黄金のオルカ

第一話 水底の夢



 暗闇の中、波の音が聞こえてくる。
 海結(みゆ)は、幼い日の夢を見ていた。
 夢の中の私は、小学校に上がる前くらいだろうか。
 両親と遊びにきた海洋生物のテーマパーク。海に面した大きな屋外プールと、その向こうに、夏の青空がどこまでも広がっていた。
 刺すような陽射し。潮の香りが生ぬるい風に乗って運ばれてくる。
 プールを半円状に囲む観客席。海結は父に肩車され、これから始まるショーに胸を躍らせていた。
 目の前の水面を割って、豪快に跳躍するシャチの姿があった。
「すごい!」
 シャチに水しぶきをかけられ、海結はずぶ濡れになりながら歓声を上げる。
 黒と白の巨体が水中から空中へと踊るたび、胸が高鳴った。
 トレーナーがシャチの背に跨り、水面を進む。人間と海の生き物の心が通じ合い、一体になっているような、満ち足りたものを海結は想像する。
「私もシャチに乗りたい! 乗ってみたい!」
 海結は興奮して、父の頭を手の平で叩いた。たまらなくなった父は海結を下ろした。
 今度は、ガラスをとおして水中のシャチを覗き込んでみる。
 プールの中のシャチと目が合った。
 シャチは、じっと海結を見つめてくる。感情がまったく読めない、無機質な目。海結は怖さを感じた。
 海結が移動すると、シャチもガラスの壁に沿ってついてくる。
 もしかして、シャチは自分に興味を持っているのかもしれないと思う。

 その瞬間、空間と時間が引き延ばされたような感覚に襲われた。

 海結の前にいるシャチが、金色に輝いているのだ。海結も、いつの間にか、シャチと同じプールの中にいた。
 底に足がつかず、立ち泳ぎを続けているのに、なぜか、水の圧も抵抗も感じることなく、ただ、肌の上を流れてゆく感覚だけが心地よかった。
 黄金のシャチは、ゆっくりと海結に近づいてきて、顔を少し持ち上げる。
 ためらいながら、海結は鼻先に手を伸ばして触れてみた。
 怖くて、ほんの一瞬触れただけですぐに手を引っ込める。
 シャチがじっとしているので、勇気を出してもう一度触れてみる。
 温かい。
 水の中にずっといるのに、どうして体温があるのだろう。
 気をよくした海結は、シャチのゴムのような肌を撫で、鼻先にキスをした。
 少し、心がこそばゆい。もっと触れてみたいと思う。
 シャチが大きな頭を寄せてきて、海結は舌で押されるようなキスをされた。海結の頭を丸飲みできそうな口の中、牙も見えるが、もう海結の中に恐怖はない。
 プールの深さが増した気がする。
 シャチが頭だけを水面の上に出した姿勢で泳ぐ。海結は胸びれにつかまる。
 ゆっくりと、一緒にダンスをするように回転する。
 海結は、シャチの胸と自分のおなかをすり合わせるように体をぴったりと密着させてみた。
 その体勢のまま、シャチが水面で仰向けになると、海結はシャチの白い腹に脚を開いて跨る格好になる。
 両手で腹や胸びれをなで回し、頬を寄せてみる。
 海結は、ショーでのトレーナーよろしく、シャチの背中に乗ってみたくなった。
 シャチはそれを察してか、一度海結を下ろしてからうつ伏せになった。
 海結の背丈より高くそびえ立つ背びれ。海結はそれに手をかけ、シャチの背によじ昇ろうとするが上手くゆかず、水の中へ滑り落ちてしまう。
 シャチは潜った。そのままプールを一周して、下からすくい上げるようにして、海結を背びれの後ろに乗せた。
 振り落とされないよう、背びれに力いっぱいしがみつく海結。
 プールの壁を越えれば、その向こう側は海だ。
 その時、海結はシャチの声を聴いた。
「しっかりしがみついてろ」
 ぶ厚い皮膚の下から、筋肉の動作が手に伝わってきた瞬間、海結は下向きの重力を感じた。
 視界から水面が消え、斜め下に、プールと海を隔てていたものが見える。
 背びれの前方にある景色が、青い空から波立つ海面へと変わった。

 はっと、海結は目を覚ました。

 エアコンの音だけが静かに響く室内。薄暗がりの中、海結はベッドの上にいる。
 海結の隣では、夫の陸斗(りくと)が横を向いて寝息を立てていた。
 小さな頃の記憶と、想像が混じり合ったような、不思議な夢だった。まだ意識がはっきりせず、ベッドの上にいる現実と、夢の区別がつきにくい。
 ベッドの横に置いてある鏡台に目をやる。
陸斗との結婚写真と、シャチの金メッキのレリーフが表側を飾る置時計。
 午前五時だった。
 二重のカーテンをとおして、朝の光が少しだけ明るい。エアコンの風が上下左右に振れるのに合わせ、水面のように揺らめいている。
 久しく忘れていた夢だった。
 海の哺乳類、特にシャチが子供の頃から大好きだった。
 シャチのトレーナーになって、ずっとシャチと触れ合っていたい、という素朴で幼い夢。大人になる道の途中、記憶の中に置き忘れてきたもの。
 海結は、大きくため息をついた。
 もし、途中で目を覚まさず、あのまま夢が続いていたら、海結はシャチの背に跨ってそのまま海に飛び込んでいたに違いない。
 あの昔話のように、海底にある、今とは違う世界へと、シャチにさらわれてしまったのではないかと想像した。
 手のひらをじっと見る。
 夢の中で感じたシャチの温もり。肌の感触。手のひらから、体の中にまで浸透してゆくような生々しさが残っている。
 それは、すぐ隣にいる陸斗のぬくもりよりもずっとリアルで、単なる夢以上の実体験そのものだった。
 海結は、しばらくの間、手のひらだけを見つめ続けていた。



 リビングのカーテンを開けると、2LDKの部屋の中に、朝の光が広がる。
 海結は、キッチンで朝食の支度を始めた。
 洗面所から、陸斗が歯を磨く音、うがいをする音、水が勢いよく流れる音が聞こえてくる。
「ねえ、歯磨いてる時は水止めてよ。出しっぱなしにしないで」
「んー」
 うがいをしている途中、ということを割り引いたとしても、あまりに適当な陸斗の返事。
 海結が注意した後も、少しの間、水は無駄に流れ続けていた。
 陸斗の生活態度のだらしなさ、注意や気づかいの無さは、今に始まったことではないが、主婦としては気になって仕方がない。
 テーブルの上に、できたばかりの味噌汁と焼いたアジの開き、漬物、小鉢という純和風の朝食を並べる。
 椀にご飯をよそいながら、海結はリビングの中を見回した。
 ソファーの背もたれには、陸斗が昨夜床につく前に脱いだTシャツがかけられている。テレビのリモコンは向きもなく乱雑に置かれっぱなしだ。
 海結は、ご飯をテーブルに置いてから、Tシャツを洗濯機に放り込み、リモコンを籐のかごの中に片づける。
 陸斗がテーブルにつくのを見計らい、洗面所へ行く。水滴が洗面台にも鏡にも飛び散っている。
「ちゃんと拭いといてよ」
「ん、わかった」
 陸斗の後を追い、海結が片づけてゆく。そういう行動が半ば習慣になっていることが、時々たまらなく嫌になる。
 思えば、小学校の頃からそうだ。今に至っても、まるで、頼りない弟を相手にしているように思えてくる。
 海結が作った朝食を、陸斗はスマホを見ながら食べる。海結も向かいの椅子に座り、食べ始める。
 ちら、ちら、と動く陸斗の目を追う。どうせ、ゲーム内の美少女とたわむれているのだろう。
「ねえ、スマホ見ながら食べるの、やめたら?」
「ん」
 海結の言葉を聞いているのか、いないのか、陸斗は相槌を打つが、スマホから視線を外そうとはしない。
「お弁当、持ってくなら作るけど」
「いいよ、いじられるし」
 海結はそれ以上何も言う気が起きず、アジに箸を伸ばした。

 今年二五歳になった海結よりも、陸斗は三歳下だった。幼馴染同士で結婚して、もうじき一年になる。

 海結とて、父と母を見ながら成長してきた。夫が家庭の中で妻が思うようには振る舞ってはくれないことはわかっている。父も、年中母に小言を言われていた。
 しかし、海結が最も不満なのはそこではない。
 それは、結婚して一年というのに、幼い頃から引きずる姉と弟のような関係から進歩がないことだった。
 陸斗とは、男女の、恋人同士としての愛情を育む時間のないまま結婚した。
 海結は、その分を結婚後に補いたいと思っていた。結婚することが先行したが、陸斗と二人で暮らす中で、男女としての愛情を育ててゆきたいと思っていた。
 その過程が欠落したまま、夫婦としてなじんでゆくことを、海結は想像できない。
 しかし、陸斗のペースに巻き込まれ、海結自身もつい「姉」を演じてしまう。

 いまだ目が覚めないのか、ぼーっとしながらご飯を口に運ぶ陸斗。
 毛質の柔らかい黒髪。目が隠れそうなくらに伸ばした前髪の向こうに、少し幼いが、色白で端正な顔がある。
 切れ長の二重まぶたの奥で、黒い瞳にスマホの画面がぼんやりと映っている。
 陸斗の容姿は海結も嫌いではない。学校に通っている頃は、その中性的な美少年ぶりで、女子には人気があった。声変わりすると、外見に似合わぬ極低音ボイスになり、外見とのギャップからさらに人気が増した。
 もっとも、陸斗の内向的な性格からして、実際に女の子とつきあったことはなさそうだが。
 しかし、今目の前にある活力のない表情は、いったい何だろう。
 透明感のあるせっかくの美貌が、まったく活かされていない。涼しげに映るはずの目元は眠たいだけに見えるし、半分開いた緩い口元のせいで全体の印象も締まらない。低い声質も、腹に力が入っていないせいか、こもりがちで聞き取りづらいだけ。
 返事は適当、スマホに依存し、無頓着で態度も投げやり。海結が選んで用意した服をそのまま着るだけ。
 生活のすべてを、海結に丸投げしてしまっている。

「行く」
 陸斗は、ようやくスマホから目を離した。
「車、気をつけてね」
「んー」
 海結は、だらだらとした足取りでアパートの階段を降りる陸斗を見送る。
 軽いエンジン音が響き、陸斗の車が道路に消えてゆく。
 玄関のドアを閉め、深いため息をついた。

 陸斗の勤め先は、ここから車で二〇分ほど、山の中の工業団地内の医薬品工場だ。
 海結は、陸斗が工場でどんなふうに働いているのか想像した。
 クリーンルームの中、無表情で操作盤に向かい、淡々と生産数をこなす。ミスはないが、改善の工夫もない。上司の指示には「はい」と答え、意見は言わず、波風を立てぬよう退勤時間まで無難に乗り切る。
 そんなルーチンに染まった働き方ではなかろうか。
 あくまで海結の想像なので、現場では違う表情を見せているかもしれないが、今の陸斗を見るに、そう思えてならないのだ。
 今の陸斗には、夢も目標も、やりたいこともないように見える。
 小さな頃から引っ込み思案だったが、今のように無気力ではなかった。
 何かを作ることが好きで、高専の頃は、電子工作とプログラミングに熱中していた。
 結婚当初は、不器用だが陸斗なりの気づかいもあった。
 姉と弟のような関係から脱却できていなかったが、仕事で帰宅が遅い海結の代わりに夕食を作ってくれたり、休日は一緒に買い物に出かけたり、そういう時間が確かに存在した。
 しかし、今は家にいる時は、スマホ片手にソファーに横たわり、ゲームをしているか、何かの動画を見て時間を潰しているばかり。
 友人と連絡を取り合う様子もなく、休日ともなると、外に出るのが億劫なのか、ずっと家の中にこもっている。
 受け身に終始した陸斗の日常。一日一日を浪費するかのように、家と職場を往復し、時々どこかへ寄り道するだけ。
 もしかして、職場のストレスが原因のうつ症状ではないかと疑うが、欠勤したことはない。

 海結も、三月まで、東京の食品の会社で働いていた。
 大学の栄養学部を卒業した後、新卒で採用された会社だった。商品開発部に配属された海結の働き方は、ルーチンとは無縁のもので、日ごとに内容も変わった。
 先輩に指導されながら、商品開発の補助的な仕事をこなすことで精いっぱいだったが、自分が携わった商品が、スーパーなどの店頭に並んでいると嬉しかった。
 それなりに充実していたと思う。
 高速バスで東京まで通勤しながら勤めを続けていたが、陸斗の強い希望で退職し、専業主婦になった。
 管理栄養士試験にも合格し、自分で采配できる仕事の範囲も増えていた矢先のことで、海結も相当悩んだ。陸斗と生活時間が合わず、すれ違いがちになっていたのも事実で、二人で過ごす時間を増やせるはず、と受け入れた。
 キャリアを失った代わりに、時間はできた。その時間を使って、陸斗との関係を作り直すことができるだろうと、淡い期待を抱いていた。
 しかし、海結が毎日家にいるようになると、陸斗は無気力になり、海結への依存度を増した。
 姉と弟のような関係に、かえって逆戻りしてしまった、と思う。
 共働きを続けていれば良かったかも、と考えることがある。仕事を続けていれば、もっと責任のある仕事も任せてもらえたかもしれない。
 ボタンをかけ違えたままになっている。海結の期待はいまだ叶わない。
 どうしてこうなってしまったのだろう。
 気づけば、アパートの部屋にぽつんとひとり取り残された自分がいる。

 陸斗と結婚して、初めての結婚記念日がやってくる。

 海結は、陸斗が変わることを願っている。
 結婚して一年経つのだから、いつまでも「弟」を引きずるのではなく、「夫」とは言わないまでも、せめて「恋人」と呼べるようになって欲しい。三歳年長の海結から見て、少しで良いから頼れる男としての姿勢を見せてもらいたかった。
 海結の望みをそのまま伝えたら、多分陸斗は怒る。子供扱いされていると傷つくだろう。
 これまで、海結はそこが気になって、自分の希望を陸斗にはっきり伝えることができなかった。
 しかし、初めての結婚記念日は、今の状況を変えてゆくためのきっかけにしたい。
 窓の外から差す朝の光が、だんだんと強くなっている。外の熱が、ガラスをとおして室内にじんわりと伝わってくる。
 海結は窓際に立ち、外を眺めた。
 夏の空には、太陽を遮るものが何もない。
 七月に入り、すでに連日真夏日が続いている。
 今日も暑くなる、海結はそう思った。



 置時計の針が進むごとに、太陽の光が面で圧をかけてくるような熱さに変化してゆく。
 陸斗が仕事に出た後、海結は主婦としての仕事に取りかかる。
 全自動の洗濯機を回し、その間に、朝食の食器を片づける。シンクの椀や皿を手際よく洗い、食器乾燥機に並べながら、頭の片隅で昼と夜の献立を考える。
 洗い物が終わると、掃除機でリビングや寝室のフローリングに落ちたホコリやゴミ、髪の毛を吸う。
 やがて、洗濯機が完了を音で海結に知らせてくる。
 脱水まで終わった衣類を取り出し、かごに入れる。
 かごを持ってベランダに出る。エアコンが効いた室内とは違い、外はすでに熱気が容赦ない。室外機から排出される熱風が暑さに拍車をかけている。
 洗濯物を手に取り、ぱん、ぱん、としわを伸ばす。
 海結は、自分のブラやショーツが痛んでいることに気づいた。肌に当たる部分が擦れて少し薄くなっているものがある。
 陸斗のTシャツやトランクスも点検してみた。海結の下着のように痛んではいないが、色が褪せ、全体的にくたびれている。
 二人の衣類を一枚一枚確かめているうちに、海結の頭は陸斗との馴れ初めのことを考えていた。

 陸斗は、子供の頃、海結の実家のすぐ近くに家を建てて引っ越してきた。
 いつも年長の海結の後ろをついて歩き、事あるごとに何かと頼ってきた。大人しくて、人見知りで、家に遊びにくると、三交代明け在宅していた海結の父に恐れをなし、海結の後ろに隠れるようにしていた気弱な陸斗。
 その少年が、今では自分の夫になった。
 どうして幼馴染で、近所の弟のような存在だった陸斗と結婚したのだろうか。


 それは何の前触れもなく、突然のことだった。
 就職後、東京でひとり暮らしをしながら仕事をしていた海結は、年末年始に帰省していた。
 陸斗から、海を見に行かないか、という電話があった。
 軽自動車に乗り、海結を迎えに実家にやってきた陸斗。通勤用に買ったばかりと言う。
 久しぶりに会う陸斗は、相変わらず弟然とした、少し甘えるような笑顔を見せた。
 国道を南へと走り、互いの近況を話すうちに、海岸沿いの公園に車は着いた。
 冬の早い夕暮れが迫っていた。風が強く、寒さに体が震えた。
 夕陽が海に落ちてゆく中、陸斗は次第に無口になっていった。

「結婚しないか」

 抑揚のない、呟くような小さな声だった。
 何を言われたのか咄嗟に理解できなかった海結は、うつむく陸斗の顔を覗き込んだ。真っ赤に染まっていた。
 何の冗談だろうかと、確かめようとした海結より先に、陸斗が再び口を開いた。
「俺、本気だから」
 それまで、海結は陸斗を異性として意識したことはなかった。二人で遊びに出かけたとしても、それをデートだとか、そう思ったことはない。
 どれほど時間が経過しただろうか。
 陸斗のプロポーズに、
「……うん」
と返している自分がいた。
 その時の自分は何を考えていたのか、関係の変化を恐れたのか、珍しく真剣な様子の陸斗にほだされたのか、ただその場の雰囲気に流されただけなのか、はっきりと思い出すことはできなかった。

 陸斗のプロポーズから、結婚まで半年と少し。昨今の時世からすれば若すぎる二人で、かなりの波風があった。
 海結の父は、秋田県出身の、我慢強く、朴訥な男だった。
 高校を卒業してすぐ石油精製を行う会社に就職して上京、役職定年も過ぎ、六〇歳が目前に迫る今も、ヘルメットをかぶってコンビナートの中で働いている。
 父は、海結の結婚にはっきりと反対した。
 海結も陸斗も若すぎる、ということが理由だった。
 その中には、現場叩き上げの父にとって、陸斗があまりに頼りなく見えることも含まれていた。
 家によく遊びにきていた陸斗のことは、父とてよく知っていた。しかし、その少年が、まさか自分の娘をさらってゆこうとは、多分想像すらしていなかったに違いない。
 母の説得でしぶしぶ陸斗との結婚を認めた後も、父の本心は変わっていなかった。
 婚約の日取りが決まった後、海結は連休を利用して実家に帰っていた。
 酒が入るとなまりが出る父。陸斗のことを「×××」「もやし」と言ったことがきっかけで、海結と口論になった。
 ×××とは、テレビなどで最近の男子アイドルを見るたびに揶揄する言葉、もやしとは、色白で線が細く、貧弱な若い男を指した言葉だった。
「何よそれ! あんなのと陸斗を一緒にしないで! 陸斗は真面目なんだよ、父さんと違って酒飲みじゃないし、タバコだって吸わない。父さんの古くさい考え方を押しつけないでよ!」
 図星をつかれて眉間にしわを寄せた父の横に、母はいつもと同じように座っていた。
 東北人の父に対して、母は地元の生まれだ。
 ひとり娘の海結が嫁げば、この家は絶たれることになるが、母はまったく問題にしていなかった。
 母が何より気にしていることは、周囲に結婚しない男女が多いことと、結婚しても晩婚が過ぎて子供がいない夫婦が多いことだった。
 結婚はできるだけ早く、子供を作るのもなるべく早い時期から、というのが母の考え方だった。
 それには、海結がやっと授かったひとり娘だったことが関係している。
 父と母は、結婚は早かったが、一〇年近く子供に恵まれず、海結が生まれたのは、どちらも三〇代半ばになってからだった。
「婿取りにこだわってたら、いつまでたっても結婚なんてできないの。せっかくの縁は大事にしないと」
 娘が結婚後に安定した生活が送れるか、という点についても、大手製薬会社の工場で働き、一定の収入を得ている陸斗は、母にとって及第点といったところだった。
 海結が陸斗の望みを受け入れ、会社を辞めたことを知った時、母は激怒した。
 子供ができればお金がかかる、将来の計画をちゃんと二人で考えたのかと、こっぴどく叱られる羽目になった。

 婚約期間中、結婚の準備は海結と陸斗で話し合いながら進めた。
 婚約指輪は省略し、その分、結婚指輪はある程度良いものを選ぶことに決めた。
 地元に良い店が見つからず、二人で銀座まで出かけて指輪を購入した。
 ショーケースに並ぶ指輪の中で、陸斗が目を留めた指輪は、男女用とも、少し幅も厚みもあるデザインのものだった。
 純度の高いプラチナ製らしく、値も張る。
 海結は、自分の細い指には似合わないように思えた。
 しかし陸斗は、
「絶対にこの指輪がいい。はっきりわかるし、外れにくそうだし」
と、自分の意見を変えなかった。
 万事控え目で、自己主張が強くない陸斗にしては珍しいことだった。
 そもそも、結婚指輪の費用は、全額陸斗が負担することになっていて、その手前、海結は反対しづらかった。


 陸斗に押し切られて買った結婚指輪。海結は、自分の左薬指を眺めた。
 今でも少ししっくりこない。存在感が強すぎ、きつく感じる時もある。
 思えば、結婚式の時から、どこか腑に落ちない、そういう小さなささくれのようなものを感じることが多かった気がする。


 結婚式と披露宴の費用は、海結と陸斗で出し合ったが、結婚指輪の購入で資金が激減していた陸斗より、海結の負担のほうが多かった。
 そのためか、陸斗が式の細かい点について口を挟むことは少なかった。
 ウェディングドレスを選ぶ際も「いいよ」と言うだけで、試着時に期待していた言葉も聞かれず、海結は拍子抜けした。
 海結が一番驚いたのは、陸斗が、恩師、友人、会社関係者、いずれもまったく招待しようとしなかったことだった。
 陸斗は、派手な式にしたくないと言っていた。海結は、派手にしたくないのはわかるけど、招くのは親族だけで良いのかと念を押した。
「うるさいだけだから、別にいい」
 割り切り過ぎてはいないかと心配する海結に対し、陸斗は気に留めず、意見を変えない。
 変なところで頑固なのは昔からのこと、と海結は陸斗を説得することを諦めた。

 結婚式当日、会場の招待客は、ほとんどが海結の関係者だった。陸斗の親族は隅のテーブルで肩身を狭そうにしていた。
 最初から、どこかおかしな空気が流れていた。
 開始前から、陸斗はワイシャツの色が変わるほど汗をかいていた。緊張のし過ぎで顔が青白く、見ていて痛々しいほどだった。
 新郎新婦の入場も、ケーキカットも、陸斗はコチコチに固まっていたが、何とか滞ることなく進行した。
 結婚式の段取りにはほとんど口を出さなかった陸斗だが、指輪交換の儀だけはこだわりを見せていた。
 そのわりに、本番では機械のようにギクシャクとし、指輪は陸斗のしたたる汗で濡れて、誓いのキスはまばたきする間に終わってしまった。
 来賓の挨拶として、海結の関係者だけがマイクの前に立った。
 海結が招待した、大学時代からの一番の親友である彩夏(さやか)もスピーチをした。
 婚約期間中、初めて陸斗を紹介した時、本人を目の前にして、
「高校生と結婚するの?」
と言ってのけた彩夏。
 彩夏の歯にもの着せぬ性格を知っているだけに、スピーチが続く間、海結は内心ハラハラしどおしだった。
 スピーチの内容自体は、大学時代のエピソードと祝意という、あたりさわりのないもので、海結もひと安心した。
 しかしその後、高砂席にビール持ってやってきた彩夏は、顔面蒼白の陸斗の面前で仁王立ちになり、後ずさりしそうな陸斗を脅迫し始めた。
「おい、お前、海結を泣かせたらゴ××リ食わせてやるからな」
 さらに、
「海結みたいな巨乳美人を嫁にできたんだ、お前にゃもったいない、感謝しろよ」
と追い討ちをかけ、酒を飲まない陸斗のグラスにビールをどぼどぼと注ぎ始めた。
 陸斗は式の後、あのひとは苦手だ、勝てる気がしないと、しきりにぼやいていた。

 式の間中、慣れない礼服を着た父は、無言で日本酒を飲み続けていた。母が飲み過ぎを注意しても、その右手がグラスから離れることはなかった。
 母は、陸斗の親族に挨拶し、酒を注いで回り、海結のドレスを直しに高砂席にも来る。自分の席にはほとんど腰を落ち着けていなかった。
 頻繁に立ち回る母の間隙をぬって、なぜか彩夏が父の隣に座り、酌をしていた。
 後に彩夏に聞いたところ、
「海結父が激シブのイケオジだったから」
と、理解に苦しむ答えが返ってきた。

 結婚式終了後、披露宴開始までの短い時間の間に、化粧直しと、新郎新婦両家の記念撮影があった。
 陸斗の隣にその両親と、歳の離れた兄という男が並んでいた。
 モーニング姿の陸斗の父は地方公務員、母は公立高校の教諭、兄は幹部自衛官という、陸斗以外は公務員の一家で、どことなく背筋が伸びた感じがある。
 陸斗は、兄に頻繁に姿勢を直されていた。
 弟の結婚式に参列するため、朝霞から駆けつけてきたという陸斗の兄。髪を短く刈り上げ、精悍な印象がある。やはり兄弟だけあって、目元の印象がよく似ていた。
「結婚は、俺の勝ち」
 陸斗によれば、兄はまだ独身だと言う。
 海結は、家族の中の陸斗の立ち位置が、うっすらと見えた気がした。
 海結の父は、披露宴を前にして大分酔いが回っており、母にネクタイを直してもらい、礼服の前ボタンをかけてもらってから、新婦父の位置に立った。
 カメラマンの合図でフラッシュがたかれた瞬間、海結は、自分が今何をしているのか、何のためにどこにいるのか、記憶が飛んで真っ白になってしまったかのような錯覚に陥った。
 今でも、その時の奇妙な感覚は、はっきりと覚えている。


 あの日から、もうすぐ一年。

 海結は、洗濯物を手際よくハンガーにかけてゆく。海結の下着が外から見えないように、陸斗の洗濯物で取り囲むようにする。
 男物の下着などをあえて見せて干すことは、防犯を意識したものだ。

 結婚後、海結と陸斗は、このアパートに一室を借りて暮らし始めた。
 二人の実家がある市の、二つ隣の市。そこにある新興住宅地の中にある。
 丘陵地を開発した宅地で、駅は遠いが、高速道路が真ん中を切り通して伸び、東京や羽田空港、横浜、川崎などへ向かう高速バスの停留所もある。
 結婚当初、まだ仕事を続けていた海結は、ここから高速バスで東京まで通勤していた。

 三階のベランダから遠く四方に見る緑は、海結にとってちょっとした癒しになっている。
 夏の高温と湿度によって、視界が白く霞んで見える。
 遠くから蝉の声が聞こえてくる。
 丘陵の一番高い場所が、アパートが集中するエリアになっており、なだらかに下ってゆく斜面に戸建ての住宅が立ち並ぶ。
 洗濯物を干している間に、汗が吹き出てきた。暑いが、南西から吹く風にわずかな湿った冷気が混じる。
 それまで太陽しかなかった青空に、雲が増えて流れてゆくのが見える。

 結婚してからというもの、海結と陸斗は遠出をしたことがない。新婚旅行にも行きそびれている。
 新婚旅行計画はあった。候補は、北海道の知床と、沖縄だった。
 知床は、シャチの群れを間近で観察できるという理由で、海結が推した候補地だったが、陸斗が観光船に乗るのを怖がって断念した。
 沖縄は陸斗も乗り気だったが、ちょうどその時期、陸斗の勤める工場では医薬品の増産が始まっており、まとまった休みが取得しづらい状況だった。
 それ以前に、海結も陸斗も結婚の出費で貯金が激減していた。陸斗の貯金は底を尽きかけ、海結もコツコツと貯めてきたものが半分以下にまで激減していた。
 結局、暗黙のうちに新婚旅行を先延ばしにして、今日の今日まで、二人で旅行らしきものをしないまま未消化になってしまっている。

 海結はエアコンで涼しい室内に戻り、結婚一周年の記念日に何をしようかと考えた。
 新婚旅行の代わりにはならないが、記念日は近くでも良いからどこかに出かけたい。
 陸斗も記念日は覚えているだろうが、そのために何かしようとは、多分考えていないだろうと、海結は想像する。
 結婚と順番が逆になったが、恋人同士としてその日を過ごすことはできないか。
 陸斗が今の無気力な状態から、少しでも恋人らしく、頼りがいのある男に変わって欲しい、そのためのきっかけにしたい、と思う。
 しかし、陸斗が子供扱いされていると感じて、へそを曲げないようにしなければならない。
 さじ加減が難しい。
 二人が出かけるとしたら、どこが良いだろうか。
 海結は久しぶりに、海洋生物のテーマパークに行ってシャチ達に会いたい。が、出不精で大勢の人がいる場所が苦手な陸斗が、乗り気になってくれるかわからない。
 遠出を避けて、かつ、陸斗も一緒にでかけてくれそうな場所。
 ならば、市内にアウトレットモールはどうだろうか。
 傷んできた海結と陸斗の下着や服を買い、何か美味しいものを食べる。
 その足で港に出て、夏の夕陽を見ながら時間を過ごすのも良い。
 プロポーズのあの時を思い出してくれれば、火つきの悪い陸斗も、もしかしたらやる気になってくれるかもしれない。

 結婚記念日は近づいている。海結は、早いうちに計画を練って、陸斗に相談しようと思った。

 突然、窓を横から叩く雨の音がする。かなり激しい。どしゃぶりの雨だった。
 あっという間に、窓の外側が水面のようになっている。
 海結は慌ててベランダの窓を開けた。急いで、洗濯物が干してあるハンガーを室内に取り込むが、そのわずかな間に、海結はびしょ濡れになってしまった。
 取り込んだ洗濯物も、外側に干した陸斗のものも、内側の海結のものも、すっかり濡れてしまっていた。

(続く)
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