豆の音がつなぐ恋 波音文庫カフェの交換日記

第5話 言葉の置き場所

 七日間の“推し本”の紹介は、残り二日になっていた。
 波音文庫カフェの棚の前では、投票用の豆が毎日ちゃりんと鳴る。
 その音が重なるたび、店の空気が少しずつ育っていくみたいで、私は好きだった。

 朝の仕込みをしながら、匡世さんがわざと大声で言う。

「ねえねえ、暫定一位、今日も店長の本だよ? これ、もう決まりでしょ」

「決まりじゃない。最後まで分からない」

 颯亮さんはいつもの冷静な口調で返すけれど、昨日から妙に背筋が伸びている。
 うれしいのを隠す姿が、いちいち面白い。

「店長、顔が勝利前夜なんだもん」

「意味が分からない」

「分からないものは、分からないまま置いとこう。ね、桜都さん」

 匡世さんが私にウインクをして、私は苦笑した。
 分からないまま置く。
 それは、颯亮さんにとって一番難しいことかもしれない。

 開店してすぐ、またあの年配の男性が来た。
 黒い帽子、革の鞄。
 店に入ると、真っ先に候補の棚へ向かう。

「また来てくださったんですね」

 私が声をかけると、男性は照れたように頷いた。

「うん。このあたりを通る用事があってね。
 ……それに、あの本の続きを読みたくなった」

 彼は颯亮さんの推しの本を手に取り、ページをめくる。
 その目の動きが、ほんとうに楽しそうだった。

 私はふと、優範さんの話を思い出す。
 父の古書店に来ていた“本を置いていってくれた人”。
 ずっと胸の奥に引っかかっていた糸が、きゅっと近づく感じがした。

 そこへ、優範さんが厨房から出てきて、男性に気づいた。
 彼の動きが、ほんの一瞬止まる。
 目が、驚いたように揺れる。

「……あ」

 小さな声。
 男性も顔を上げ、優範さんを見た。
 そして、ゆっくりと笑った。

「おお、君……大きくなったなあ」

 優範さんの頬が、ほんの少し赤くなる。
 静かな湖みたいな人が、波立つ瞬間だった。

「……あのときの」

 優範さんはそれ以上言えず、視線を落とした。
 私は息をのんで、二人の間の空気を見守る。

 男性は帽子を軽く持ち上げ、優範さんに向かって丁寧に頭を下げた。

「君のお父さんの店で、ずいぶん世話になった。
 それから……君にも、本を渡したね。
 勝手だったけど、役に立っていたならよかった」

 優範さんはしばらく言葉を探して、ようやく頷いた。

「……あのときが、今も続いてます。
 僕は、本でここにいられました」

 短いけれど、真っ直ぐな言葉。
 男性の目がふっと潤み、でも笑っている。

「そうか。なら、もう十分だ」

 私は胸の奥がじんとするのを感じた。
 本が、人と人の間を静かにつなぐ瞬間。
 こんなにも温かい。

 その会話を、颯亮さんがカウンターの向こうから見ていた。
 いつも全体を見渡す目が、今は二人だけをまっすぐ捉えている。

 男性は席に座り、珈琲を一杯頼んだ。
 優範さんは、いつもより丁寧に、でもどこか柔らかい手つきでドリップを始める。
 湯気の向こうで、男性は本を読む。
 静けさが店に落ち着いた毛布みたいに広がった。

 昼過ぎ、男性が帰り際に豆を一粒、颯亮さんの瓶へ落とした。

「この本はね、昔の私にも、今の私にも効く。
 だから、ここに置いてほしい」

 颯亮さんが一瞬目を見開いて、すぐに深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 男性は満足そうに笑い、店を出ていった。

 その背中が見えなくなるころ、匡世さんが眉を上げて言う。

「おお、なんか今の、泣きそうになるやつじゃん」

「泣いてない」

 颯亮さんが即答する。
 でも、声の奥が少し揺れていた。

 優範さんが、ぽつりとつぶやいた。

「……あの人、父の一番の常連さんでした。
 僕が落ち込んでた時、黙って本を置いていってくれた」

「そうだったんだ」

 私は言って、優範さんの肩の力が、少し抜けるのを見た。
 言葉にできた分、過去が少し優しくなることってある。

 夕方が近づくと、店はまた混み始めた。
 高校生たちが駆け込んできて、投票の瓶の前でわいわい悩む。
 奥さんたちは「これ、夫にも読ませたい」と言って豆を落とす。
 小学生は相変わらず豆をチョコと間違えそうな顔で眺めている。
 笑い声と珈琲の香りで、店内はやさしい熱気に包まれていた。

 閉店後。
 私たちはカウンターに集まり、今日の豆の数を数えた。
 颯亮さんの本が、少しずつ差を広げている。

「はいはい、これはほぼ決まり。店長の勝ち。
 明日、豆が逆転したら私は空を飛ぶ」

「飛ばなくていい」

 颯亮さんは言いながら、交換日記を開いた。
 その手が、少しだけ慎重だ。

 ページには、今日の出来事がそれぞれの字で並んだ。

 匡世さん。
『優範が久々に少年みたいな顔してた。
 置いてくれた本って、人を育てるんだね。
 店長の瓶に豆が増えるたび、店長が胸を張ってるのが面白い。』

 優範さん。
『あの人にまた会えた。
 父の店の匂いが、今日だけ戻ってきた気がした。
 感謝は、言えるときに言う。』

 私。
『本が人をつないだ日。
 静かな会話が、店の背骨をまっすぐにした。
 豆の音が、今日は少し優しく聞こえた。』

 最後に、颯亮さんがペンを持つ。
 また一拍詰まって、でもちゃんと書き始めた。

『今日、優範の過去と本が重なった。
 この店は、ただ売る場じゃない。
 誰かが立ち止まれる場所でありたい。
 ……桜都、今日はありがとう。』

 読み終えて、私はノートをそっと閉じた。
 胸の奥が熱くなる。
 彼は少しずつ、言葉の置き場所を見つけている。

 片づけが終わり、私が鞄を持つと、颯亮さんが声をかけた。

「桜都、ちょっと」

「はい」

 店の灯りを落としたカウンターの横。
 外はもう暗く、ガラスに私たちの影が薄く映っている。

「昨日、俺の本が一位になったら何したいって聞いただろ」

「はい。途中だからその時に、って」

「明日で終わる。
 ……もし、本当に一位になったら、俺、店のみんなに、何か返したい」

 返したい、という言い方が颯亮さんらしい。
 計画の言葉で、気持ちを包む人。

「何を考えてるんですか?」

「休みの日に、海まで散歩して、途中で甘いものでも食べる。
 ……店の外の景色も、みんなで見た方がいい」

 その案は、私の胸をふわっと持ち上げた。
 ただ、“みんなで”の部分に少しだけ引っかかる自分がいる。

「いいですね」

 私が笑うと、颯亮さんは黙り込んだ。
 それから、まっすぐ私を見て言った。

「……それと、もしよかったら。
 散歩の前に、少しだけ早く来てほしい。
 相談したいことがある」

 相談。
 その単語は普通なのに、彼の声が少し硬い。
 心のどこかで、彼自身が緊張しているのが伝わる。

 私は一拍だけ考えた。
 こういうとき、急かす言葉は選ばない。

「分かりました。
 まだ何も言わないで、の気持ちで行きますね」

 冗談めかして言うと、颯亮さんは困ったように笑った。

「……それ、便利な言葉だな」

「便利じゃなくて、優しい順番の言葉です」

 そう返すと、彼は小さく頷いた。
 その横顔が、今日の珈琲みたいに少しだけ甘く見える。

 帰り道、私は胸の中で波の音を聞いた。
 優範さんの過去が、やっと言葉になった日。
 颯亮さんが、誰かのために外の景色を見せたいと言った日。
 そして、私だけに向けられた“相談したい”という予告。

 明日が終わったら、七日間の答えが出る。
 でも、答えが出るのは投票だけじゃないのかもしれない。
 私たちの間の余白にも、そろそろ新しい言葉が置かれそうな気がしていた。
< 5 / 6 >

この作品をシェア

pagetop