはいいが、瓶が割れたら危ない。子どもが走り回る時間帯は位置を変える」
颯亮さんが即座に言い、瓶の位置を数センチだけ奥へずらす。
そこまでやるんだ、と思うのに、不思議と嫌味がない。
むしろ、誰も困らないための数センチ。
「店長、いい感じ。守りの数センチ、好き」
匡世さんの軽口に、颯亮さんは小さく咳払いして、視線をそらした。
開店して少し。
最初に来たのは、いつもの小学生二人組。
ランドセルのまま、まっすぐ本棚へ行き、今朝並べた候補に気づくと、目を輝かせた。
「うわ、なにこれ! 豆?」
「ねえねえ、これ入れていいの?」
私はしゃがんで説明する。
「うん。気になった本の瓶に豆を一粒入れてね。どれが一番人気か、みんなで決めるんだよ」
「やるー!」
二人は三冊を交互に持ち上げ、表紙を見比べ、ああでもないこうでもないと真剣に悩み始めた。
その姿があまりに可愛くて、優範さんが奥でこっそり笑っているのが見えた。
ところが。
悩んだ末、片方の男の子が豆をつまみ――そのまま口に入れた。
「……にがっ!」
店内が一瞬、静止。
次の瞬間、匡世さんが吹き出し、私は慌てて駆け寄った。
「食べちゃだめだよ! それ珈琲豆だから!」
「え、だってチョコみたいだった!」
男の子は涙目で舌をぺろぺろしている。
颯亮さんがすっと近づき、冷たい水のコップを差し出した。
「水飲んで。大丈夫、死なない」
言い方が真顔すぎて、逆に笑いが起きた。
男の子が水を飲んでようやく落ち着くと、颯亮さんは真剣に瓶の前の札を見た。
「投票用の豆は、食べられません、と書き足す」
「いや、そこ書いても食べる子は食べるって」
匡世さんが肩を揺らして言う。
そのやり取りに、男の子たちもつられて笑った。
結局二人は、匡世さんの瓶に一粒ずつ落とし、得意げに帰っていった。
午前中はそんな調子で、豆の“ちゃりん”が絶えなかった。
奥さんたちは「この本、昔読んだわあ」と懐かしがり、
高校生たちは「表紙かわいい」と写真を撮り、
働き盛りの男性は「短いのがいい」と迷わず選び、
それぞれの手の中で本が“今日の一冊”になっていく。
豆の数は、夕方になるにつれて一定の差をつけ始めた。
颯亮さんの瓶が、少しだけ先行している。
「店長の本、人気だねえ」
匡世さんがニヤっとする。
颯亮さんはレジを打ちながら、ぶっきらぼうに返した。
「たまたまだ」
「たまたまって言う顔じゃないよ」
「……」
耳がまた赤い。
私はその横で、こっそり笑いを噛み殺した。
そんな中、夕方の風が少し強くなったころ。
入口の鈴が、控えめに鳴った。
入ってきたのは、背が低めの年配の男性。
黒い帽子を深くかぶり、手には使い込まれた革の鞄。
歩き方が慎重で、店内を見渡す目がどこか懐かしそうだ。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、男性は小さく頷き、候補の三冊の前で足を止めた。
そして、颯亮さんの推しの本を手に取り、表紙をじっと見た。
「……これ、まだ置いてある店があったんだな」
独り言みたいに言って、男性はページをめくる。
その指の動きが、まるで昔の友だちに触れるみたいに優しい。
私はそっと近づいた。
「その本、よくご存じなんですか?」
男性は顔を上げて、少し驚いたように笑った。
「若い頃、よく読んだ。あの頃は、こればかり棚から引き抜いてね。
……“読み終わったら、他人に優しくしたくなる本”だ」
その言葉に、私は胸がふわっと温まった。
まるで、颯亮さんの交換日記の文章を、別の口で聞いたみたいだったから。
「まさに、そういう理由で候補に入れたんです」
そう言うと、男性はさらに微笑み、豆皿から一粒つまんで、颯亮さんの瓶に落とした。
“ちゃりん”。
静かな音が、なぜだか特別に響いた。
男性はカウンター席に座り、ブラックを注文した。
優範さんが丁寧に淹れる。
湯気の向こうで、男性は本を読み始めた。
その背中を見ながら、私はふと、優範さんの言葉を思い出す。
父の古書店。
“今の君に合うよ”と言って本を置いていってくれた誰か。
まさか、ね。
でも、どこか重なる。
閉店時間が近づき、男性が席を立った。
会計を済ませ、帽子を軽く持ち上げて言う。
「いい店だね。静かで、紙の息を邪魔しない」
颯亮さんが、少しだけ姿勢を正した。
「ありがとうございます。……また、よかったら」
「うん。また来るよ」
男性が出ていく背中を、颯亮さんが珍しく目で追っていた。
何か言いたそうで、でも言葉が出ない顔。
私は、横からそっと声をかけた。
「……颯亮さん、知り合いですか?」
「いや」
即答。
けれど目が、ほんの少し揺れていた。
私は、問いを続けかけてやめた。
そして、あの朝と同じ言葉を選ぶ。
「まだ何も言わないで、って言いたかったんじゃなくて。
急がなくていいですよ、って意味です」
颯亮さんが私を見た。
少し驚いた顔のあと、ふっと息を吐く。
「……分かってる」
その声は、いつもより低くて、少し柔らかかった。
夜。
片づけを終えて、瓶の豆を数える時間。
匡世さんが電卓を叩きそうな勢いで数えながら、わざと大げさに言う。
「はいはい、暫定一位、店長の本ー!」
「暫定だ。まだ六日ある」
「うわ、現実派」
優範さんが小さく笑い、私は豆の数をノートに書き留めた。
颯亮さんの瓶が、やっぱり少し多い。
あの年配の男性の一粒が、なんだか特別に混じっている気がした。
店の灯りを落とし、外へ出た途端、ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。
秋の、軽い雨。
「……傘、一本しかないな」
颯亮さんが空を見て言った。
優範さんは「僕、走ります」と早起きの人らしい即断で先に帰り、
匡世さんは「私、コンビニ寄るから」と軽やかに手を振って消えた。
残ったのは、私と颯亮さんと、細い雨の線だけ。
「一緒に入りますか?」
私が傘を広げると、颯亮さんは一拍迷ってから、隣に来た。
傘の下は思ったより狭い。
肩がふと触れるたびに、心臓が妙に忙しくなる。
「雨、嫌いじゃないです」
私は言った。
「そうなのか」
「雨の日って、音がやわらかくなるから。
ここに来る人も、少しだけゆっくり歩くし」
言いながら、私は自分の候補の本を思い出していた。
“雨の日を好きになれる話”。
あれが選ばれたら、あの本の言葉も、この街の雨に似合うはずだ。
颯亮さんが、ぽつりと言う。
「さっきの年配の人……あの本を読んでた」
私は頷いた。
「すごく大事にしてる感じでしたね」
「俺も、あの本で救われたことがある」
雨音の中で、彼の声はいつもより素直だった。
「高校のころ。家が、うまくいかない時期があって。
言葉にしたら、余計に壊れそうで。
……本の中の人が、人を許すのを見て、俺も許していいと思えた」
私は足を止めず、ただ静かに聞いた。
彼が言葉を選んでいるのが分かる。
いつも冷静に計画する人が、今は計画じゃなくて気持ちを差し出している。
「だから、店の棚に置きたかった。
けど、ああいう人が本当に覚えてて来るとは思わなかった」
私は、傘を少しだけ彼の方へ寄せた。
「本って、そういうことがありますよね。
何年もたって、急に“ここに戻ってきた”みたいに感じる」
「……桜都の言葉、落ち着くな」
ふいに言われて、私は頬が熱くなるのを感じた。
雨のせいにできない温度。
「私、ただ思ったことを言ってるだけです」
「それが、いい」
短い会話なのに、傘の下の空気が少しだけ変わった。
波みたいに、ゆっくり寄せては返す距離が、今夜は少しだけ近い。
商店街の角に着いたころ、雨は弱くなっていた。
颯亮さんが傘を畳み、私を見た。
「明日も、豆が増えるな」
「増えますよ。きっと」
「……俺の本が一位になったら、桜都、何かしたいことあるか」
唐突な質問。
でも、彼の目は真剣だった。
「したいこと、ですか」
私は少し考えて、笑った。
「その時に考えます。
今は、七日間の途中ですから」
「合理的だな」
「颯亮さんに、うつったのかもしれません」
そう返すと、彼は小さく笑った。
雨の匂いの中で見たその笑顔は、店の灯りより優しくて、少しだけ胸が痛くなるくらいだった。
家へ向かう道で、私は交換日記の次のページを思い浮かべる。
豆の音。
年配の男性の一粒。
傘の下の言葉。
余白は、今日も静かに埋まっていく。
それが、どんな結末へつながるのか、まだはっきりとは分からない。
でも、分からないまま進む夜も、悪くないと思えた。