豆の音がつなぐ恋 波音文庫カフェの交換日記

第6話 海へ向かう朝、言葉は豆の音で

 七日目の朝は、やけに澄んでいた。
 波音文庫カフェの前を通る人たちの声も、湯を沸かす音も、いつもより少しだけ軽い。
 投票用の豆の皿を補充しながら、私は胸の奥がそわそわするのを感じていた。

 今日は最後の日。
 瓶の中の豆の数が、どの本をこの店の“推し”にするか決める。
 そして、颯亮さんが言っていた“海まで散歩して甘いものを食べる日”でもある。

 開店準備を終えたころ、颯亮さんがカウンターの端に私を呼んだ。

「桜都、少し早く来てほしいって言ったの、覚えてるか」

「はい」

 私はエプロンの紐を結び直し、彼の前に立った。
 颯亮さんはいつも通り整った顔で、でもどこか落ち着かない目をしている。

「俺な……この店のやり方を、少し変えたい」

 どきりとした。
 変える、という言葉に私は身構えかけたけれど、彼の次の言葉は思ったのと違った。

「交換日記、続けよう。っていうか、もっと増やしたい。
 店だけのことじゃなくて、各自の“今日気づいた誰かの良さ”も書きたい」

 私はぱちんと瞬きをした。

「それ、颯亮さんの言葉ですか?」

「俺の言葉だ。
 昔は、効率が上がればそれでいいと思ってた。
 でも最近、店が良くなるって、数だけじゃないって分かった」

 ふっと息を吸う音が、近かった。

「みんながここで笑ってる時間が増えると、俺も……落ち着く。
 それは桜都が、順番を教えてくれたからだ」

 胸の奥が、じわっとあたたかくなる。

「順番、って大げさですよ」

「大げさじゃない。
 俺は、先に言葉を投げる癖があった。
 桜都が“まだ何も言わないで”って止めてくれた日は、助かった」

 また、その言葉。
 あの日の泡の拍手と同じ温度が戻ってきた気がした。

「だから……これからも、店の中にいてほしい」

 私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 “働いてほしい”の意味にも聞こえるし、もっと別の意味にも聞こえる。

「……それは」

「今、答えなくていい」

 颯亮さんは慌てて続けた。

「ごめん、計画なしで言った。
 でも、今言わないと、また“順番を間違える”気がした」

 不器用な真面目さが、可笑しくて、でも愛おしい。
 私はふっと笑ってしまった。

「颯亮さん、言葉の順番、合ってますよ」

 そう言うと、彼はやっと肩の力を抜いた。
 その顔が、今朝の光にやわらかく浮かぶ。

 開店時間。
 最後の一日を待っていたみたいに、店には次々と人が入ってきた。
 奥さんたちは「最終日だから来たのよ」と笑い、
 高校生は「推し決めに来ました」とスマホを構え、
 小学生二人組は「今日は食べないよ!」と豆皿の前で宣言した。

「昨日食べたくせに」
「食べてない! なめただけ!」

 言い合いながら、二人は真剣に三冊を見比べる。
 その横で匡世さんが、店の手書きポップをさらに派手に増やしていた。

「ほらほら最終日、悩んだら全部読むって脳内で決めてから一票ね!」

「脳内で全部読むって無理だよ!」

 高校生に突っ込まれて、匡世さんは肩をすくめる。

「無理でも言うの。勢いって大事。
 店長は勢いゼロだから、私が補う」

「補いすぎだ」

 颯亮さんが笑いをこらえきれない顔で返した。
 今日の彼は、目の角がずっとやわらかい。

 昼前、あの年配の男性がまた来た。
 帽子と革の鞄。
 優範さんと目が合うと、二人はもう黙って笑い合える距離になっていた。

「今日は最後だね」

 男性が言う。

「はい。豆の数、見届けてもらえますか」

 優範さんが少し照れくさそうに返す。
 男性は頷き、棚の前に立ち、三冊を順に触った。
 そしてゆっくり、豆を一粒つまむ。

「私はね、これに入れる」

 ちゃりん。
 颯亮さんの瓶の中で、豆が小さく跳ねた。

「この本を置いた子が、今、店の真ん中に立ってる。
 本も、店も、君たちも、ちゃんと続いてる。
 それを見るだけで、今日はいい日だ」

 男性はそう言って、珈琲を一杯飲んだあと、静かに帰っていった。
 その背中を見送る優範さんの表情が、どこか幼い頃の少年みたいに見えた。

「……父が聞いたら喜びます」

 優範さんが小さく言って、私は胸の奥で頷いた。

 夕方。
 最後のお客さんが豆を落とし終え、店の鈴が静かになったころ。
 私たちはカウンターに集まり、瓶を並べた。

「さあ、数えるよ」

 匡世さんが腕まくりをする。

「電卓は使わないでくださいね。豆、数え間違えると悲しいから」

 私が言うと、匡世さんはふざけて敬礼した。

「了解、優雅係」

 優範さんと私で豆を一粒ずつ数えて、紙に書き、颯亮さんが確認する。
 最後に合計が出た。

「……一位、颯亮さんの本です」

 私が言い終わる前に、匡世さんが椅子から立ち上がって叫んだ。

「ほーら言ったでしょ! 私、空飛ばなくて済んだー!」

「誰も飛べと言ってない」

 颯亮さんが呆れた声で返す。
 でも、その口元は笑っている。

 拍手が起きた。
 小さな店に、豆の音に似た温度の拍手が満ちる。

 颯亮さんは照れたように頭をかき、皆に向かって言った。

「この本は、俺だけの推しじゃなくて、店の推しだ。
 選んでくれた人、ありがとう。
 ……それと、今日の閉店後は、約束通り海まで歩く」

「やったー!」

 匡世さんが真っ先にガッツポーズし、
 優範さんは小さく頷いて、
 私は胸の奥で、朝の言葉をもう一度噛みしめた。

 閉店後。
 四人で店の鍵をかけ、商店街を抜けて、堤防の坂を上がる。
 夕焼けが海に広がり、波がゆっくりと岩に砕けていた。

「店の外で見る海、久しぶりだな」

 颯亮さんが言う。

「ずっと店にいたもんね」

 匡世さんがからかうように返すと、颯亮さんは素直に頷いた。

「店を守るのに必死だった。
 でも、守るって、閉じることじゃないって最近分かった」

 優範さんが静かに笑う。

「開けておく方が、守れることもありますよね」

 私たちは堤防沿いの小さな菓子屋に寄って、焼きたてのカスタードパイを買った。
 匡世さんは砂糖が手についたまま海の方に走り、
 優範さんはそれを見て「転ばないでください」と優しく注意し、
 颯亮さんはその全体を眺めて、静かに笑っていた。

 私はパイを一口かじって、潮風と甘さが混じるのを味わった。

「おいしいですね」

「うん」

 颯亮さんが短く返したあと、ふいに私の方を向いた。

「桜都」

「はい」

 彼は少しだけ息を吸った。
 合理の人が、今は合理じゃない順番で言葉を探している。

「朝の話の続きだ。
 店の中にいてほしいって言ったのは、働き手としてだけじゃない」

 頬が熱くなる。
 けれど、逃げない。

「……うん」

「俺は、たぶん、桜都のことが好きだ」

 直球だった。
 でも、彼らしい直球だと思った。
 飾らないで、迷いのまま言ってしまう直球。

 匡世さんが遠くで「おーい、波、めっちゃきれい!」と叫んでいる。
 優範さんはそれに手を振って、「きれいですね」と穏やかに返している。
 その間にある夕焼けが、やけにやさしい。

 私は、胸の中で一度だけ深呼吸した。

「私も、颯亮さんのことが好きです」

 それだけ言ったら、もう十分だった。
 颯亮さんの目が、驚いたみたいに大きくなって、それからふっとほどけた。

「……本当か」

「本当です。
 怒る前に人を見るところも、言葉にするのが下手なところも、
 ちゃんと変わろうとするところも、全部」

 彼は一瞬、何か言いかけて、また言葉を飲んだ。

「まだ何も言わないで、ですか?」

 私が笑うと、颯亮さんも笑った。

「違う。言いたいことが、いっぱいあるだけだ」

 その言い方が可笑しくて、私は声を立てて笑った。
 颯亮さんも釣られて、珍しく肩を揺らして笑う。

 そこへ、匡世さんが砂まみれのスニーカーで戻ってきた。

「え、なに二人で笑ってんの。
 もしかして、今いい感じの話してた?」

 優範さんが静かに目をそらす。
 私は隠しきれずに頷いてしまった。

「うわー! やっとかー!」

 匡世さんが両手を上げて喜び、
 優範さんも少しだけ口元を緩めた。

「……おめでとうございます」

 波の音に混ざって、やわらかい祝福が届く。
 私は胸がいっぱいになった。

 帰り道。
 四人で並んで歩く足音が、商店街の石畳に跳ねた。
 堤防を下りる頃には、夜の匂いが少し濃くなっている。

 店の前で別れる前に、颯亮さんが言った。

「交換日記、明日からも書こう」

「はい。みんなで」

 私が答えると、匡世さんが嬉しそうに頷き、優範さんもそっと笑った。

 鍵を閉めた扉の向こうに、まだ白いページがたくさんある。
 そこに何を書くのかは、これからの毎日が決めていく。
 でも一つだけ、確かなことがある。

 この店で出会った言葉は、豆の音みたいに小さくても、
 誰かの心の奥にちゃんと落ちて、あたたかく響く。

 私は颯亮さんの隣で、その音の続きを聞いていこうと思った。
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