黄金のオルカ

第一二話 黒潮に乗って(完結)



 土曜日の朝、フィッシングボートに乗り込んできた客は、親子三人連れだった。
 会社員の父親と母親、それに、幼稚園に通っているという女の子。どこにでもいそうな、ごく普通の家族。昨日、有給休暇を利用して東京からやってきたと聞く。
 柔らかそうな髪を二つ結びにした女の子は、シャチのぬいぐるみを大事そうに抱えている。
 海結は、ほほ笑みながら女の子に話しかけた。
「シャチさんが好きなの?」
 女の子は、少しはにかんだような表情で、ぎゅっ、とぬいぐるみを抱く腕に力を込めた。
「……好き」
「そうなの。今日、シャチさんに会えるといいね」
 うなずいてから、女の子は父親の背に隠れた。
 トムは、ボートの点検をしている。
 その様子を横目で見ながら、本当は、すぐそこにいるのよ、と頭の中で呟いた。
 親子にライフジャケットを身に着けさせ、シートに座らせたところで、トムは舫いを解いてボートを出港させた。

 沖に出ると、右舷の後方に、さっそく潮吹きが見えた。
 シャチのポッド、トムの妹弟達だ。
 海結が、連日ホエールウォッチングに参加しても、なかなか出会えなかったことを考えると、嘘のように思える。
 シャチ達は、海面に出たり隠れたりしながら、どんどんボートとの距離をつめてくる。
 トムがボートのスピードを上げると、シャチも泳ぐ速度を上げ、ぴったりと舷側に張りついてきた。
 親子はびっくりして、並んで泳ぐシャチを食い入るように見つめている。
 ボートは少しずつ速度を落とし、洋上に停船すると、すぐにシャチに取り囲まれた。
 いつもなら、トムが客を後部デッキに誘導し、シャチについて説明するはずだった。
 しかし、なぜか今日は、キャプテンシートから動こうとしない。腕を組み、じっと前方を凝視したままだ。
 海結は、トムの横顔と、親子を交互に見る。
 トムはそれでも動かない。仕方なく、海結が親子を案内することにした。
 キャビンドアを開けた途端、キュイー、キューンという鳴き声、ブフーッ、と潮を吹く音がけたたましい。
 女の子は、ボートを中心に、ゆっくりと泳ぐシャチの姿に、
「わあ……」
と言ったきり、その場で固まってしまった。
 父親が、女の子をブルワークにつかまらせて、その背中からしっかりと支える。母親は隣で、女の子の肩に手を添えた。
「ほら、シャチさんいるよ。すごいねー」
 オスのシャチ、アレクサンダーが、女の子のそばまで寄ってきて、海面上に顔を出した。
 まるで、女の子に話しかけるように、口を開けたり閉めたりしている。
 その様子に気を良くしたのか、女の子が身を乗り出し、アレクサンダーの鼻先に手を伸ばそうとする。隣の母親がその手を制した。
 海結は、親子の背後から声をかける。
「シャチさんは、触っちゃいけないのよ」
 女の子は振り返る。
「どうして? 何でダメなの?」
「それはね、シャチさんは触られると、もっと仲良くなりたいって、ぱっくんしてくるかもしれないからよ」
「ぱっくん!?」
「そう。だから、触っても食べ物をあげてもいけないの」
 きゅっ、と唇を結び、真剣な表情でうなずく女の子。
 触れられない代わりに、女の子は、アレクサンダーに様々なことを話し始めた。
 両親のことや、幼稚園のこと、友達のこと、好きなものや嫌いなことなど、シャチに語って聞かせる。
 そのたびにアレクサンダーが首を振ったり、口を開け閉めしたりするので、女の子はシャチと「お話し」をすることに夢中になった。
 無邪気にはしゃぐ女の子を見ながら、昔の自分と同じだな、と海結は思う。
 夜勤明けの父に、海のテーマパークに連れてってと、よくせがんだ。
 父の肩車で見たシャチのショー。シャチの跳躍。水しぶき。トレーナーの姿。
 今、幼少期から持ち続けてきた夢や憧れは、姿を変えてしまった。それを惜しいとは思わないが、少し寂しくはある。
 この女の子にも、いつかそういう時が来るのだろうか。
 アレクサンダーが親子の相手をしている間に、他の四頭はボートの右舷前方に移動して、キャビンに向かって、しきりに鳴き声を上げていた。
 海結にはわかる。シャチ達がボートに近づいてきた本当の目的は、トムに海への帰還を説得すること。長兄のトムを置いて旅立つ、という選択肢はないのだ。
 海結に兄弟姉妹はいないが、その絆の強さを、まざまざと見せつけられている気がした。
 当のトムは、キャビンの中に閉じこもったままだ。会う気も、話し合う気もない、ということか。
 しかし、妹弟達の懇願に耳を塞いだままで、本当に良いのだろうか。
 シャチ達をこの海に引き留めているのはトムで、トムをここに引き留めているのは、他でもなく、この私だ。
 海結は、前部デッキに移動する。
 幸い、シャチ達は海結に対しては悪意を見せなかった。むしろ、海結が下を覗けば顔を突き出し、ほほ笑みかけると、うなずくように首を振り、口を開ける。
 心臓に氷を当てられたような感覚に襲われる。
 少し冷たい北風が吹く。
 水平線の上を、点のように動く漁船の姿が、以前よりも鮮明に見える。地元では、秋の風物詩であるシイラ漁も始まったと聞く。
 夏が、終わる。

 その夜も、海結はベッドで、トムはハンモックで眠る。
 コンクリートの壁を伝う空気が冷たい。朝まで開けっ放しだった窓も、最近は閉じて寝るようになった。
 海結は寝つけないまま、じっ、と天井を見つめている。
 カーテンの向こうから、ギシッ、とハンモックが鳴る。少し間隔を置いて、また鳴る。
 トムも眠れないのだろうか。
 今、トムは、妹弟達と私、海と陸、野生と人間の狭間で、揺れている。
 私がもし、このまま、この地でトムと生きるとしたら。
 シャチは、生まれ育ったポッドで生涯を過ごすと聞く。それほどまでに強固な家族の絆を、トムは切ることができるのか。
 人間社会の中で、シャチである自分を一生隠し、偽り続けることができるのか。死んでなお、家族と切り離されたまま海にも帰れず、地中に葬られることに耐えられるのか。
 私とて、同じだ。
 幼少期から続いてきた、陸斗との縁を切り捨て、何も無かったように暮らしてゆけるのか。夫婦になる前から、すぐ隣にいて当たり前の存在だった陸斗を捨てて。
 それぞれが切り捨てたものの影に、ずっとつきまとわれることになるだろう。
 家族とともに旅立つトムに、ついてゆくとしたら。
 トムの家族は、旅をする一族だ。恐らく、ひとところに長くとどまることはない。水温や食料などの条件が変われば、ためらいなく移動するだろう。
 それは、終わりのない旅だ。人の縁からはぐれたまま、トムとシャチ達との世界だけに閉じこもり、流浪の人生を送ることになるだろう。
 もう、終わりなんだ。
 ずっと胸の奥にたまっていた何かが、ふたが開けられた瞬間に流れ出すように、体の中へ、頭の芯へと染み渡ってゆく。
 目を閉じる。
 その結論を、自然と受け入れてしまっている自分がいる。これが定めなんだ、と考えてしまっている。
 これまで、誰かが作った流れに従って生きてきた気がする。進学も、就職も、陸斗との結婚を決めたことも。
 定めに従うしかないとしても、トムを好きになった気持ちや、トムと暮らした時間を、無意味なものには、しない。
 それが、せめてもの私の意思。
 海結は、目を見開き、コンクリートの冷たい天井を、にらむように見つめた。

 翌日、ホエールウォッチングは午後便からだが、トムは朝早くから家を出た。
「話し合ってくる」
と、それだけを言い残して。
 連日の妹弟達の呼びかけに、追いつめられてきた、ということか。
 海結は、家で待つ。
 恐らく、シャチの姿に戻り、海中で「家族会議」をするのだろう。
 ベッドに腰を下ろした。
 下に、キャリーバッグが押し込んである。
 意を決し、両手で引っぱり出す。
 ベッドの上に乗せて、左右に開く。ネット状の小物入れの中から、折りたたんだハンカチを取り出す。
 ハンカチの中から、結婚指輪が現れた。
 右手に取り、左手の薬指にはめ直そうとした時、一瞬のためらいが手を止めた。
 私に、この指輪をする資格があるのだろうか。
 陸斗だけに許してきたものを、トムに明け渡してしまった自分。陸斗への想いを抱えつつ、トムを本気で好きになってしまった自分。
 それでも、私は陸斗の妻以外の何者でもない。この先どうなるのかはわからないが、今は、陸斗の妻なのだ。
 指輪を薬指に押し込む。
 さしたる抵抗もなく、定められた位置に、すっ、と納まった。
 以前はきつく、存在感がありすぎて、しっくりこなかった指輪。
 外していた時間が存在しなかったかのように、ごく自然に薬指と抱き合っている。
 窓からの光を受けて、きらりと反射する指輪が、自分の顔を、輪郭まではっきりと映し出していた。

 昼前にトムは家に戻ってきた。
 玄関に立つトムは、なぜか出迎えた海結と目を合わそうとしない。思いつめたような表情で、終始うつむき加減だった。
 出迎える海結の左手には、結婚指輪。
 それに気づいた瞬間、トムは大きく目を見開き、しばらくの間、指輪をじっと見つめていた。それから海結の顔を見て、眉間を深く寄せてから、まぶたをぎゅっ、と閉ざした。
「……帰るのか」
「ええ」
 トムは無言でライフジャケットとデッキシューズを脱ぐ。海結の横を通りすぎて、どさっ、と、椅子に腰を落とした。
 小さなため息が聞こえる。
 海結は、キャリーバッグの中から、陸斗の手紙を取り出して、トムに渡す。
 海結を見上げるトムの目が、これは何だ、と聞いている。
「読める? 日本語」
「あ、ああ。難しい漢字がなければ」
 手紙を広げて読み始めたトムと、向かい合って座る。
 トムの目が、上下に動いて、手紙の文字を追い始める。
 次第に、手紙を持つ手が震え始めた。
 読み終えると、トムは手紙を静かにテーブルの上に置き、目を閉じた。
 両目を覆うように、右手を当てながら、
「そうか、僕は……」
と、うめくように言う。
 沈黙の重い時間が流れる。
 何度も、何か言いかけては引っ込めるトム。言葉を探しているようだった。
 海結は、トムが言葉を紡ぐのを、黙して待った。
「……僕は、海結さんだけじゃなくて、あなたの夫まで傷つけていた」
「……」
「二人が離れている隙に、勝手に割り込んで、二人とも汚してしまった」
「トム……」
「僕が、最初から正体を明かしてれば、きっと、こんなことにはならなかったのに……」
 トムの声は、渦巻く感情を整理できないまま、言葉にできるものから口に出している感じだった。
 なぜ、トムは今さら後悔の言葉を口にしているのか。陸斗という夫がいることを知っていながら、私を抱いてきたのではなかったか。
 野生のルールに従うトムの生き方。出会った頃のトムは、だからこそ、純粋で、清廉で、研ぎ澄まされていた存在だった。
 肩を落として震えている今のトムは、とても小さく見える。
 海結が恋したトムは、あの野生の匂いは、いったいどこに消えてしまったのだろうか。
 胸がぎゅっ、と締めつけられる。トムに言葉をかけることが、追い討ちをかけるように思えて、ためらわれた。
 しかし、伝えなければいけない。逃げずに、自分の意思で決着をつけなければならない。
「聞いて」
 海結の声に、トムが顔を上げた。
「私には、今も私を待ち続けている夫がいる。トムにも、帰りを待つ家族がいる」
「……」
「陸斗は幼馴染だった。小さな頃から、気づけばそこにいた。それが当たり前だった。変わらないことにいらだちもあった。トムといる時間は、そのことを考えずに済んだ。でも、忘れられなかった。赤の他人になることは、できなかった。トムも、同じでしょう。トムが帰らなければ、あの子達はこの海を離れない」
 トムの肩が、ぴくりと動く。
「私は、トムの足枷にはなりたくない。トムを縛りつけて、もうこれ以上、トムの野生を奪いたくない。このまま二人で暮らしても、幸せになれるとは、どうしても思えないの」
「……」
「トムが私のために、ここにとどまる理由は、もうないのよ。私は陸斗のところへ帰る。だから、トムも帰ってあげて、あの子達のところへ」
「海結さん……」
「終わりにしましょう、もう」
 海結とトムの視線が、交錯する。
「ごめんなさい。どうしても、言わなきゃいけなかった……ごめんなさい」
 静かに、首を横に振るトム。
「僕のほうこそ、すまない。僕が先に言うべきことを、海結さんに言わせてしまった。海結さんは、自分で決めて、決めたことを、ちゃんと言葉にした。海結さんは人間だ。僕は……」
「……」
「せめて、僕が海結さんのためにできることは、あるだろうか」
「ひとつだけ、お願いがあるの」
 海結は、息を吸い、呼吸を整えてから、言葉に出した。
「私は、私とトムで、すべてを終わりにしたい。二人でいっしょに、この暮らしに幕を下ろしたいの。トムが旅立つ日まで、私はここにいるから」
 トムは、かすかな笑みを浮かべて、うなずいた。



 シャワーの音が、部屋中に響く。
 トムは、シャチであることを知られてから、海結を抱こうとはしない。
 獣姦によって海結を汚し、動物へと貶め、人間としての尊厳を失わせることになる、と思っているのか。
 当の海結は、トムに汚されたとは微塵も思っていない。そのことをトムに伝えなければいけない。誤解を残したままで、別れたくはない。
 ベッドに腰を下ろし、左手の指輪を見つめる。指先で、そっと触れてみると、硬質な感触と、微熱が伝わってきた。
 私は、私の心に従う。ここを離れるまでの間だけ、許して。
 指先でなぞりながら、海結はそう語りかけた。
 少しして、カーテンを引く音。トムが簡易の脱衣所から出てくる。
 やはり、海結に触れてこようとはせず、ハンモックに歩み寄る。
「おやすみ、海結さん」
 そう言って、天井の照明に腕を伸ばしたトムを、海結は、
「待って」
と呼び止めた。
 ベッドから立ち上がり、トムの胸に飛び込む。両腕をトムの腰に回し、ぎゅっ、と力を込めて抱きしめた。
「海結さん……」
「抱いて」
 トムの両腕が海結の背に巻きついてきたが、その熱は、すぐに離れていった。
「ダメだ、もう」
「どうして?」
 トムの顔を見上げる。眉間に深いしわがあった。
「僕は、人間じゃない、獣なんだ。そう知られた以上、海結さんを汚すことは……」
「やめて、トム」
「……」
「私は、汚されたなんて思ってない」
 海結は、トムの瞳を見すえた。
「私にとって、トムはトムなの。シャチとか人間とか、関係ない。汚すとか言われたら、私がトムを好きになった気持ちまで汚れる。今までトムに抱かれてきたことが、全部無意味になる」
「……」
「だから、汚すなんて、言わないで」
 トムの唇が震える。
「海結さんは帰るんだろう、夫の元へ」
「結婚してることも、陸斗のことも、全部私が背負うことよ。私は、トムに溺れた。流された。でも、そうなることを望んだのは、私なのよ」
 何かを言いかけて、飲み込むトム。
「トムも、陸斗に勝とうとか、優越感を味わおうとか、そんな理由で私を抱いてきたわけじゃないでしょう?」
「僕が思っていたのは、海結さんのことだけだ」
「なら、トムは、私と陸斗のことを気にする必要はない。私が引き受けることだから」
 しかし、トムの顔は、なおも歪んでいる。
「それだけじゃないんだ」
「え?」
「海結さんの気持ちは嬉しい。だが、まだ伝えていないことがある」
「何?」
「……」
「話して。私は受け止めるから」
 海結の目力の強さに観念したのか、トムは話し出した。
「……僕は、人間との間に子供は作れない。人間の姿になっても、種族の壁だけは絶対に越えられないんだ。言えなかった。どうしても……」
 消え入りそうな声で「すまん」と言うトム。両手で作る拳が、震えていた。
 これまでトムが、避妊の類を一切しなかったのは、そういう訳だったのか。
 トムはこの事実を知っていて、海結は知らされないまま、抱かれるたび、妊娠の恐怖に苛まれた。
 自分でも不思議だが、海結は怒り、恨む気にはなれなかった。むしろ、それを秘して正体を隠し続けてきた理由を思うと、体の中を、高揚感が駆け巡った。
 心の中で苦笑しながら、海結はゆっくり息を吐いた。
「今、しかないのね、私達は。過去も、未来も。今だけ」
「海結さん……」
 トムの胸板に額を当てる。
「お願い、わかって……」
 背中に、再びトムの腕が回ってくる。海結は、両手をトムの頬に伸ばした。海結の誘いに引かれるように、トムは身を屈め、唇を重ねてきた。
 最初は軽く、少しずつ深く。唇を割って中に入ってこようとする舌。海結は唇を開け、自分の舌で迎える。先端で押し合い、絡ませ合う。
「……ふっ……んん……んっ……」
 海結の口の端から、吐息が漏れる。
 トムの鼻から漏れる熱い息が、じかに顔にかかる。オスも硬さを増し、ぐいっ、と海結の腹を押している。
 唇が離れると、唾液が糸を引いて、海結の寝間着を濡らした。
 体の火照りを感じながら、トムの目の前で寝間着を脱ぎ、ブラの紐を肩から抜く。解放された乳房に、ひんやりとした空気を感じながら、片脚ずつ、ショーツを脱いだ。
 トムの目に、獲物を喰らおうとする野獣の光が戻ってくる。すでに、短パンの前は、布を突き破ってしまいそうなくらい大きく張りつめていた。
 トムが天井の照明を消そうとするのを、海結は両手で引き止める。
「このままで、いいから」
 海結の左手をつかむトム。
「指輪は」
「いいの、これで」
 トムの左手に、右手を重ねる。
「これは、私が私でいるための目印なの。自分から逃げないための」
「海結さん」
「だから、トムも逃げないで」
 膝立ちになる。短パンの中に無理矢理閉じ込められているオス。引っかかる短パンを伸ばしながら脱がせる。
 ブリーフごしに、頬でオスの硬さと熱を感じる。ブリーフを引き下ろすと、オスが、ぴくっ、ぴくっ、と弾んでいた。
 オスを海結の手に委ねながら、トムはTシャツを脱ぐ。
 二人とも裸になったところで、トムは海結を抱え上げた。そのままベッドへ運んで、海結に覆いかぶさってきた。
「トム、待って」
「ん?」
「今日は、私がしてあげたいの。ダメ?」
 トムは、目を丸くしてから、
「ああ、いいが……」
 トムを仰向けに寝かせて、その上に覆いかぶさる。トムは、世慣れぬ少年のようにはにかみ、頬を染めた。
 首に腕を回し、トムの頬にキスをする。赤銅色に焼けた肌の感触を確かめながら、首筋から肩、胸板へとなぞってゆく。
 天井の灯りを受け、ごく微細な産毛が、金色に輝いている。
 胸の厚い筋肉と、張りつけられたような小さな突起。海結は指先でそれを挟んでみた。トムの体がぴくり、と震えた。
 戸惑うトムの表情。
「トムもそんな顔をするのね」
「そんなに見ないでくれ」
 可愛い、と思った。
 いつも主導権を握るトムが、今、海結の愛撫に反応し、恥ずかしそうに顔を背けている。
 ゾクゾクッ、と、海結の体を、これまで知らなかった悦びが走った。
「ダメ。もっと見せて。これまでのお返しなんだから」
 トムの乳首を唇に含み、ちゅっ、と音を立てて吸い上げる。舌の先で先端を刺激すると、トムはわずかに見悶えた。
 もう片方の乳首は指先で、触れるか触れないかくらいの刺激を送る。
「うっ……」
 海結の腰に触れるオスも、乳首を刺激するたびに、びくっ、と跳ねた。
 口と手の両方で、筋肉の盛り上がりをなぞってゆく。
 へそが腹筋の中に埋もれている。その中へ舌を差し入れた瞬間、トムの腰が引けた。構わず奥まで舐めると、少ししょっぱい味がした。
 さらに下へと頬をすべらせ、豊富な陰毛と、幹に触れる。
 海結は、鋭い角度で屹立するオスを、じっくり観察した。
 全体が赤黒く、幹を紫色の血管がうねうねとはい回っている。ぱんぱんに膨らんでいる袋の中には、ここのところ海結に触れてこなかった分、かなりの量の精液がたくわえられているはずだ。
 頭の部分からカリ首へ、カリ首から幹へと、両手でさする。
 赤黒いオスと、自分の白い手のコントラストに、指輪の反射が光を添えた。
 顔をオスに近づけ、すん、すん、と嗅ぐ。ブリーフごしと違い、匂いがじかに脳まで届いてくる。体の奥が、きゅん、と切なくなる匂いだ。
 頭の先端から垂れる、透明な液体を指ですくい取る。親指と人差し指の間で、ぬめった糸を引いた。
 かろうじて、オスの頭の半分ほどを口に含む。酩酊を誘うような濃い匂いが、口中に充満した。匂いで犯されているような錯覚に陥る。
 舌と唇で刺激するたび、オスはびくん、びくん、と反応するが、これだけでは射精まで追い込めそうにない。
 頭を舐め回しながら、幹を両手で握り込み、根本からカリ首までしごく。薄皮一枚下にある、火で焼かれた鉄のような芯。握る手に力を入れると、力強い脈動が、よりいっそう伝わってくる。
「ううっ……ぐ……」
 トムの小さなうめき声。海結は、幹を握る手の上下動を速めた。
 頭の先端にある割れ目に舌先を押し込んだ瞬間、
「出るっ……!」
 ひときわ大きくオスが跳ね、口の中に勢いよく精液を放たれた。
 やけどをしそうなくらい熱い。生臭い匂いと、苦みが口中に広がった。
 オスは、びくっ、びくっ、と脈動するたび、さらに精液を撃ち込んでくる。
 いっぺんに飲み干し切れる量ではない。口からこぼれ落ちてしまったものは、両手で器を作って受け止めた。
 白濁した液の中に、指輪が沈んでいる。
 口に運び、少しずつ飲む。残ったものは頭と幹に塗り込んで、舌と唇で味わった。
 トムの手が、海結の髪に触れてくる。
「またがってくれないか」
「またがるの?」
「されっぱなしは性に合わないし……どうにも、恥ずかしい」
 じっと、すがるような目を向けてくるトムを見ていると、海結の体がうずいた。
 両脚を開いてトムの顔にまたがる。トムの両手が腰と尻に伸びてきて、がっちりと固定された。
 股間にトムの息がかかった瞬間、腰が反射的に、びくっ、と震えた。
 指で秘裂を広げられると、体の中から染み出したものが、とろりと外に漏れ出してゆく感覚がある。
 今、トムに、見せてはいけないところを、奥まで全部見られている。恥ずかしさで顔が火照る。
 追い討ちをかけるように、
「濡れてる」
と、トムが見たままを口にした。
「そんなに見ちゃ、ダメ……」
「お互い様だ」
 海結の秘唇に、ぬめったものが触れてくる。
「んっ、あ……」
 舌が、秘唇の形にそってはい回る。
「あ、ふっ……ん、ダメ……今日は、私が……あ」
 敏感な突起を刺激してから、舌が膣内まで侵入してきた。
「んあっ! ……ううんっ、ああっ……」
 電流にも似た刺激が、股間から体の内側へと走り、筋肉を勝手に弛緩させてゆく。姿勢を崩して突っ伏してしまいそうになる。
 海結がオスを舐め上げると、トムは膣内の舌をうねらせながら、陰核を指先、くりくりと刺激し始める。
 海結とトムの深い吐息と、ぴちゃっ、ぴちゅっ、という湿った音。
「あう、んっ……あ、あっ……ん、んん……」
 海結の腰が、小刻みに動き出す。もはやオスに唇を寄せることもできず、海結は大きく背を反らせて喘ぐだけになった。
 このままだと、先に達してしまい、またトムにリードされるがままになってしまう。
「お願い……あっ……今日は、ダメ……だから、私が……あ、ああっ」
 海結は、舌と手から何とか逃れ、トムの体の上にかぶさり直した。
 トムの情欲に光る瞳。見下ろしながら、左手の指で秘裂を左右に開き、右手でオスをつかんで、膣の入口にあてがう。
 くちゅっ、と、吸いつくような音がした。
 体重を乗せて、ぐっ、と腰を下ろす。オスの頭が半分ほど入ったところで、強烈な圧迫感が襲う。
 しばらくトムに抱かれていなかったのもあって、粘膜が裂けそうな痛みがある。奥まで導こうとしても、どうしても腰が引けてしまう。
 その様子を見ていたトムが、手を伸ばしてきた。海結の太ももと腰をつかんで固定し、腰を、ぐいっ、と持ち上げる。オスが、一気に膣内に押し入ってきた。
「んんっ! く、ううっ……」
 きつい。膣を限界まで拡げられ、内臓まで押しのけられる感覚は、初めて抱かれた時のようだった。
 海結の目尻から、つーっ、と涙が流れる。
「大丈夫か?」
 トムは心配そうな顔をするが、膣をぎちぎちに満たしているオスは、かえって強く脈動して、絶え間なく刺激を与えてくる。
「平気……大丈夫、だから……んっ……トムは、動かない、で……」
 言ってはみたものの、オスにくし刺しにされたまま、動かすことができない。馴染んできたら、と思っていると、トムの手が乳房に触れてきた。
 親指と、四本の指で、ゆっくりと揉みしだかれる。
 トムの手の中で、乳房は縦横に形を変える。押し出された果肉が指の間から、丸くこぼれた。
「はあ……あっ……動かないでって……」
「腰は動かしてない」
 左右の乳首が指で挟まれ、爪の先で引っかかれる。
 だんだんと、膣のこわばりがほどけてきた。
 腰が自然に動き始める。海結は、その動きに自分の意思を乗せて、くいっ、くいっ、と前後左右に振り始めた。
 海結の深い場所に入り込んでいるオスの頭が、ぐりぐりと奥をかきまぜる。
「ああ……いい……これ、気持ちいい……ふ、ううん……」
 海結は、腰を動かすことに没入した。単純な直線運動から、次第に円弧を描くような動きに変化させてゆく。
 海結が動くたび、トムの腰との間で、愛液がくちゃっ、ぬちゃっ、と、淫靡な水音を立てる。
 もっと、欲しい。
 今度は腰を上下に振る。オスのカリ首が膣の襞を引っかける。その刺激が神経を弛緩させて、腰に力を入れられない。
 もどかしさを感じていると、トムの腰が、海結の体を下から揺すり始めた。
「ああっ! …あっ…あ…んんっ…うあっ…」
 頭上で手を組んだトムは、腰の筋力だけで海結を突き上げてくる。
 トムが腰を落とすと、海結の腰はワンテンポ遅れて落ちる。その差が、オスが膣をうがつストロークを生んだ。海結の腰が落ち切ったところで、トムは腰を持ち上げる。オスの先が、子宮を変形させながら、ぐいっ、と最奥を突く。
「ああっ、はっ、ダメっ、んあっ、ああっ、あっ」
 自分の力では到底得られない、繰り返し襲いくる強烈な快感。しびれと熱が一緒くたになって、頭のてっぺんまで駆け抜ける。
 もう来る、と思った瞬間、トムは海結を突き上げる動きを止める。
 海結の体を自分の胸へと引き寄せ、互いの腰と腹が密着した姿勢を作った。
 海結の体をすくい上げるように、腰を、くいっ、くいっ、とゆるやかに動かす。
「んっ……あ、ん……ん……」
 ついさっきまでの激しさとはうって変わり、体が形を失い、溶け落ちてしまうような感覚だ。
 海結の中にあるオスが、自分を突き崩すためでなく、まるで、おのずからそこにあって、体の熱源になっているかのように感じる。
 トムの手のひらが、尻を優しくなで回した。
「……あ……あっ……キス、した……い……」
 トムが少し頭を持ち上げた。海結は腕を回す。見つめ合い、唇を重ねる。唇を離し、宙で舌だけを絡ませ合い、また唇を重ねる。
 海結は、自分がメスのシャチになって、オスのトムと交尾しているように感じた。
 温かい海水の中を、体と体を密着させ、つながったまま漂っている。
 私とトムの境界、人間と動物の境界、みんな消えて、ひとつに溶け合ってしまえばいい。そう思った。
 つながった時間の永続を望んでも、体はゆっくりと、ゆるやかに、でも確実に頂きへと登ってゆく。
「あ……来る……ん、あっ……!」
 血液と神経が瞬間的に弾け、中に熱いものを受け入れる。
 意識を手放す瞬間、海結は、海中から見上げた、海面の輝きを見た気がした。

 気づいた時、海結はまだ、愛された心地よい余韻の中にいた。
 まだ自分の意志で動かしにくい体を、ゆるゆると起こす。
 トムの表情は穏やかだが、どこか達観しているようにも見える。
「海結」
「何?」
「本気で愛した人が、海結で良かったと思う」
 視線を微妙に上にそらせるトム。
 それを見ていると、結局はリードできなかったこともあって、少しいじわるな気持ちが、頭をもたげてくる。
「もう一度言って」
 トムは海結から顔を背け、体を横向きに直した。
「ねえ、ちゃんと、もう一回言って」
 せがまれたトムは、うつ伏せになって、顔を枕に埋めてしまった。
 その背中に覆いかぶさる。頬を密着させ、縦横に編まれた筋肉を、つーっ、と指先でなぞる。引き締まった腰から、筋肉で丸く盛り上がる尻、えくぼへと、手でなでる。
 やはり、惚れ惚れするような肉体美だと思う。あの丸々としたシャチが、どうしてこの美しい男になるのか、本当に不思議だった。
 海結は、トムの体に乗ってみたくなった。 
 トムの腰を鞍に見立てて、またがる。
「トムがはっきり言ってくれるまで、ずっと乗ってるからね」
「あんまりいじめないでくれ……」
 トムのくぐもった声。
 その背にしがみつきながら、
「好きよ、大好き」
と、海結は、そっと呟いた。



 翌日、トムと、ホエールウォッチングの提携先であるリゾートホテルに向かう。
 トムは、突然すべてを放り出し、人間の世界から姿を消して海に帰ることを、良しとはしなかった。
 それは、トムが、人として生きた人ならざる者だからか。海結はそう思った。
 営業担当者に、ホエールウォッチングの廃業を告げ、頭を下げた。
 トムは「アメリカの母が病で倒れ、帰国することになった」と、理由を説明した。
 他の提携先の宿も回り、明日から予約を入れないように手配を頼み、リーフレットを回収した。
 地区の区長や、漁協の関係者へも「帰国」の挨拶をする。
 共同店のおばさんは、海結の左手の指輪を見て、
「あなたも一緒に行くの?」
と尋ねてきた。
「いえ、私は〇〇県に帰ります」
「えっ、あ、そうなんですか……」
 おばさんは、一瞬驚いてから、レジ作業に戻った。

 二日目は、家の中にある家電や家財道具などを片づける。
 トムが、処分するものを軽バンに積み込み、海結が清掃をする。
 シャチの研究観察に用いていた、デジタルカメラやダイブコンピューター、ノートパソコンも売却するが、海結は、観察データがどうなるか、気になった。
 トムの発案で、観察データは、〇〇大学環境学部の研究室に提供することになった。
 百合子教授亡き今、データを反基地活動など政治的に利用されることはないだろう、という判断だった。
 夕方には、家の中に残ったものは、ベッドや寝具など、わずかなものだけになっていた。
 がらん、とした家の中に、清掃後の空気と、オレンジ色の西陽だけが満ちていた。
「海結が来る前に戻ってしまったな」
 ぽつりと、トムが言った。

 三日目。
 朝食で役目を終えた冷蔵庫とコンロを軽バンに積み込み、名護市に向けて出発する。
 海結がトムに食事を作ることは、もうできない。
 こみ上げてくるものがあった。
 税務署と県税事務所に廃業届を提出、船舶の届出は、郵便局から那覇市内の国の出先へ郵送する。
 リサイクルショップで、軽バンに積んできたものを売却する。
 メーカー直営のマリーナで、フィッシングボートのリース打ち切りについて打ち合わせ、明日、返却することに決まる。
 その後、トムは、すぐ隣にあるダイビングショップに寄ろう、と言った。
 店内に、レンタル用のダイビングスーツが並んでいる。
「明日、ボートを返す前に、泳がないか。水着では、もう冷たいから」
と、トムは言う。
 また熱いものがこみあげてきて、思わず目を濡らしてしまいそうになる。
 トムに顔をみせないようにして、白とネイビーが配されたダイビングスーツを選んだ。

 四日目は、返却前にボートの点検整備と、清掃をする。
 名護市のマリーナにフィッシングボートを向かわせる途上、シャチとの邂逅ポイントに寄る。
 トムがボートを等速周回させ始めると、シャチ達が集合してきた。
 ボートを停め、後部デッキに出ると、シャチ達は顔を突き出して、そばに寄ってくる。
 ふと、ゴンドウの親玉を仕留めた時の様子が、頭をよぎる。
 しかし、黒白の丸々とした顔を目の前にすると、つい頬がゆるんでしまう。
「海結はダイビングスーツに着がえてくれ。こいつらも一緒に遊びたいそうだから」
「えっ? それって……」
 幼い頃、海のテーマパークで見たシャチのショー。憧れのトレーナーの姿。大人になる道の途中で置き忘れてきた夢。
 その夢が、今、叶うかもしれない。
「初めて会った日、シャチの背中に乗ってみたかったって、言ってただろう?」
 トムは、覚えていてくれた。
 忙しさで紛らわせていたものが、あふれ出しそうになる。
 海結は、ダイビングスーツを手こずりながら着て、髪を結わえた。
 尻歩きで、トランサムゲートから海に入る。
 一瞬、冷たさに鳥肌が立つが、やがて中に侵入してきた海水の生ぬるさに包まれる。
 海結のところへ、一頭のメスのシャチがやってきて、鼻先を押しつけてきた。
「メアリーだ。群れのボスを引き継いだ」
「トムが一番年上じゃなかった?」
「シャチの世界では、群れのボスは最年長のメスと決まっている。だが、子を産んだこともないし、群れの長としては、まだ若いし、経験不足だ」
 キューン、と鳴くメアリー。
「何か言いたいのかな?」
 両手でメアリーの頭をなでながら、海結はトムに聞いた。
「謝ってるんだ。僕を海結から引き離して、海に連れてゆくことを」
 メアリーの、トムと似た琥珀色の瞳が、じっ、と海結を見つめている。
「まだ跡を継いだばかりなのに、家族の未来がかかった大移動が始まる。兄弟姉妹が力を合わせなければ、この試練は乗り越えられない。今こそ、長兄の僕がいなければ……こうするしかなかったんだ。言い訳にしかならないが……」
 トムがうなだれた。
「いいのよ。私が決めたことだから。あなた達も気にしないでね」
 海結は、五頭の鼻先をなでた。
 トムが全裸になって海に飛び込むと、すぐに海結の足元の海中に、ゆらゆらと黒い影が現れた。
 浮いてくる泡を追って、ゆっくりと浮上してくるシャチのトム。海結は、下から持ち上げられ、ちょうどトムの背びれの後ろに、ぺたん、と座る形になった。
「わあ……」
 海結が、そびえ立つ背びれをしっかりつかむと、トムはゆっくりと前へ泳ぎ始めた。
 メアリー達も並走し、時折、豪快なポーポイジングを見せる。
 至近距離で見る巨体の躍動と、水しぶき。その迫力に、海結は思わず叫んでいた。
「すごい! やっぱりすごいよ、トム!」
 トムも少しずつ泳ぐ速さを上げる。尾びれが水を掻くたび、トムの体全体がうねり、海結の体が揺さぶられる。
 海結は上下に弾みながら、トレーナーの真似をしてみようと思い立った。
 シャチ達を観客に見立てて、片手を大きく振ってみる。
 すると、五頭のシャチが、いっせいに海に潜り始める。
 次の瞬間、ぐわっ、と盛り上がる海面を割り、シャチ達が頭から飛び出してきた。
 五頭のシャチが、呼吸を合わせて空中へと舞い上がる。
 体長の倍をゆうに超える高さだ。
 空中に弧を描くように、今度は頭から海中へと飛び込んでゆく。
 海結の中で、歓喜が沸騰した。年甲斐もなく、大声を出してはしゃぎたい気分だった。
 その時、トムの声を聞いた気がした。
「しっかりつかまってろ」
 シャチのトムは、人間の言葉を話せないはずだ。しかし、確かに、それはトムの声だった。
 トムの皮膚の下から、筋肉の収縮が手に伝わってきた時、海結は海の中にいた。
 今度は、背びれの向こうに明るい海面が見える。体の前面に猛烈な水圧を感じた瞬間、海結は空中へと飛び出していた。
 目に映るのは、青空と雲。次に空と海の境界が見えた。
 重力の底が抜けたように、体が宙に浮いた。背びれに必死につかまる。
 そのまま、海へ真っ逆さまに落ちてゆく。
 海面にぶつかった衝撃で、海結は背びれから手を放してしまい、海へ投げ出された。
 海結を無数の泡が包んでいる。どっちが上か下か、方向がつかめない。
 トムの後ろ姿が、泡の向こうに消えてゆく。手を伸ばすが、届かない。
 もがく海結の前に、方向転換したトムの大きな顔が近づいてくる。しがみついた海結を、トムが海面へと押し上げた。
 ぷはっ、と、肺に残ったわずかな空気を吐き出し、新鮮な空気を吸い込んだ。

 夢のような時間が終わった。
 シャチ達と別れ、進むフィッシングボートの前方に、大型のフェリーを見る。
「あれはどこに行くの?」
「多分、鹿児島行きだろう。本部港に寄った後だと思う」
「船便もあったのね」
「確か、神戸とか東京行きもあったはずだ」
 名護市のマリーナに着く。
 明るい日差しの中、穏やかに波に揺られるボート。
 白い船体を見つめながら、海結は、このボートの上で、トムと共有した時間を思った。

 その夜。
 共同店で買った弁当を食べ、シャワーを浴びる。
 海結はベッドに腰をかけ、スマホでフェリーの便を調べた。
 運航カレンダーを見ると、気づかぬうちに、一〇月に入っていた。
 確かに、沖縄と東京を結ぶ航路が、週に三便ある。
 那覇新港発、本部港、名護港、志布志港経由、東京有明港行き。本部港には、一五時四〇分入港、一六時ちょうどに出港する。
 明後日に出港するその便には、まだ空きがあった。
 二等の個室を予約する。
 シャワールームから出てきたトムに、
「帰りの便、予約したわ。あさって、本部港から乗るから」
と告げた。
「フェリーにするのか」
「ええ」
 トムは、そう呟いた後、海結の隣に座った。
 しばしの沈黙の後、トムが口を開いた。
「……帰った後、僕とのことを、話すつもりなのか」
「全部、正直に話すつもり。隠し通せるはずがないもの」
「……」
「私は、もう一度、陸斗とやり直したい。そう思ってる。陸斗が許してくれるかどうか、わからない。離婚されるかもしれない。でも、そうしないと、陸斗も、私も、前には進めないから」
「大丈夫なのか……もし逆上したら……」
「それは大丈夫。陸斗の性格は、わかってる。小さな頃から、ずっとそばにいたんだもの、ずっと」
 トムは、ふーっ、と息を吐いて、目を閉じた。
「海結が決めたことだから、僕は信じるだけだ」
「ありがとう」
 再び目を開けたトム。目に力があった。何か決意を秘めているように思える。
 琥珀色の瞳が、海結の目を覗き込んでくる。
 そのまま顔が近づいてきて、どちらからともなく、唇を重ねた。

 五日目。
 トムはライフジャケットや海パン、壁にかかったままのダイビングスーツを、ゴミ袋の中に入れる。家の周囲の草取りと、軽バンの洗車も、トムの担当だった。
 その間、海結は雑巾を絞りながら、主に窓の拭き掃除をした。
 午後から、国道を南に走る。
 村役場の窓口で、異動届を提出する。トムは、新しい住所欄に「アンカレッジ市、アラスカ州、アメリカ合衆国」と記入した。
 合わせて、国民年金と国民健康保険の喪失手続、上水道の閉栓手続を済ませた。
 帰路の国道沿いに、中古車や、中古の農機を扱う店があった。
 浮き錆だらけの軽バンは、申し訳程度の現金にしかならなかった。
 国道の歩道を、歩いて帰る。
 途中、護岸のコンクリートブロックに囲まれた、小さな砂浜があった。
「ちょっと、休んでいかない?」
「そうするか」
 バランスを取りながら、コンクリートブロックの上を渡る海結を、トムの大きな手が支える。
 海の色は濃い。
 遠く、漁港と、トムの家がある岬が見える。
 海結の発案で、靴を脱いで海に入ると、素足に、海水が冷たかった。
 波と追いかけっこをするでもなく、ただトムと肩を並べて、海水が足を洗うがままに任せる。
「アラスカって書いてたけど、本当にそこに帰るの?」
 海結は、トムに尋ねた。
「ああ。いったんアラスカに戻る。沖縄に来る前は、アラスカ湾で暮らしていたんだ。僕が人間になって最初に踏んだ土地も、アラスカだ。コディアックという島だった」
「……聞きたいな、トムの昔のこと」
「アラスカにいた頃の話か?」
「うん。そこから、ここまでの話も。トムのこと、もっと知っておきたい」
 トムは、ゆっくりと、記憶をひとつひとつ呼び起こすように、話し始めた。
「十二、三の頃だったと思う。僕は突然、ヒューマン・シフターの能力に目覚めた。僕の一族には、まれに、人間になれる個体が現れる。僕が数世代ぶりだった。この能力に目覚めた個体は、シャチと人をつなぐ宿命を負っている。僕は、記憶を失ったフリをして、孤児として人間社会に潜り込んだ」
「うん」
「アラスカはここよりずっと広いが、それでも手狭に感じた。人間になった自分の体も、小さくて嫌いだった。そのくせ、軽い力で触れるだけでモノが壊れる。人間なら大ケガだ。常に力をセーブしていた。人間の暮らしに慣れるまで、時間がかかったな」
「海に帰ろうとは思わなかったの?」
「母に叱られるからな。孤児院にも迷惑をかけたくはなかった」
「うん、うん」
「ある日、海の生き物について学ぶ校外学習があった。博物館に行って、シャチの全身骨格の標本を見たんだ。そこで初めて、シャチが元々陸の動物だったと知った。僕が人間になったのは、かつて祖先がいた場所に帰るためだったと、その時に気づいたんだ」
「うん」
「ある有名なシャチのことも教わった。彼から名前をもらって、自分の正式な名前にした。トーマス・デビッドソン、と」
「アンカレッジには行ったことがあるの?」
「ハイスクールへ進学することになって、孤児院を出て、アンカレッジに移った。人も建物もいっぱいで驚いたな。ハイスクールの卒業後は、海兵隊を志願した」
「シャチなら、普通、船に乗るほうじゃない?」
「海と陸の中間の組織だと思ったからだ。海軍で洋上勤務になるくらいなら、シャチに戻ったほうがいい」
「それはそうかも」
「基礎訓練を受け、偵察の選抜と課程を終えてから沖縄に配属された。キャンプ・シュワブの、水中偵察もやる部隊にな」
「あれ? キャンプ・ハンセンじゃなくて?」
「特殊作戦コマンドの選抜に落ちた後、いったん部隊に戻って、キャンプ・ハンセン側の部隊に増強要員として派遣されたんだ。除隊まではそこにいた」
「じゃあ、トムの家族がこの海にいた理由って、やっぱりトムと関係あるの?」
「海兵隊の任期を終えて、僕がここで暮らし始めるのに合わせて、家族全員でこの海に引っ越してきた」
「……」
「止めていれば、母は死なずに済んだ。だが、母も僕も、こんなことになるとは思っていなかったんだ」
「やっぱり、トムが心配だったんだと思う。エリザベスは、そばにいて見守りたかったのよ。お母さんだもの」
 海結は、エリザベスのことを思い出しながら、言った。
「そうだな……だからこそ、僕は、妹や弟を、見捨てることはできない」
 トムは、はるか沖の方向に目をやった。
「アラスカに戻ったら、また新天地を探す。僕達家族の旅は、終わらないんだ」
 海結も、海のほうへ顔を向け、水平線に沈んでゆく太陽を直視した。
 眩しさに目を細めた先に、逆光の中、裸になって海へと消えてゆくトムの後ろ姿が見えた気がした。
「そろそろ、行こうか」
 浜に上がったトムの足跡を、波が、そこに何もなかったかのように、消してゆく。
 海結の耳に、絶え間なく打ち寄せる波の音が響いていた。



 闇の中、ぽつんとひとつ残されたベッド。
 海結は、トムの腕に抱かれている。耳をトムの胸に当て、ただ、心臓の鼓動を聞いていた。
 抱かれた後の気だるい体。まだ熱の残る息。
 いつもなら、トムの体温に包まれた心地よさのまま、すっ、と眠りに落ちているはず。
 眠れなかった。いや、眠りたくなかった。
 海結は、ぼんやりと、過ぎてゆく時間を見つめていた。
 朝が来れば、海結はここを発つ。
 早い時間に、不動産屋が、この家の鍵を受け取りにくる。
 トムも、それが終われば、家族とともに北の海へと旅立つ。
 ギリギリまでここにいて、トムを見送っても良かった。しかし、フェリーの時間もある。別れの時を多少延ばしにしたところで、もう、意味はない。
 潮時だ。
「眠れないのか」
 トムの声が響く。トムもまた、眠れないようだ。
「うん」
「どうして、ここに来たんだ。夫と離れて」
「今さら、気になる?」
「ああ」
 海結は、喧嘩して家を飛び出した時の、陸斗の泣き出しそうに歪んだ顔を思い出す。
「……ただのすれ違い。ちゃんと話し合えば良かったのにね」
「……」
「時間が足りなかったんだと思う。幼なじみで、気心は知れてたけど、私はときめきが欲しかった。それにこだわり過ぎてた。姉と弟のような夫婦でも、それが私達の形だって、受け入れるための時間が」
「海結」
「ん?」
 トムは、海結を抱きしめる腕に力を込めてきた。
「僕が真剣に愛したひとは、海結だけだ。たとえ一緒に生きられなくても、今も、これからも、ずっとだ」
 トムは半身を起こすと、海結の頬を大きな手で包んだ。
「海結が願えば、僕は、地球のどの海からでも、必ず駆けつける」
「隣に陸斗がいて、子供だっているかもしれないのよ。私は、もうトムには応えられない」
「構わない。応えてくれなくてもいい。僕は、海結と、海結が愛するものの、守り神になろう」
 暗がりの中、トムの表情はよく見えない。ただ、その言葉は力強く、はっきりと聞こえた。
 トムなりの慰めかもしれない。それでも、二人の最後を飾る言葉を贈ってくれたことが、海結は嬉しかった。
「だから、海結は、海結の選んだ道を、信じるんだ」
「ありがとう、トム」
 唇を重ねた。
 互いを確かめるだけの、静かな口づけ。
 波の音が聞こえる。
 夜が少しずつ薄くなり、鎧戸の隙間から、白い光が漏れ始めた。

 ベッドから起き出す。
 シャワーを浴びて、昨夜の残滓を洗い流す。
 鏡を見ながら化粧をしていると、帰るということが、肌の感覚として染み込んできた。
 キャリーバッグに最後の荷をまとめ、蓋を閉じた。
 村営バスの時間が近づいている。
 海結が去った後、雨戸と窓が、木製の鎧戸が、玄関のドアが閉ざされる。プロパンのボンベも外され、水道栓は締められ、電気は遮断されるだろう。
 この家の時間が、止まる。
 海結は、トムの背後に立った。
「行くのか」
「ええ」
 返事をしながら、玄関でスニーカーを履く。
 キャリーバッグとともに外に出ると、トムも追って出てきた。
 朝の空が、憎らしいほど明るく見えた。
「バス停まで送ろうか」
「ううん、いい。もうじき、来るんでしょ」
「そうだな」
 少しの間、見つめ合う。
「元気で」
「海結も」
 視線を外すのに時間がかかった。
 村道のほうへと、足を向ける。背中にトムの視線を感じる。
 振り返ってはいけない。
 こみ上げてくる様々な想いを押しとどめようと、家が見えなくなるところまで、早歩きをした。
 キャリーバッグをゴロゴロと引きずりながら、村道を下る。
 木々の間から、東シナ海と、漁港が見える。朝の海と、漁船の姿。シイラ漁だろうか。
 バス停は、公民館の近くにあった。
 時刻どおりに、国道を北から近づいてくる、白いハイエースの村営バス。
 スライドドアを閉めると、村営バスは国道を南へと走り始めた。
 振り返る。トムの家が建つ岬が、次第に遠ざかってゆく。
 海結は、言葉ひとつ残さずこの地を去ることが、心に引っかかる。
 少し窓を開け、ごく小さな声で、さようなら、と言葉を残した。

 肩かけバッグの中からスマホを取り出す。
 LINEで、彩夏に「これからフェリーに乗って帰る」とだけ送る。
 少しして返信が来た。
「やっと帰ってくるんだ。気持ちの整理はついた?」
「ごめん。心配かけちゃったね」
「陸斗には連絡した?」
「まだ」
「私から伝えとく?」
「ちゃんと顔見て、私から話すから」
「おっけー。みやげ話よろしく」
 LINEを閉じる。
 気持ちの整理。そのままの意味なら、陸斗の元へ帰る決心という意味だ。しかし、トムと別れる決意、と読むこともできる。
 やはり、彩夏には薄々感づかれているのではないかと思った。

 バスを乗り継ぎ、コンテナが集積している本部港に着く。
 東京行きのフェリーを待つ間、海結はぼんやりと、岸壁の荷役の様子を眺めていた。
 やがて、南の方向から、大型の白い船体が、ゆっくり近づいてきて、横向きに接岸する。
 東京行きのフェリー。
 船の腹から下りてきたタラップを、一段一段、キャリーバッグを持ち上げながら登り、船内に入る。
 予約した部屋を探しているうちに、フェリーは離岸して、すでに動き始めていた。

 海結は、部屋の中に落ち着くと、スニーカーだけを脱いで、ベッドの中にうずくまった。
 何もする気になれない。船の揺れと、船底から伝わってくる鈍い振動と、自分の呼吸だけを意識が追っている。
 名護湾内から外海に出たところで、揺れが増す。自然と、頭の中でトムのフィッシングボートの揺れと比較していた。
 数珠つなぎに、トムとの記憶が頭の中を駆け巡る。
 何の感情もわいてこない。
 まるで、白化して死に絶えた珊瑚のように、記憶の海を、ただ眺めているだけの自分がいた。
 小さなスピーカーから船内放送が聞こえるが、最初は意識が向かなかった。
 「シャチ」という単語が聞こえた瞬間、海結の心の琴線が、ぴくっ、と反応した。
 すぐに二度目の放送があり、耳を澄ませる。
「ご乗船の皆様、船長の〇〇でございます。本日は、〇〇〇〇フェリーをご利用頂き、まことにありがとうございます。ただ今、本船の進行方向右手に、シャチの群れがご覧になれます。航海中にシャチに遭遇することは、大変珍しいことでございます。シャチは幸に通ず、とも申します。お手すきのお客様は、ぜひデッキにてご覧ください」
 海結は、反射的にベッドから飛び起き、急ぎ右舷デッキに向かった。
 デッキは、先客でいっぱいだった。船首方向から強い風が吹き、海結の耳を風切り音で包み込む。
 傾きかけた陽が、遠く沖縄本島を、黄色く照らし出していた。
 フェリーからほど近い海面を、ぴったり張りついて並走するシャチの姿がある。
 六頭いる。最後尾を泳ぐ、ひときわ立派な背びれを持つオスのシャチ。赤褐色に変色したアイパッチが見えた。
「トム……!」
 船上に海結の姿を認めたのか、トムは、海面から空中に身を躍らせる、ポーポイジングを始めた。
 その動作は、次第に豪快になり、跳躍する高さも増してゆく。海面に落ちるたび、大きな水しぶきが立った。
 すっ、と、海面下に姿を消すと、今度は海中から一直線に飛び出してきて、宙に高く舞い上がった。
 濡れたトムの体を、太陽の黄色い光が、真横から照らす。
 その瞬間、トムの体は、ギラリと、全体が黄金色に光り輝いた。
 ジャンプの頂上で、尾びれを高く持ち上げる姿勢を作る。一回転して上下逆にひっくり返り、背びれと背中から海面に落下した。
 普通のジャンプのやり方ではない。
 偶然に遭遇したシャチのショーに、乗客達は歓声を上げ、しきりにスマホのカメラを向ける。
 その中で、海結だけが、その本当の意味を理解していた。
 トムは、しゃちほこのポーズを再現しようとしているのだ。
 守り神になるという約束を、身をもって示すために。君に幸あれと、最後のエールを送るために。
 ジャンプしている間に、フェリーに置いてゆかれるが、また追いついてきては、再びジャンプを繰り返す。
 海結は、何度もダイナミックな跳躍を見せるトムに、大きく手を振った。いつの間にか濡れていた頬が、風に冷たい。
 ふと、この手すりを乗り越えて、トムといっしょに行けたら、と頭をよぎった。
 しかし、右手は、震えながら手すりを握りしめ、決して離そうとはしない。
 陽が傾きを増すにつれ、船が作る影が、長く暗く、海面を覆ってゆく。
 空気が黄色からオレンジ色へ、太陽に照らし出されたトムの体も、次第に黄金色から、赤色へと変化してゆく。
 それでも、トムは跳躍を止めようとはしなかった。
「トム、もう、いいんだよ……私は、十分に受け取ったから……」
 嗚咽半分に、海結は、トムに届くはずもない声を漏らした。
 すぐ隣に立っていた客が、一瞬、海結に怪訝そうな顔を向ける。
 闇が、空と海を包み始める。空は群青色へ、海は黒く。トムの姿も、見えづらくなってゆく。
 風の冷たさもあって、ひとり、またひとりと、デッキから客の姿が消えていった。
 陽が没する。
 空と海の境界が黒く溶け合う頃、トムの姿も、闇と同化するかのように、消えた。
 どこを探しても、もうトムの姿はない。
 見えるのは、船の灯りと、それに照らし出された海面、船首が作る波の白い泡だけだった。
 フェリーは足を止めることなく、海結を無情に運んでゆく。
 海結は、手すりをつかんだまま、その場に泣き崩れた。
 トムは、海結の守り神になると言った。慰めではなく、本気だったのだと、海結は気づいた。
 そう気づいたところで、私の声は、もうトムには届かない。
 トムの約束が真実だったとしても、それぞれの足で歩んでゆくしかないのだ。
 この広い地球の上で、二度と交わることのない、二つの命を。

 船上で二泊。予定よりも少し早く、フェリーは東京有明港に入港した。
 風が抜けず、沖縄よりもかえって蒸し暑さを感じる。
 路線バスで八重洲バスターミナルに向かう。
 行き交う人々の中、海結は、自分ひとり日焼けした顔で歩いていることに気づいた。
 日焼けした肌も、いつかは褪めるだろう。トムとのことも、それと同じように、いつかは色褪せてゆくのだろうか。

 高速バスは、陸斗と暮らした街へ、もうすぐ到着する。
 いったい、どんな顔をして会えば良いのか、何と言えば良いのか、わからない。
 手のひらが、じっとりと汗で湿っていた。
 高速道路の脇にある停留所に、バスは滑り込む。
 あたりは、すっかり暗くなっていた。
 街の様子は、家出する前と、何ひとつ変わらない。
 スーパーの前を、キャリーバッグを引きずりながら歩く。
 もうじき、夕食の時間だった。
 アパートの前に着き、三階の部屋を見上げると、窓が明るい。陸斗は仕事を終えて帰宅しているようだ。
 たかだか三階までの階段を上がるだけなのに、心臓が激しく打って、息が切れる。
 陸斗と二人で暮した部屋の、ドアの前に立つ。チャイムを押そうとする手が震え、一度引っ込める。
 深呼吸をしてから、覚悟を決める。再び指を伸ばし、チャイムを押した。
 インターホンがつながったかすかな音がした。しかし、向こうからの呼びかけがない。
 少ししてから、
「……もしかして、海結か」
と、陸斗の懐かしい声。
「……私」
 声がかすれていた。それだけを言うのが、やっとだった。
 内側から、ドタドタという音がして、ドアが開く。
 そこに、海結のエプロンを身に着けた陸斗がいた。
 心なしか、やせたように見える。
 しばらくの間、陸斗は無言で海結を見つめていた。次第に目元が歪み、口を、ぎゅっ、と結んだ。
 静かな涙が、陸斗の頬を伝い落ちた。
 海結は、今言える、精一杯の声で、帰宅の挨拶をした。
「ただいま」

(終わり)
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