黄金のオルカ

第二話 川を下る日



 大雨の峠は越えたが、雨はまだ降り続いている。
 寝室は、常夜灯のオレンジ色でほのかに明るい。
 大判のタオルケット一枚の中、陸斗は海結に背を向けてスマホをいじっている。
 海結はその隣で、天井を見つめていた。
 静かだった。雨の音以外は、時々車がアパートの前の道路をとおる音くらいしかない。

 海結は、ふと、自分の手の平を見つめる。
 今朝見た夢で感じたものが、まだ残っている。手のひらにある夢の温かさが、血管や神経をとおして体中にじんわりと広がってゆくような感覚がある。

 海結は、陸斗の背中に体を寄せる。
 腕を前に回して、陸斗の体に自分の体を密着させてみる。
「ねえ……」
「……うん?」
 陸斗は、体をもぞもぞと動かすが、なかなかスマホから目を離そうとしない。
 結婚して一年になろうというのに、いまだ陸斗のほうから求めてきたことはない。仕方なく、きっかけを作るのは、いつも海結のほうだった。
 陸斗は、ようやくスマホをベッドの頭の棚に置き、少し億劫そうに海結に体を向ける。
 陸斗に顔を寄せる。目が合う。陸斗が唇を重ねてきた。
 海結は、唇をわずかに開いて次を待ったが、ほんの数秒で、陸斗の唇は離れてゆく。
 結婚式の誓いのキスと同じ、表面を一瞬かすめる程度の浅いキス。
 上半身を起こすと、陸斗は海結の寝間着のボタンをひとつずつ外し、ブラの紐に手をかけた。
 ブラの前側にあるホックに陸斗の手が伸びる。海結は胸を寄せた。ホックが外れた瞬間、海結の乳房が、ゆさっと、本来の位置に落ち着く。肩をすぼめると、背中側にブラが落ちた。
 陸斗の喉が、ごくりと鳴る。海結のあらわになった胸をじっと見ている。
 火つきの悪い陸斗だが、若い男だから、性欲は余るほどある。
 自分から求める自信がないだけだ。
 陸斗の手が、海結の肩を押す。
 仰向けにされた海結が腰を少し浮かすと、陸斗が寝間着とショーツをまとめて下にずらし、足の先から抜いてベッドの下に放った。
 陸斗のトランクスの前が、テントのように張っているのが見える。海結に見られるのが少し恥ずかしいのか、目を伏せ気味にしてTシャツを脱ぎ、トランクスを下ろす。
 伏せたまぶたと長いまつげの色香に、ほんの一瞬だけ海結の胸が高まる。
 しかし、陸斗の体のほうを見てしまうと、それがすぐに失せてしまう。
 陸斗の体は、肩幅はあるが厚みが足りず、筋肉が薄い。いまだ成長期の少年のよう、と海結は思う。
 毛量のあまり多くない茂み。屹立した陸斗のものからは、皮が剥けて間もないような印象を受ける。
 海結をしっかり受け止めてくれそうな頼もしさが足りない。
 スマホばかり見ていないで、休日は運動でもして鍛えてくれたらいいのに。
 陸斗が覆いかぶさってきて、海結の乳房に触れる。指を食い込ませるように揉みしだき始める。
 手がさほど大きいわけではないので、海結の乳房が変形して陸斗の手に余る。指の間から肉がこぼれ落ちそうになる。
 胸からじわっと感覚が広がってゆく。
 乳房の先端をそっと指で挟まれる。陸斗はあまり指先に力を入れず、表面だけをさすられるくすぐったさと、もどかしさばかりがつのる。
 陸斗は、口に海結の乳首を含んだ。吸われる感触はある。しかし、陸斗の唇も舌も動かず、ただ吸われているだけだ。
 左右の乳首を交互に口に含んだ後、陸斗の手も唇も離れてゆく。
 エアコンの風にさらされて、生まれかけの熱が冷めてゆく。
 陸斗の指が、肌を辿ることもなく、いきなり海結の秘所に触れてきた。
 海結の豊富な茂みを避けるようにして、中指を敏感な部分から、入口の場所へと進めてくる。
「んっ……」
 指が、割れ目に沿って単純な往復運動を繰り返している。指先が入口をなぞるが、むずかゆい奥のほうには入ってこない。
 陸斗の表情に、焦りの色が見え始める。
 立膝の姿勢になった陸斗は、股間のそれを見せながら、
「つけて」
と、せがんだ。
 海結は体を起こし、ベッドの頭の棚から、ゴムをひとつ取り出した。
 陸斗は、薄いゴムを自分でうまく被せることができない。失敗が多いので、その役目はいつも海結だった。
 海結と陸斗は、ゴムなしでセックスしたことがない。子供を作るのは、生活が安定して貯金に余裕ができてから、ということにしていた。
 陸斗のものに左手で触れる。瞬間、それがびくびくと反応する。
「早く」
 急かす声が頭上から聞こえる。
 海結は右手で、陸斗のものの先端からゴムをくるくると被せる。陸斗の呼吸が荒く、頻繁につばを飲み込む音が聞こえる。
 横になり、両脚を左右に開く。
 まだ濡れ方が足りないが、陸斗が堪えられそうにない。
 陸斗は、すぐに海結の両脚の間に体を入れ、入口に先端を当てる。
 慣らす間もなく、腰に力を入れて海結の中に押し入ってくる。
「ちょっと、もっと、ゆっくり」
 海結は少し痛みを感じる。陸斗は海結の言うことを聞いていないのか、腰の動きを緩めようとはしなかった。
 目と口を閉じ、中の異物感が薄まる時が来るのを、じっと待つ。
 耐えていると、やがて陸斗のそれが中で滑らかに動くようになってくる。
 陸斗の背を抱く。目を開くと、懸命に腰を振る陸斗の顔がある。汗が海結の上に落ちる。
「ん、ん、ん……」
 海結の体から次第に力が抜けてゆく。膣の中を動く陸斗のそれに熱を感じるが、その熱が下腹のほうばかりに溜まり、体の奥までは上がってこない。
 浅く速い、単純な律動を繰り返す陸斗。
 海結が無意識に、足で陸斗の腰を引き寄せると、それがやっと深い位置にまで届くようになった。
 瞬間的に、海結の膣が締まり、陸斗が、
「んうっ……」
と、くぐもった声を上げる。
 動きが固まった瞬間、陸斗は体を小さく震わせて射精した。
 ぬるりと、陸斗のものがゴムと一緒に、海結の体から抜け落ちていった。
 海結の中で高まっていた熱が、頂きを見ないまま急速に引いてゆく。体の奥に、もどかしい感覚だけが取り残された。
 上から、脱力した陸斗がかぶさってくる。肩を上下させて呼吸しながら、頭を海結の乳房の間に埋めるような姿勢になる。
「……海結」
 名前を呼ぶ声が、振動として海結の体に伝わってきた。
 海結の胸に顔を擦りつけて、匂いを嗅ぐような、甘える仕草をする陸斗。
 両腕を投げ出し、ぎゅっとシーツをつかむ海結。
 やがて、陸斗はゴムを外してゴミ箱に捨て、横を向いて寝てしまった。
 すーっ、すーっと静かに繰り返す呼吸の音を聞いているうちに、海結の中に灰色の感情が湧き上がってくる。
 陸斗は、海結を中途半端なまま放っておいて、ひとり満足して眠っている。
 陸斗の尻を思い切りつねった。陸斗は一瞬声を上げただけで、また寝入ってしまう。
 海結も眠ろうと目を閉じるが、体の中で火にはならない熱がくすぶり続ける感覚は、まだ消えてくれない。
 その熱を鎮めようと、自分の肩と腰を両腕で抱きしめてみた。
 熱が少しずつ引いてゆき、次第にかすんでゆく意識。
 天井の常夜灯が薄くにじんで見える。
 海結は、結婚記念日のことを言いそびれてしまった、と思った。
 ふと、何時だろうと見た鏡台の上で、置時計のシャチが力強く跳躍していた。



 七月も後半に入った頃、連日三〇度を超える日が続いている。
 海結は、陸斗が夏バテ気味なのでは、と考えていた。
 仕事から帰るとぐったりしていて、スマホを見ながらソファーで寝入っていることがある。
 営みの後は、すぐ眠ってしまう。
 陸斗ほどではない気がするが、海結自身も連日の暑さで疲れを感じている。
 夏バテ対策の献立を頭の中で組み立てる。
 海結は、大学の栄養学部出身で、今年の三月いっぱいまで、食品会社の商品開発部に所属していたのだ。管理栄養士の資格も持っている。
 栄養バランスを考えたメニュー作りには、自信がある。
 鶏肉とゴーヤをメインの食材に決め、保冷バッグを持ってスーパーに歩いて向かう。
 出かける前に、タンクトップの上からシャツをゆるく羽織る。
 海結は、自分の大きな胸が、外では視線を集めることを知っている。不快な視線を避けるための日課のようなものだ。
 百円ショップと併設されているスーパーは、アパートが並ぶエリアと、道を挟んですぐ向かいにある。近隣に保育園や歯医者などもあり、暮らしに必要な施設やものが、徒歩の範囲で大体そろうように街が整備されている。
 エアコンの効いた室内から外に出た途端、汗が肌からじわりとふき出てくる。
 午後四時だというのに、圧迫を感じるほどの熱気はまったく衰えていない。
 スーパーまでは歩いて五分程度だが、そのわずかな時間に、羽織るシャツにも汗ジミができる。
 広い駐車場を横断して、スーパーの入口に向かう。車の排気ガスと、アスファルトから上がってくる熱が混ざって、肌にしつこくまとわりつく。
 店内は、様々な客が買い物をしている。
 子供を連れた若い夫婦。子供が奇声を上げながら走り回り、他の買い物客に衝突する。
 衝突された客が注意すると、子供も親も、まるで異星人でも見たかのような目をして、何も無かったかのように、足早にその場を離れてゆく。
 昭和の時代を生きてきたと思しき老夫婦。夫が、杖をついた妻の歩様に悪態をつく。
 夫がカートを押す中年の夫婦。夫が食べたいと言うものを、妻がかたっぱしから否定してゆく。
 海結は、私と陸斗は、将来いったいどんな夫婦になっているのだろう、子供は私達の間にいるのだろうかと、思いを巡らせた。
 世の中には、様々な夫婦の形がある。もしかしたら、私が抱えるもやもやしたものなど、どの夫婦もとうに乗り越えてきた、取るに足らないものなのかもしれない。
 買い物かごの中に今夜の食材を入れ、無人のレジに並ぶ。バーコードを読み取らせるたび、ピッ、ピッ、という無機質な機械音を聞く。
 無言で保冷バッグの中に食材を並べてゆく海結の隣で、店員同士が、仕事と関係ない話をしている。
 海結は、スーパーから出ると、軽く頭を振った。
 店内にいた時、服の中にため込んでいた冷気が、外に出た途端あっという間に逃げていった。

 アパートの部屋に戻った海結は、夕食の支度に取りかかる。
 普段、陸斗がダラダラしているリビングや、二人で使う寝室と違い、キッチンは海結だけの縄張りだった。
 コンロや電子レンジは、家電量販店で購入したものだが、鍋やフライパン、包丁などの器具は、海結がこだわって選んだものが揃えてある。
 一般的なスーパーでは手に入れにくいマニアックな調味料も、種類ごとに分類され、きれいに並べて棚にずらりと並んでいる。
 メインのおかずとして、鶏のむね肉を、梅としそを合わせて照り焼きにした。
 それに、ゴーヤチャンプルーと、キュウリを塩昆布とラー油であえたものを添える。
 少し子供っぽい舌の持主である陸斗の好みを考え、苦みや辛みを抑え気味にした。
 栄養バランスをベースにレシピを考えてしまう海結は、どうしても塩分を控え目にしてしまう。
 しかし、今は盛夏だ。汗もかく。
 少し塩分を多めにして、パンチが足りないところはコショウで補う。
 手際よく料理しながら、もう目の前まで迫っている結婚記念日のことを考えた。

 陸斗は、海結より若いのにファッションには興味がなく、服を買うのも海結に任せきりだ。しかし、好みはある。
 買った服の中でも、大きめで黒っぽいものを好んで着ている。
 貧相な体を覆い隠しているつもりかもしれないが、かえって中の体の線の細さが目立ってしまい、海結の目にはただ幼く、学生のようで、決してかっこよくは見えない。
 結婚記念日には、アウトレットモールに出かける予定を立てている。
 この際、陸斗が結婚前から着ている服も、好みに合わせて買ったダボダボの服も、全部思い切って処分してしまおうか。
 大半は捨てることになりそうだが、中にはリサイクルショップに持ち込めるものもあるはずだ。
 財布との相談になるが、シンプルでもっと大人っぽい、陸斗の幼い雰囲気をカバーできる服を買いたい。
 ジャケットにTシャツかポロシャツ、下にコットンのパンツか、シルエットの良いジーンズを合わせ、シンプルにまとめる。
 元々容姿の整っている陸斗なら、着こなせるはず。雰囲気も大人っぽく決まるだろう。
 海結自身は、古びてきたブラやショーツを買うつもりだった。アウターは間に合っている。
 仮に、普段選ばないような、アダルトな下着を買ったら、陸斗はどんな顔をするだろうか。
 アウトレットモールでの買い物の後は、港で夕陽を見ながら二人で過ごす計画だ。
 陸斗が、プロポーズの時を思い出してくれれば、少しは情熱が戻ってくるに違いない。
 そして、新しい下着を身に着けて、結婚記念日の夜を、と思ったところで、海結は期待混じりの妄想を打ち消した。
 先日は言いそびれてしまったが、今日こそは、夕食を食べながら陸斗に提案してみようと思った。

 頭の中で結婚記念日のことを考えている間も、海結の料理をする手は止まることなく、夕食が次々に出来上がってゆく。
 海結は、調理の間は一切味見をしない。料理ができてさらに盛られる直前に初めて味見をする。
 味見は、海結にとっては答え合わせのようなものだった。味見の結果が、頭の中にある理想とレシピのとおりの味になっていなければならない。
 違っていれば、それは失敗を意味する。失敗作でも捨てたりはしないが、気分は落ち込む。
 料理については、我ながら完璧主義だと思う。
 できたおかずを試食してみる。
 ゴーヤチャンプルーの塩気は想定どおりだが、少し苦い。理想とする完成形とわずかな違いしかないが、海結は失敗作と断じた。

 その晩、陸斗の帰りは遅かった。
 テーブルの上で、夕食が冷め切っている。
 壁かけの時計に目をやると、午後八時を回っている。
 これまでのことから考えるに、残業だったか、寄り道をしているかのどちらかだ。
 車が、アパートの敷地に入ってくる音が聞こえてくる。音の調子から、海結は、陸斗の軽自動車のものではないかと思う。
 しばらくして、チャイムが鳴った。
 念のため、
「陸斗?」
と、ドアの内側から問う。
「俺」
と、陸斗の声が聞こえた。
 チェーンと鍵を外してドアを開けると、陸斗は何も言わずに入ってきて、靴を脱ぐ。
 右手にコンビニ袋を下げている。
 リビングに入ると、ソファーにどさっ、と腰を下ろす。
 ただいま、の一言もない。
 その様子から、多分会社で面白くないことがあり、退勤後にどこかに寄ってきたのだ、と海結は思った。
「パチンコ?」
「そうだよ」
 いらだちを帯びた声で答える陸斗。
 海結は、これまでも何回かあった同様のことを思い出していた。
 陸斗は、仕事のこと、勤め先のことを積極的に話すほうではない。話したとしても、断片だけだ。
 その断片をつなぎ合わせると、恐らく、上司や先輩から注意されたり、パート従業員のおばさん達からいじられたり、そんなところではないかと海結は想像した。
 そして、そういうことがあった時、陸斗は決まってパチンコに寄ってくる。
 ギャンブルの類はまったくやらない海結には理解しがたいが、小遣いの範囲でやる分には、目くじらを立てることでもない。
 冷めた夕食をレンジで温め直し、もう一度テーブルに並べる。
 陸斗は、無言のまま食べ始めた。
 心なしか、普段より箸やスプーンの使い方が荒く、椀や皿にぶつかるたび、がちゃ、がちゃ、と音を立てる。
 海結も座り、向かい合って夕食に箸をつける。
 陸斗は、対面に座る海結のほうを見ようとせず、ずっと下を向いたまま黙々と食べ続けている。
 今日はスマホすら見ようとしない。
 何も聞きたくない、話しかけて欲しくない時、陸斗はいつも決まって子供のような態度を見せる。
 海結が一番見たくない、駄々をこねる弟そのものの姿だった。
 とても結婚記念日のことを切り出せる雰囲気ではない。
 夕食を終えると、陸斗はソファーに座り、コンビニ袋からのり塩のポテトチップスを取り出して食べ始めた。
 海結が作った料理だけでは足りないのか、あるいは料理に不満があるのか。
 また海結の心の中に、灰色の感情が頭をもたげてくる。
 海結の感情が表に出ていたのか、陸斗が申し訳程度に「食う?」と声をかけてくる。
 海結は返事をしなかった。
 ポテトチップスひと袋をカラにすると、陸斗はシャワーだけ浴びて早々と床についてしまった。
 海結は寝室のドアを閉め、ひとりリビングでため息をつく。
 また、結婚記念日のことを陸斗に話すことができなかった。
 その日は近づいている。
 焦りを感じるが、早く陸斗の機嫌が直ってくれることを願うしかなかった。



 結婚記念日は、もう来週、というところまで迫っている。
 なかなか良いタイミングが見つからず、陸斗に話を切り出せないまま、ずるずると今日を迎えてしまった。
 記念日前の、最後の土曜日だ。
 海結が言いそびれていたためか、陸斗も結婚記念日のことを考えていなかったせいか、陸斗は当日に勤務のシフトを入れてしまっていた。
 事前に立てていた計画も、変更を余儀なくされた。
 二人で出かけて一日を過ごすとすれば、今日か、明日の日曜日しかない。
 今日か明日のうちに、アウトレットモールで買い物は済ませておきたい。
 結婚記念日当日は、陸斗が仕事から帰ってきた後、いつもより豪華な夕食を取りながらお祝いし、二人の夜を過ごせば良い、海結はそう考えた。
 陸斗はソファーに横になり、ぼんやりとスマホを見ている。
 先日は、会社で嫌なことでもあったらしく、いらだっていたが、幸い、もう機嫌は直っているように見える。
「陸斗?」
「ん? 何?」
 スマホを操作しながら生返事をする。
「もうすぐあの日が来るけど、忘れてないよね?」
 陸斗の指の動きが止まる。
 少し間を置いてから、スマホを置いて海結のほうを向くが、視線を合わせようとはしない。
「……結婚記念日」
「私と陸斗が結婚して、もうすぐ一年になるんだよ」
「うん」
「私、記念日のことは、ちゃんと考えておいたから」
「うん」
 陸斗の返事は、あまりに素っ気ない。感謝の言葉すらなく、再びスマホをいじり出した陸斗を見た時、海結は心に引っかかるものを感じた。
「じゃあ、陸斗は結婚記念日のこと、何か考えてくれてた?」
 問われた陸斗は、横に伸ばしていた足を下ろし、ソファーに座り直した。
 海結も、陸斗の隣に腰をかけた。
陸斗の視線はあちこちに泳ぎ、定まらない。
「どうなの?」
「いや、考えてたんだけど、多分、海結が計画立てて、やってくれると思ってたから……」
 確かに、海結も陸斗が何も考えていないだろうと、半ば考えてはいた。
 記念日当日にシフトを入れたことからして、それは確実だった。
 しかし、二人にとって初めての、大切な記念日ではないのか。
 百歩譲って、一応考えていたとしても、なぜこれまで何も言わず、自分から動こうせず、海結に確かめようともしなかったのか。
 体を縮めて小さくしている陸斗は、姉に恐れをなしている弟のようだ。
 その姿を横目で見ていると、灰色の感情が血管の中を巡り、頭まで上ってくるのを感じる。
 海結は、いったん深呼吸をして、心を落ち着かせることにした。
 陸斗は今、自分から何もしなかったことに負い目を感じている。今日か明日、二人で出かけることを提案しても、拒否されることはないだろうと、冷静に踏んだ。
 海結は、市内のアウトレットモールで買い物をしてから、港で夕方まで過ごそうと提案する。
 提案を聞いた陸斗の眉間に、かすかなしわが寄る。あまり乗り気でないことが見て取れる。
「熱中症になるかも」
とささやかな抵抗を示したが、出かけること自体に反対はしなかった。
 海結は、アウトレットモールで購入予定のものを、あれこれと陸斗に話して聞かせる。
 今の海結は、専業主婦で収入がない。二人の暮らしを維持するすべての金が、陸斗の稼ぎから出ている。
 大きな出費がある時は、たとえ形式的であっても、一応旦那に話をとおしておく。海結が母から教わった主婦の心構えだ。
 海結と陸斗の下着類を買い替える話に、陸斗は「いいよ」とうなずく。
 続けて、陸斗の服を大方処分することを前提に、アウトレットモールで買った服と入れ替えようと切り出した。
「陸斗は、もっとシンプルで、大人っぽい服のほうが似合うよ。一緒になってもう一年経つんだから、いつまでも前のままじゃなくて、大人っぽく……」
 海結の話を聞いていた陸斗は、次第に黙りこくり、視線が動かなくなってゆく。

「うるせえよ」

 海結は、突然投げられた言葉に、思考が留まった。陸斗が何を言っているのか、わからない。
 陸斗が顔を上げ、海結の目をじろりとにらんでくる。
「海結はさ、俺のことガキっぽいと思ってるわけ?」
「えっ?」
「俺のこと子供っぽくて、大人の自分と釣り合わないと思ってるのかよ」
 久しく見ることがなかった、怒っている時の陸斗の顔。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何だよ。さっきから、大人っぽく大人っぽくってさ」
「……」
「海結からしたら弟みたいなもんかもしれないけど、俺、嫌なことあっても会社行って、真面目にがんばってるだろ? いったい何が不満なんだよ」
 陸斗は普段あまり感情を荒げない分、一度極端に振れると、元に戻るまで時間がかかる。
 そのことを知っている海結は、しばらくの間、陸斗に言いたいことを吐き出させて、ガス抜きしようと思い、口をつぐんだ。
「結婚記念日のことにしたって、俺が何も考えてないみたいに言うけどさ、どっちかが考えれば済む話だろ。俺、仕事してるから、海結みたいに細かく計画立てたりする時間はないよ。海結は家にいて、考える時間いっぱいあるだろうけどさ……」

 その言葉が耳に届いた瞬間、海結の中で、灰色の感情を押し留めていたものが外れた感触があった。
「陸斗!」
 海結は大声で、隣の陸斗に叫んでいた。
 驚いた陸斗が、ソファーの上で、瞬間的に後ずさりする。
 海結は立ち上がり、陸斗の面前に立った。握り締めた自分の両手が震えているのを感じる。
 これまで、無意識にふたをして閉じ込めていた感情が、体の奥から一気に外に放たれようとしている。
 こんなのは私の理想じゃないと、自分の中の誰かが訴えている。
 もう、抑えることはできなかった。
「何が不満、だって? いい加減にしてよ! 私は、ずっと我慢してきた! ずっと! 陸斗が何も考えてくれなくて、結婚してからも全然変わってくれなくて、家でダラダラしてる時も、ずっと、私は……!」
 海結を見上げる陸斗は、怒りに振れていた感情が、一気に真逆の方向に振れた様子だった。ただ目を丸くして、口をかすかに動かして声にならない言葉を呟いている。
「大体、家にいて欲しいってわがまま言って、仕事を辞めさせたのは誰よ!? 私は自分のキャリアを犠牲にした! 陸斗は? あんたは何か犠牲にした? それを家にいるから時間があるって? ご飯は? 掃除は? 洗濯は? 誰が全部やってるのよ!」
 次から次へと、言葉が弾になって陸斗を襲う。
「朝から晩までスマホばっかり見て、私の話全然聞いてないくせに! 結婚記念日も家のことも全部私任せ! 真面目に仕事してる? だから何!? 私を家に閉じ込めて! 私がどんな気持ちで毎日過ごしてるか、少しも考えてない! 私達、本当に夫婦なの? いつまでたっても弟みたいに甘えて!」
「……」
「私は、あんたの姉じゃない!」
 陸斗の肩が小刻みに震えている。顔を下に向けて海結を見ることもなく、ただ、じっと押し黙っている。
「何で黙ってるの!? どうして何にも言わないの!? こっち向いて! 聞いて! 私と向き合ってよ!」
 いつの間にか、視界がぼやけていた。海結は、自分が泣いていることに気づいた。
 声も、握りしめた拳も震えが止まらない。
 陸斗は反論もせず、海結と顔を合わせないようにそっと立ち上がると、寝室のほうへふらふらと歩いていった。
「陸斗!」
 陸斗は、海結の声を断ち切るように、寝室のドアを閉めた。
 ごそごそと、タオルケットをかぶる音がドア越しに聞こえてくる。
 陸斗は、逃げた。
 海結はそう感じた。
 人間は、そう簡単には変われない。陸斗もそうだ。しかし、せめて海結から突きつけられた怒りに、真正面から向き合って欲しかった。
 突然降り出した大雨のように、頂点に達していた怒りの炎が消され、くすぶる火種が煙だけになってゆく。
 陸斗に変わることを期待することが、そもそも間違いだったのかもしれない。
 これまでも、この先も、何も変わらない。

 海結が寝室のドアを開ける。ベッドの上に、タオルケットをかぶって丸くなっているものが見える。
 陸斗に何の言葉もかけず、クローゼットからキャリーバッグを取り出す。
 チェストから、日常的に着る下着や服を取り出し、かたっぱしからキャリーバッグにつめ込んでゆく。
 鏡台の上から化粧品や腕時計を、肩かけバッグの中に放り込む。
 ベッドから、もぞもぞと音がする。
「……いったいどうしたんだよ」
 不安そうにかすれた陸斗の声を無視して、荷物をつめてゆく。
 チェストの三分の一ほどが空になった。
 クローゼットのドアを閉める。
 キャリーバッグのファスナーを引いて閉じる。
 ハンドルを引き出して立てると、小さな車輪の音がフローリングの床に響いた。
 寝室を出て、リビングから自分の財布とスマホを取る。
 キャリーバッグを引きながら玄関へ歩くと、背後にようやく追ってきた陸斗の気配がある。
「どこに行くんだよ」
 海結が半身で振り返る。
 陸斗は、二人で暮らしてきたこの部屋を、海結がこれから出てゆこうとしていることが、にわかに信じられない様子だった。
 その表情は、口を閉じることも忘れ、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
 陸斗が海結の肩に手を伸ばしてきた瞬間、
「触らないで!」
と、海結は叫んでいた。
 手を引いた陸斗を後目に、スニーカーを履く。
「待ってよ……」
という、か細い声が中から聞こえたが、海結は構わず玄関ドアを閉めた。
 白い光に、海結は一瞬眩しさを感じた。
 重いキャリーバッグのハンドルを持ち、アパートの階段を一段一段下りる。
 駐車場まで来たところで、海結は三階の部屋を見上げた。
 ドアが開く音は聞こえず、陸斗が追ってくる様子もない。
 帽子を持ってくれば良かった、と思いながら、海結はアパートを背に、炎天下を歩き始めた。
 正午も近い灼熱の中、スーパーの前に数人見る他は、外を歩く人の姿はない。
 キャリーバッグの車輪が立てるゴロゴロという音だけが響いていた。

(続く)
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