黄金のオルカ

第4話 海へ(サンプル)

※「黄金のオルカ」の公開は、2026年4月1日より、以下に移行しました。

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     1

 那覇空港に向けて、海結を乗せた機体が徐々に高度を下げていた。
 飛行機の便を予約したのは昨日だった。運良く確保できた窓際の席。日射しを照り返す海と、白く砕ける波頭が見える。
 目指す南の島は、もう目の前まで近づいていた。

 ボーディングブリッジ内を歩くと、むわっ、とした熱気が頬にまとわりつく。
 ターミナルビルの二階は、これから出発する人と、到着した人とで、混雑している。頭上に、アナウンスの声がひっきりなしに反響する。
 海結は、大きな窓の前で足を止めた。
 旅客機がゆっくりと動くその向こう、滑走路上に、グレーに鈍く光る戦闘機の姿があった。
 戦闘機は、炎と、揺らめく熱を残して離陸し、急上昇してゆく。ごおっ、と空気を震わせながら、あっという間に空へと吸い込まれていった。
 ここが日本だという実感が湧かない。まるで異国に来たような感すらある。
 エスカレーターで一階に下り、荷物受取所へ向かう。
 ターンテーブルに、自分のキャリーバッグが流れてくるのをじっと待つ。目の前を次々に通り過ぎる荷物の中に、自分のキャリーバッグを見つける。
 引き上げると、手にずしりと重みが伝わってくる。ハンドルが、汗ばんだ手のひらに吸いついた。
 売店で、ネイビーのリボンが巻かれた麦わら帽子を買ってから、バスの案内所へ。
 沖縄旅行では、レンタカーを使うのが一般的だ。
 海結も免許は持っているが、たまに陸斗の軽自動車を運転するくらいのペーパードライバーだ。初めて来た沖縄をレンタカーで移動する気にはなれない。
 窓口で、名護バスターミナル行きのチケットを購入する。
 ターミナルビルの外に出ると、強い風が吹いていた。
 青空が眩しく、太陽光が顔に熱い。
 やがて、高速バスが到着し、海結はキャリーバッグをハッチの中に預けてから、車内に乗り込んだ。

 港を左に見ながら、バスは那覇の市街地を走ってゆく。車窓の外に、白っぽいコンクリート造りの建物が並ぶ。
 建物の数が減ってくると、緑色の丘陵地が近づいてくる。
 沖縄自動車道に入り、バスは、赤瓦と白い漆喰のバス停に停車しながら北上する。見慣れたものとはどこか違う、沖縄独特の風景が車窓を流れてゆく。
 ダム湖を越えると、名護湾が開けてくる。
 水色と紺色が混じり合う海。遠く半島の姿が、湿度のせいで白っぽくかすんで見えた。
 バスは自動車道を下り、名護の市街地を通り抜け、バスターミナルに到着した。
 そこは、バスターミナルというよりも、操車場、といった風情だった。

 バスターミナルの建物の中は、売店や飲食店が並んでいる。
 ペットボトルのシークワサージュースを買う。次のバス便を確認し、あおりながら待つ。日が少し傾いてきた。
 やってきた路線バスに乗る。
 アーケードのある古めかしい商店街を、バスはゆっくり走る。
 ベランダの造形に意匠を凝らしたコンクリートの家々。赤瓦。背の高い建物はあまりない。見慣れたコンビニの看板が、海結の目には逆に異質に映る。
 再び海が見えてきた。
 バスは海沿いの道を進む。
 空は広くなり、海の色は濃さを増す。太陽は傾きを増し、それまで白っぽく見えていた景色を、黄色く染め始めている。
 左手に海を見ながら、どことなく、海結の生まれ育った場所、海沿いの国道を走る時に見る風景と似ている、と思う。
 海結が、軽く眠気を覚えた頃、バスは小さくまとまった市街地に入る。

 降りたバス停は、村役場のすぐそばにあった。その脇にある赤瓦の東屋が、村営バスの停留所だった。
 乗り継ぎまでの間、村役場の中で待つこともできたが、路線バスの道中、ずっとエアコンの風に当たり続けてきたので、少し体が冷えている。外の東屋で待つことにした。
 石造りのベンチに腰を下ろす。人も車も少なく、静かだった。
 しばらくすると、汗が背中を伝って落ちてゆくのを感じる。
 太陽が、西の空に沈みつつある。もう午後六時に近い。潮と、緑の匂いが混じる風が吹く。生ぬるい空気が、羽織っているシャツを通り抜けて、体の汗を乾かしてゆく。
 白いハイエースが東屋の前に停まった。ドアに村営バスを示す表示がある。
 白髪の、陽に焼けた顔の運転手に尋ねる。
「これ、○○ホテルの近くまで行きますか」
「行きますよ」
 キャリーバッグを持ち上げながら、後部の座席に乗り込んでシートベルトを締める。
 ハイエースが動き出し、次第にヤンバルの森深くへと分け入ってゆく。
 急に眠気が差してきた。途中、運転手に何度か話しかけられたような気がしたが、海結はそれに返事をする間もなく、居眠りをしてしまった。

 運転手に声をかけられ、目を覚ましたのは、日没の寸前だった。
 白い壁と赤瓦の建物が現れた。三階建ての、やや小ぶりなリゾートホテル。海結が予約した宿だ。
 沖縄風、というより中国風、あるいは東南アジア風。少しヨーロッパの香りも混じった異国情緒がある。
 ハイエースを降り、キャリーバッグを引きずってホテルに入る。
 フロントで、チェックインを済ませる。
 ロビーに置かれた、螺鈿細工の施された重厚なテーブルと椅子。あちこちにヤンバルクイナに関するものが置かれ、掲示されている。自販機のコーナーもある。
 三階にある部屋の鍵を受け取る。
 鍵を回して、黒っぽい色のドアを開けると、床は木張りだった。
 アンティーク調の家具に細かい傷があり、使い込まれた感じが、かえって趣を生んでいる。
 空腹で、喉も乾いていた。
 部屋に荷物を置き、レストランへ行く。
 レストランは、他の宿泊客で、半分くらいの席が埋まっていた。
 女子の二人組。講義やゼミ、という会話の内容からすると、大学生の友人同士らしい。幼児の口に食事を運ぶ親子の姿。外国人もいる。海結の斜め向かいの席は、中国人の家族のようだ。
 和風の定食を食べる。ホテルでよくある形の夕食だが、黒毛和牛のハンバーグは、口に入れた時の肉汁がたまらなくおいしい。
 腹が満たされてくると、代わりに、寄る辺ない空虚さが心を占めるようになる。
 レストランは宿泊客で賑わっているのに、自分ひとりが、空間にぽっかりと開いた穴の中で食事をしている気がしてきた。

 部屋に戻る。汗が染み込んだブラを外し、ショーツも脱いで脚から抜く。
 鏡に映る自分の姿。
 少し崩れかかった化粧を落としてから、シャワーを浴びる。
 湯気に包まれながら、海結は、自分がここにいる理由をぼんやりと考えた。
 ホテルのパジャマに着替え、ベッドに腰を下ろす。スマホを手に取り、彩夏に電話を入れる。
「着いた?」
 彩夏の声が、気のせいか、遠くに感じる。今朝、羽田空港まで送ってもらったばかりなのに、やけに懐かしい。
「はー、やっと着いたよー」
「お疲れ。どんなとこ?」
 海結は、ごろりとベッドに横になる。
「いいとこだよ……でも、何か、地球の果てまで来た気がする……」
「それでいいんじゃない。いつもと同じじゃリフレッシュにならないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「どう? しばらくそこにいる?」
「うん、そのつもり」
「今日は早く寝て、明日から、思い切り羽伸ばしてね」
「言われなくても、疲れたから、もう寝る……」
 あくびが出た。
 互いに「おやすみ」と言って電話を切ると、部屋の中に静寂が戻った。
 カーテンの向こうは、しん、と静まり返った夜。こういう夜に、ヤンバルクイナは姿を見せるのかもしれない。
 大の字になり、白い天井を見上げた。
 シーツのひんやりとした感触に、意識が吸い込まれそうになる。
 私は、どうしてこんなに遠いところまで、何を求めてやって来たのだろう。何を探しにここまで来たのだろう。
 その答えを探しているうちに、頭の中が白くかすみ、海結はゆっくりと眠りの中に沈んでいった。

     2

 翌朝、カーテン越しの柔らかな光で目を覚ました。
 パジャマ姿のまま、海結はバルコニーに出る。
 バルコニーは、白い欄干がいかにもコロニアルな雰囲気だった。
 目の前に広がるヤンバルの森。亜熱帯性の木々が連なり、どこまでも濃い緑が続く。遠くから野鳥のさえずり。
 深呼吸する。空気が濃い、と感じる。爽やかで、どこか潮っぽい湿り気を含む風が、森の匂いも一緒に乗せて吹いてきた。

 着がえを済ませ、化粧をしてから、朝食のためにレストランへと下りる。
 起床が少し遅かったせいか、客の姿は少ない。多分、もう目的の場所へと出発していったのだろう。
 窓際の席に座る。焼き魚や納豆、味噌汁、という典型的な和食メニューだった。
 海結は、ご飯を口に運びながら、今日の過ごし方を考えた。
 ホテルと提携している業者が、様々な自然体験型のツアーを企画している。それに参加する客は、すでに出発している時間だ。
 参加しそびれたが、といって、部屋の中で一日中、ただ無為に過ごすのも気が滅入る。
 朝食を摂った後、海結は一度部屋に戻る。麦わら帽子をかぶってから、ホテル周辺の散策に出かける。
 ホテル前の道路は、左右に伸びている。太陽は、すでにかなり高い位置にある。海結は、麦わら帽を目深にかぶり直した。
 正面玄関を出て、向かって左の方向。なだらかに下る坂になっている。スマホの地図を頼りに、海沿いの集落を目指して県道を歩く。
 しばらくすると、左右に畑が現れる。背の高いサトウキビの緑が、赤土の上で揺れていた。
 沖縄らしい風景だ。海結は初めて、ここまで来て良かったと思う。
 潮気と、わずかな涼が混ざった風が吹く。そして緑の匂い。その濃さにむせかえる。
 焼けたアスファルト。陽炎が揺れる。頭上近くから照りつける日射し。汗が出てきて、羽織ったシャツの中で、タンクトップが背中に張りつく。
 炎天の中、歩道のない県道を歩き続けていると、どうしても視線が下を向く。
 左手の結婚指輪が、空を映している。
 心の中に、重いわだかまりがある。
 持参したペットボトルの水をあおる。見上げた空の色も、青く濃い。白い雲が風に流されてゆく。
 私は今、青空の下、ひとりきりで漂っている。
 見知らぬ土地、沖縄独特の自然。風の音と、自分の足音だけが、乾いたアスファルトの上に落ちてゆく。
 先へと続く道を歩き続ければ、沖縄本島東岸の集落にたどり着く。海が見えてくるはずだった。
 しかし、海結はその場で足を止めた。
 海結自身にも理由はわからない。海に行きたくて決めた沖縄旅行なのに、なぜかその気が起きない。
 まだだ。こっちの海じゃない。心がそう言っているような気がする。
 汗がひっきりなしに流れる。ペットボトルの水も残り少ない。
 海結は、来た道をホテルへと引き返すことにした。

 ホテルに戻った海結は、涼しいロビーでしばし休憩を取った。
 重厚な木製の椅子に陣取り、ロビーの一角に設けられたラックから、自然体験ツアーのパンフレットを集めてくる。
 山登り、シュノーケリング、シーカヤックと、様々なツアーがある。どれも美しい写真が掲載されているが、気乗りしない。
 パンフレットの中に、A4の紙一枚だけの簡素なものがあった。
 いかにも素人がパソコンで切り貼りしてプリントしただけ、という体裁だった。パンフレットというよりリーフレット、あるいはチラシの類だ。
 何だろうと思い、目をとおしてみる。
 どこかおかしな内容だった。
 「ホエールウォッチング」とあるのに、クジラの写真は一枚もなく、すべてシャチだ。波の上に頭だけ出しているものや、背びれだけが写っているもの、群れをなしてボートを追いかけてくる写真もある。
 シャチもクジラの一種。間違ってはいないが、それにしてもなぜ、この沖縄でシャチなのか。沖縄と言えば、ザトウクジラのウォッチングのはず。
 日本では、北海道の知床周辺がシャチの観察ポイントとして有名だ。しかし、沖縄近海で、というのはこれまで聞いたことがない。


「ホエールウォッチングガイド」

このクルーズは、沖縄本島北部の海域に生息する野生のシャチの観察と記録を目的にしています。
野生のシャチの研究を行っているトーマス・デビッドソンが主催し、ガイドします。

●出港時間
・午前クルーズ 火・木・土運航
 〇八時三〇分出港/一一時三〇分帰港
 (予約要・送迎あり)
・午後クルーズ 水・金・日運航
 一六時〇〇分出港/一九時〇〇分帰港
 (予約要・送迎あり)
・夜クルーズ(星空観察) 火・木・土運航
 二〇時〇〇分出港/二三時〇〇分帰港
 (予約不要・現地集合・送りのみ)
●重要事項
・一回のクルーズにつき最大四名様まで。
・シャチやその他の海獣は野生動物なので、必ず見られるとは限りません。
・船酔いしやすい方は、乗船前に酔い止め薬を服用してください。
・日に焼けます。長袖の服を推奨します。
・月曜日は運休です。
・天候や海況により、欠航または時間変更になることがあります。
●ご予約・お問い合わせ
・日中(午前・午後)クルーズ
 宿泊先にてご予約ください。
・夜クルーズ
 直接〇〇〇漁港までお越しください。


 単なるツアー内容の羅列だ。宣伝文句のひとつもない。商売気が無さ過ぎる。
 正直、つかみどころがなく、海結は半信半疑のまま、フロントに立つ、かりゆしシャツを着た若い女性に尋ねてみた。
「このホエールウォッチングなんですけど……」
「お客様もリピーターの方ですか?」
「いえ。ちょっと聞きたくて」
 複数回参加する客が多いのだろうか。期待が少し高まる。
「このへんに、本当にシャチなんているんですか?」
「いるみたいですね。遭遇率は高くないようですが」
「ガイドの人、外国人みたいですね」
「アメリカ人で、シャチの研究をやっている方です。元マリーンと聞いています」
「マリーン?」
「アメリカ海兵隊です。キャンプ・ハンセンにいたそうですが」
 海結は、レスラーのような元軍人のおじさんが、にっかり笑っている姿を想像した。
 とりあえず、明日の午後便を予約し、名簿に名前や住所を書き込む。
「運航中止になった場合は、すぐにお知らせしますので。明日の午後三時少し前までに、ホテルの裏、従業員用の駐車場があるところですが、そこに集合をお願いします」
「ホテルの裏、ですか? ロビーじゃなくて?」
「いえ、あの……ああいうのを好まないお客様もいらっしゃいますので……」
 そう言って、顔を下に向ける。
 何か含みがあるように思えたが、その意味がわからないまま、海結はうなずいた。
 ロビーには、昨日レストランにいた、女子大生と思しき二人がいた。海結と同様、ホエールウォッチングのリーフレットを手に話し込んでいる。
 ひとりは快活でよくしゃべるタイプ。もうひとりは落ち着きがあるタイプだ。
 二人の関心はシャチでなく、もっぱら海でクルーザーに乗るレジャー体験と、トーマスというガイドのことだった。
 聞こえてくる会話からは、学者肌の人物と想像しているようだ。海結とまったく異なる予想をしているのが面白い。
 それにしても、いったいどんな男なのだろうか。なぜアメリカ人が沖縄に住んで、シャチの研究をし、観光船業を営んでいるのだろうか。
 トーマスという男に興味が湧いてくるのと同時に、もしかしたらシャチに出会えるかもしれないという期待も膨らむ。
 わくわくしながら待つ、という感覚は、子供の頃にはあったが、久しく忘れていたものだ。
 明日も晴天で、海が穏やかであることを、海結は願った。

     3

 海結は、顔や首筋、手などに日焼け止めを丁寧に塗り込んだ。
 酔いやすい体質ではないが、念のため酔い止め薬を一錠、ミネラルウォーターで胃に流し込んでおく。
 ホエールウォッチングの集合場所は、なぜかホテルの裏手だ。何かおかしいな、と思いながら、部屋の鍵を閉めてロビーに下りる。
 エントランスから出て、くるりと建物を一周して裏に回る。
 砂利が敷きつめられたところと、土がむき出しになっているところがある。数台駐まっている車は、多分従業員のものだ。
 どうにも落ち着かない気分で待っていると、少しして、白い軽のバンがやってきた。 ボディのあちこちに赤錆が浮き、海辺で使い込まれている雰囲気だった。
 運転席から降りてきた赤銅色に焼けた青年。
 海結が想像していたよりもずっと若い。
 黒いキャップを目深にかぶり、地肌の上から、直にオレンジ色のライフジャケットを着込んでいる。左手首に、いかついダイバーズウォッチ。競泳用のような黒い海パン、白いデッキシューズ。
 まるで、ライフガードが浜からそのままやってきたような姿だ。
 ドアを閉め、青年が海結に近づいてくる。
 海結より頭ひとつ背が高い。一八〇をゆうに超えるだろう。ライフジャケットの丈が短めで、くっきり割れた腹筋と、へそが露わになっている。
 腹筋だけではない。全身の筋肉が隆々とした、見事な逆三角形の体躯だ。
 対面した海結は、早速目のやり場に困ることになった。
 ローライズ気味の海パン。前が、かなり大きく盛り上がっている。下へ丸くせり出しているだけでなく、上へも水着の上端近くまで張り出している。輪郭が浮かび上がるのを、水着の張力によって何とか押さえつけているような感じだ。
 海結は、それが何なのか意識してしまい、慌てて目をそらした。当の本人は何も意識していないようだが、正直、セクシャルに過ぎる。
 フロントの女性が言っていたことに、ようやく合点がいく。
 不快に思う客も、確かにいるかもしれない。ホテル側としても、この姿でエントランスやロビーを闊歩されても困る、ということだろう。
 しかしこれが、この青年の仕事のスタイルなのだ、と納得できる自然さがあるし、何より様になっている。
「〇〇海結さんですか?」
男性らしい、中低音の声が聞こえる。
「あ、はい。そうです」
「僕が、ホエールウォッチングのガイドで船長のトーマス・デビッドソンです。よろしくお願いします」
 抑揚はないが、とても流暢な日本語だった。少しほっとする。
 視線を上に向ける。
 トーマスと名乗る青年の顔を改めて見た瞬間、海結は固まってしまった。
 キャップのつばが作る、深い影が落ちる顔。一見して、イケメンだなあ、と感嘆の声を上げたくなる。
 目はちょうど良い深さに納まり、その上に濃くまっすぐなまゆ。乱れなく通った鼻筋の下に、深い人中と、ぎゅっと結んだ形の良い唇。
 顔の輪郭には、しっかりとした幅があり、顎の張り出しも成人の男性そのものだ。しかし、白人男性にしてはかなり童顔寄りの印象がある。少年のようなかすかな甘さと、爽やかさを感じる。
 陸斗と同じ歳くらいだろうか。
 しかし、若々しい顔立ちの反面、その表情は軍人のように固く締まり、凛々しいが、感情が読み取れない。
「どうかしましたか?」
 見とれたまま動かない海結を訝しんだのか、トーマスがじろりと見下ろしてくる。
 少し赤味がかった、琥珀色の瞳。
 何の感情も読み取れない、無機質なその目に、海結は思わず半歩後ずさりする。
 その時、背後から弾んだ声が聞こえた。
「え、ヤバ……」
 振り返ると、少し遅れてきた女子大生二人組がいる。
 驚きと笑いが混ざったような顔と、両手で口を覆う仕草。トーマスが、事前の予想を覆す若いイケメンだったことに舞い上がっているようだ。
 彼女たちはトーマスを左右から挟み、
「触ってもいいですか」
と尋ねた後、その体を触り始めた。
 肩や腹の筋肉に触れ、太い腕に抱きつく。そのうち、きわどい場所まで触り始めるのではないかと、見ている海結のほうがハラハラする。
 トーマスは軍隊式の「休め」の姿勢で無表情を保ち、二人のしたいようにさせている。
 女子大生という比較対象がいるおかげで、海結はトーマスの容姿を、よりじっくり観察することができた。
 頭は、日本人と並んでも違和感のない大きさ。脚が相対的に長い。西洋の美術に見られるような完璧なバランス、完全な八頭身に見える。海結は、人間の肉体の完成形が目の前にいるような気がして、またもや見とれてしまった。
 女子大生のうちのひとりが、スマホを取り出してトーマスを撮ろうとした。
 その瞬間、
「撮影禁止だ」
と、トーマスの声が制した。
 大きな声でも威圧的なトーンでもないが、あたりの空気が瞬時に凍りついた。
「海もシャチも好きなだけ撮ってもらって構わない。だが、僕を撮影するのはやめてもらいたい」
 女子大生は慌ててスマホをしまい込み、もうひとりもトーマスの腕から急いで離れる。
 意気消沈した二人は、
「……すいません」
と、頭を下げながら、トーマスと、海結にも小さな声で謝った。

 現金で参加費を支払うと、トーマスは無造作に、ライフジャケットのポケットに押し込んだ。
 トーマスは流れるように動く。ドアを開いて女子大生たちを後部座席へ、海結を助手席に座らせる。全員のシートベルトを確認してから、運転席に乗り込んでキャップを脱ぎ、軽バンを慎重に発進させた。
 ヤンバルの森の中へ続く道路を、沖縄本島の西側に向かう。
 トーマスはエアコンを使おうとせず、窓を全開にしている。森の匂いを乗せた風が車内に盛大に入ってくる。
 海結は、ハンドルを握るトーマスの横顔をちらりと見る。
 少しくすんだ金髪は、赤銅色の顔と比べれば、ずっと明るく見える。頭頂から四方にまっすぐに伸び、末端のあたりで跳ねる。毛量は豊富で、全体的に伸びかかっている。硬い毛質なのか、風にあおられても揺れ方が少ない。
 そして、まるで彫刻のように端正で、男性的な横顔。
 ひげは薄く、毛穴が目立たない。目尻にも、顔のどこにもシワというシワがなく、肌がぴんっ、と張りつめている。
 白人男性にしては童顔で若々しいのは、これが理由か、と海結は考えた。
 視線に気づいたのか、トーマスが一瞬だけ海結のほうを向いた。
 海結は、慌てて前方に視線を向け直す。
 海が見えてきた。

 本島北部の緑の山が、海の近くまで迫っている。わずかに残った平らな土地に国道が伸び、建物が並ぶ小さな集落がある。
 左に海を眺めながら北上すると、すぐに、防波堤に囲まれた小さな漁港に到着した。
 軽バンから降りる。トーマスが、漁師と思しき老人と、二言三言、何か話をしている。周囲には、釣り人の姿もあった。
 数隻の小型の漁船に混じり、少し毛色の違う白い船が停泊している。
 女子大生のひとりが、
「このクルーザーですか?」
と聞くと、トーマスは、
「これです。正確には、プレジャーフィッシングボートです」
と答えた。
 前が流線形になっているキャビン形状からして、スピードはかなり出そうだ。
 トーマスはボートに乗り込み、三人分のライフジャケットを持ってくる。
「これを着てもらいます」
 そう言うと、自分のライフジャケットを脱ぎ、着用方法の説明をし始めた。分厚い胸板は、毛深くはなく、わずかな産毛があるだけだった。
 海結と女子大生がライフジャケット着用し終わると、トーマスがボートに乗るように促す。
 岸壁とボートの間には、少し落差がある。海結が乗り込む際に支えたトーマスの手はとても大きく、がっちりとしていた。
 海結は、キャプテンシートの隣、ナビゲーターシートに座るよう案内される。
 トーマスが、岸壁の短い係船柱とボートを繋いでいたロープを外し、キャプテンシートに座る。
 ディーゼルエンジンが床下から低く唸りを上げ、ボートが岸壁を離れた。

 防波堤の隙間を抜けると、ボートは海に向かってスピードを上げ始めた。
 トーマスに注意されたことがショックだったのか、しばらく大人しくしていた女子大生の二人。今は、クルーザーに乗るという、滅多にできない体験にはしゃいで、スマホを海に向けて夢中になって写真を撮っている。
 海結の前方、銀色の手すりの向こうに、これから向かってゆく海原が広がる。
 少し傾いてきた太陽の光で、視界が黄色っぽく見える。
 ボートは風上へと進む。キャビンの横の窓にかかった波しぶきが、斜め下の方向へ流れ落ちてゆく。船首の底が波をかんで、時折ボートが跳ねた。
 キャプテンシートのトーマスは、無言で操舵ハンドルを握っている。
 少し怖く、とっつきにくい。どこか未知の存在のように思えてくる。しかし、顔や体だけでなく、動作や座り方、何かを考えている様子、すべてが像としてしっくりくる。
 海結の後ろから、ささやくような声が聞こえてくる。
「ねえ、アメリカの映画とか出てそうじゃない?」
「ガチでイケメン。ヤバすぎ」
 今度は、トーマス個人に興味が戻ってきたらしい。
 関心の対象がころころ変わる二人の様子に、海結は苦笑いをこらえた。

 ボートが速度を落とし、やがて、海のただ中に停船する。最初のウォッチングポイントらしい。
 キャビン後方のガラスドアから見ると、陸地がはるかに遠い。
「探しましょう」
 双眼鏡を首からかけながら、トーマスが告げる。シートをくるりと回し、キャビンから後部デッキへと出る。海結と女子大生も続いた。
 エアコンで涼しいキャビンから外に出ると、やはり暑い。
 海風が絶え間なく吹くので、空気の熱はさほどではない。むしろ、肌をじりじりと焼く日射しのほうに暑さを感じる。
 大海原が広がる。風は、陸のほうから吹いているように感じる。出港直後より、波のうねりは落ち着いているが、前後左右に始終揺れる。足をふんばらないと転倒しそうだ。
 トーマスから、ウォッチングの注意点について説明を受ける。
「まず、そこには絶対に腰をかけないようにしてください」
 トーマスが指さしたのは、ボートの外周をぐるりと囲む、波の侵入を防ぐ壁。ブルワークと呼ぶらしい。ボートが揺れた時に、落水する危険があると言う。
 この海域に生息する海洋性の哺乳類についても説明がある。
 ザトウクジラやイルカ、ゴンドウについては申し訳程度で、内容のほとんどがシャチに関するものだった。
「僕は、二年前から、ここにいるシャチの群れを研究しています」
 トーマスによれば、全七頭からなるシャチの家族がいるらしい。
 しかし「定着」したというには根拠が乏しく、証拠の積み上げも不足しているため、一般的にはまったく知られていない、その証拠を集めるため、シャチの生態観察を続けていると、トーマスは話した。
 もちろん、海結にとっても初耳だった。一般に知られていないのもうなずける。
 全員で、周囲の海面を探し始めた。
 トーマスは、ボートを回るように位置を変えながら探す。時折、さっ、と双眼鏡を構える。
 海結も目を凝らして水平線を追うが、潮吹きもそれらしき影も見つからない。
 女子大生がトーマスに近づき、何か質問をしている。ひとりが話しかけながらトーマスの腕に触れ、その隙に、もうひとりの手が、彼の盛り上がった尻に伸びた。
 トーマスは我関せず、という態度を崩さず、触り放題にさせている。
 海結はその様子を見ていられず、一度キャビンに戻った。
 クーラーボックスを開け、氷水の中からグアバのペットボトルを取り出す。熱中症防止のため、自由に飲んでくださいと言われていたものだ。
 冷たさが手に心地良い。額にも当てる。
 甘さと水分で喉を潤してから、再びデッキに戻る。
 もう一度、海を見渡してみるが、やはり何も見つからない。
 海結は、舳先に立っていたトーマスに、思い切って声をかけてみる。
「見つかりませんね」
「相手は野生の海獣です。仕方ありません」
 トーマスの表情は、変化が乏しい。話す時以外は、ぎゅっ、と口を結んでいて、歯を見せることが少ない。愛想笑いも何もない。
 会話が続かず、とっつきにくい男だと海結が思っていると、トーマスが何かに気づいたらしく、
「ちょっと待ってください」
と言い出した。
 海結は、シャチが見つかったのかと興奮したが、トーマスがキャビン横から持ってきたのは、柄の長いすくい網だった。
 少し離れた海面に、色褪せたプラスチックの容器が浮いている。
 トーマスは腕と網を伸ばし、劣化した容器をすくい取った。

 時間が経った。陽の光が長くなってきている。
 途中、ウォッチングポイントを変えたが、シャチはおろか、イルカすら現れない。
 そろそろ漁港へと戻る時間だ。
 今日はツキがないのかなと、海結は思い始めていた。
 キャビンに戻ったトーマスが、海パンとダイバーズウォッチだけになってデッキに戻ってきた。
 海結と女子大生は、ボートの前方、バウデッキに移動させられた。
「様子を聴いてきます。みなさんは、このままここにいてください」
 舳先に立ったトーマスは、そう言い残してジャンプし、空中で体をくの字に曲げ、指先から海へと飛び込んでしまった。
 海結も女子大生も、呆気にとられた。
 ブルワークにつかまって海面を覗くが、深く潜水したのか、すでにトーマスの姿は見えない。
 しばらくの間、海結を含めた客三人が、船長不在のボート上に取り残された。
 不安にかられていると、ボートの後方に、何やら気配がある。
 振り向いた海結が目にしたのは、バタフライのような泳法で、海面に見え隠れしながら近づいてくるトーマスの姿だった。
 ボートは、四方を高さのあるブルワークで囲まれている。後部デッキのブルワークにはドアも備わっているが、今は隙間なく閉じられている。
 どうやってボートに上がってくるつもりなのか。
 見守る視線の中、トーマスが両手で強く海面を叩く。その瞬間、トーマスの体が、海中から発射されたかのうように空中に飛び出した。
 宙で体を一回転させながらブルワークを飛び越え、狭い後部デッキに、ぴたり、と着地する。
 ボートはほとんど揺れない。
 片膝をついた姿勢から、すっ、と立ち上がるトーマス。
 海結も、女子大生も、息を呑んでトーマスの濡れた姿を見つめた。
 トーマスの体は、筋肉のひとつひとつが明瞭に割れているが、見せるために鍛えたような誇張がない。角が取れて丸みを帯び、しなやかな質感を備えている。見るからに水の抵抗が少なそうに見える。泳ぎの達人なのだろう。
 それでも、この身体能力は超人的だ。シャチやイルカなら海面から空中へと身を躍らせることもできようが、まさか、同じことができる人間がいようとは。
 当のトーマスは息ひとつ乱していない。何か特別なことをした、という風もなく、
「どうも、今日はいないようです」
と、淡々と告げるだけだった。
 太陽が水平線へと沈んでゆく。
 空は、西から東へ、オレンジ色から藍色へと、綺麗なグラデーションを描いていた。風は凪いでいる。波は穏やかにうねり、ボートを静かに揺らす。
 トーマスが、濡れた髪をかき上げる。その仕草が、スローモーションのように海結の目に焼きついた。
 指の間をすり抜ける金色の髪。体の表面にあるごく淡い産毛。どちらも太陽の光に照らされ、黄金色に輝いている。
 美しいと、海結は素直に思う。美は女性のためだけにあるのではないと実感する。 屈強な男性に対して持つ感想ではないが、理屈ではない。トーマスの輪郭が、太陽を背に、金色に縁取られている様は、神秘的ですらある。
「……私、小さい頃からシャチが好きだったんです」
 海結の口が、いつの間に、そう言葉を発していた。
 トーマスが海結に顔を向ける。
「小さい頃、シャチのショーを見て、背中に乗ってみたいって思ったんです。今でも、それが夢に……」
 どうしてこんなことを言い出したのか。
 海結は途中で恥ずかしくなり、言葉を切った。
 少しだけ口元を緩めるトーマス。
 それまで閉じていた唇の間から、ほんの一瞬、かすかに白い歯が覗く。
 海結の心臓が、とくん、と鳴った。

 エンジン音が響き、ボートが漁港に向かって動き出す。
 はしゃいでいた女子大生たちは、キャビンの隅で「吐きそう」と、ぐったりしている。船酔いの症状が出たらしい。
 海結は、キャビンの窓から、夕陽に染まる海をぼんやりと眺めていた。
 頭の中で、すでに次の機会を考えている。
 シャチをひと目見るまでは、という理由だけではない。
 もうひとつの理由が、今日、生まれた。
 海結は、キャプテンシートに座るトーマスを見ながら、ホテルに戻ったら、何回かまとめて予約しておかないと、と考えていた。
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