黄金のオルカ

第一一話 回帰線



 翌日の午後、村の漁協とトムの間で、漁業被害の調査について、正式な話し合いが持たれた。
 家に戻り着いた時は、もう陽が傾きかけていた。
 海結は夕食の準備を始めたが、トムはコーヒーが飲みたい、と言う。湯をわかし、インスタントコーヒーを淹れる。
「せめて、調査にかかる費用だけでも、漁協でもってくれないの?」
 ノートパソコンを見ながらコーヒーを飲むトムに、そう尋ねる。
「ホエールウォッチングも丸一日運休になるんだよ? 営業損失が出るのに、完全なボランティア、でいいの?」
「いいんだ」
 トムは、コーヒーカップをテーブルに置き、海結の顔を見上げた。
「外国人の僕がここで暮らしてゆくには、多少はコミュニティへの貢献も必要さ。それに……」
「?」
「漁協の依頼に便乗するのは、むしろこっちの都合なんだ。それで費用を請求するのは筋違いだ」
 海結は、トムの言う「便乗」の意味がわからない。多分、シャチの研究観察にもプラスになる、ということだろうと考えた。
「魚を横取りしちゃう犯人に、目星はついてるの?」
「ゴンドウかもしれない」
「ゴンドウ?」
「漁師さんから聞いた特徴からすると、オキゴンドウの可能性が高いと思う」
 椅子を移動してトムの隣に座る。パソコンで、オキゴンドウの写真や動画を見る。
 黒に近い灰色一色の細い体つき。前に突き出た頭。胸びれも背びれも小さい。
「シャチよりひと回り小型で細い。キュウリゴンドウとも、シャチモドキとも言われる。こいつらをシャチと呼ぶ漁師さんもいるが、一緒にしないで欲しいものだ」
「トムは、シャチの代理人みたい」
「そうかもな」
 黒と白のツートンカラーで、はち切れそうなくらい太いシャチに比べると、絶対的な愛嬌を欠いて見える。一方で、遠い親戚かも、という印象も受ける。
「細長いね。どこかで見た気がするの……ええと、ほら、船に当たって、ドーンと爆発するやつ」
「魚雷のことか?」
「あっ、そう、多分それ」
「言われると、そう見えなくもないな。実際はゴムのかたまりのような感じだが」
「どうやって暮らしてるの?」
「母系社会を形成して、集団で狩りをする。主に魚やイカを食べる。サメやクジラを襲うこともある」
「シャチと同じね」
「違う。一緒にしないでくれ。今回の件だって、やってることは略奪なんだ」
 トムは、大きくカップを傾け、ひと息でコーヒーを飲み干した。
「ねえ、トム」
「ん?」
「シャチは、針とかにかかった魚を横取りしちゃったりしないの? 本当に、ゴンドウだけ?」
「む……」
「どうなの?」
 トムは腕を組んで、何やら難しい顔をした。
「本当は、漁業被害をもたらすシャチもいる。釧路あたりでは、カレイを盗って食べるらしい。だが、ここにいる家族には、そんな行動は引き継がれていない。盗みたいんじゃない、狩りたいんだ、堂々とな」
 今のトムは、研究者でなく、まったくシャチの代弁者に見える。研究対象であるシャチのポッドに特別な親近感を抱くだけでなく、その名誉まで守ろうとしている。
 海結は、ここまで誰かのために懸命になれたことが自分にあっただろうか、と考えた。
 陸斗にご飯を作り、洗濯をし、世話を焼いたが、それ以上のことがあったか。
 急に自分の存在が小さく思えてきた。
 もやもやしたものを振り払うように、頭を元の話のほうへ戻す。
「ゴンドウの仕業だとわかったとして、何か対策はあるの?」
「完璧な対策はない。漁業被害が無くならないことがその証拠だ。色々な対策を組み合わせて、少しでも被害を減らす、ということになるな」
「じゃあ、犯人を突き止めたところで、あまり意味はないんじゃ……」
「いや、相手によって取り得る対策は変わってくるさ。ただ、今回の件は、犯人を特定するだけでは終われない。僕にひとつ考えがある」
「何をするの?」
「詳しくは言えないが、海結はここに残っていて欲しいんだ」
「えっ、何で? どうして連れてってくれないのよ!」
 海結は、腕を組んだままのトムの肩を、両手で強く揺さぶった。トムは困った顔をしているが、海結は食い下がる。
「私の仕事には、観察と研究の手伝いも含まれてるんでしょう? 私、仕事もしないでお給料はもらえない。ねえ」
「……」
「それとも、何か理由があるの? あるなら、話して」
 トムは、両手を膝の上に置き直した。
「海結は、シャチにどんなイメージを持ってる?」
 質問に質問で返され、海結は静止した。
「どんなって……」
「普段、シャチに思ってることだ」
「そうね……やっぱり、可愛い、かな。黒と白の色とか、ぱんぱんに張った大きな体とか。胸びれもまん丸だし。前から見ると何か笑ってるみたいで、すごく可愛いの。あ、あと、口開けたら中がピンク色で」
 ひたいに手を当て、深いため息をつくトム。
「それに、日本では、シャチは幸に通じるってね。日本のお城の屋根の両側にある金色のやつ、しゃちほこって言うんだけど、あれはシャチの強さにあやかった守り神なの。あれは何か魚っぽいけど、強くて勇ましいから、魚偏に虎って書いて、鯱。この前見たエリザベスも、震えるくらいド迫力だった!」
 海結のシャチ愛の垂れ流しをひととおり聞いてから、トムは、おもむろに口を開いた。
「……僕と一緒に来たら、そのイメージが変わってしまうかもしれないぞ。それでも来るか?」
 トムは再び顔を上げ、じっ、と海結の目を見つめてきた。その視線を叩き込まれた瞬間、海結の体に震えが走った。
 琥珀色の瞳に、海結は、エリザベスに見たのと同じ種類の怖さを感じる。
 トムは、海結に何かを隠そうとしている。恐らく、そこにトムの秘密の一端がある。
 この男の真実に近づいてはいけないと、心の中のもうひとりの自分が警告している。
 しかし、私は知らなければならない。自分自身の決着をつけるために。
「……かまわないから」
 震える声で、そう告げる。
「そうか」
 トムは短く答えた。

 翌日、漁業被害の調査のためにフィッシングボートを出す。海結も、トムに同行して乗り込んだ。
 トムは、犯人の特定だけでは終われない、と言っていた。別の目的があるらしいが、いったい、漁協依頼の調査に便乗して、何をするつもりなのか。
 意図が読めないまま、キャプテンシートに座るトムの横顔を見つめる。
「海結」
 腹に力の入った、重く強い声が響く。
「しっかり座っててくれ。今日は、スピードを上げて行く」
「は、はい」
 漁港を囲む堤防から外海に出ると、トムはスロットルレバーをぐいっ、と傾けた。
 船首が浮く。体がシートに押しつけられる感覚がある。上下動も大きい。海結の体がシート上で弾む。床下から聞こえてくるディーゼルエンジンの唸りも、いつもより一段二段高いトーンだ。
 速い。
 ホエールウォッチングの時とはまるで違う。飛沫でキャビンの窓がびしょ濡れになり、新たに浴びた海水が、線となって後方へと飛んでゆく。
 いつものウォッチングポイントのあたりに差しかかるが、速度をゆるめない。トムが軽くハンドルを回すと、ボートは大きな円を描くように旋回を始めた。
 遠心力のGで、体が外側へと持ってゆかれる。
 ぴたり、と同じ航跡をなぞりながら、ボートはハイスピードで、海面にぐるぐると白い輪を上書きし続ける。
 何を始めるつもりなのか尋ねようとした時、海面に見えた噴気。
 噴気はすぐに後方へと過ぎ去る。また見えた時は数が増え、距離が近づいていた。
「トム! 何かいる!」
 海結が声を出すのと、トムがスロットルを絞り始めるのは、ほぼ同時だった。
 少しずつボートのスピードが落ちてゆく。
 噴気の主が、見えた。
 シャチの群れ。横一列になり、波間に背びれと黒い背中を、見せたり隠したりしながら、ボートのほうへ接近してくる。
「家族で、来たっ……!」
 総勢六頭。一頭を欠くが、間違いなく、トムがこの海域にいると断言していたポッドだ。
 白いアイパッチがはっきり見える位置まで近づいてくると、やっと群れに会えた、という感慨よりも、圧倒されるような迫力のほうが先に立った。
 ボートが、等速周回を終えて、完全に停止する。
 トムはすぐさまキャプテンシートから立ち上がり、キャップとライフジャケットを置いたまま後部デッキに向かう。海結も続く。
 ブルワークにつかまって右舷側を見ると、シャチ達が、横一列になって集合していた。
「すごい……」
 思わず、そう口にする。
 ひときわ背びれの高い一頭のオス。潮を盛大に吹き、海結のすぐそばまでゆっくり泳いでくると、海面からたけのこのように顔を出した。
 海結に向かって口を大きく開け、キューン、と鳴く。
「こいつはアレクサンダーだ。海結に挨拶をしてるつもりらしい」
 隣に立つトムが説明する。
「可愛い! ド迫力で近づいてきたら、今度はこんなに可愛いなんて、卑怯過ぎ!」
 同意を求めて見たトムの顔は、口だけ見ればほほ笑んでいるようで、眉間のしわは深い。
 トムとの間に、沈黙が走る。
 夢中になっていたところに、いきなり頭から冷水をかけられたような気分だった。
 改めて六頭を見渡す。
 オスの個体は、一頭しか見当たらない。残る五頭はメスだ。つまり、トーマスというもう一頭のオスは来ていない、ということになる。
「そこで待っててくれ」
 そう言うと、トムは海に飛び込み、シャチ達の中に浮上した。
 五頭のシャチが、トムに頭を向けて半円形に並び直す。トムが、一頭一頭の頭部を抱き、手のひらで肌をなでる。時にぺちっ、ぺちっ、と手のひらで叩く。シャチは反応し、首を上下に振り、トムの顔に口の先端を寄せ、キュイー、と鳴く。
 一頭のメスが、半円の外側から、その様子を見守るように波に揺られていた。
 シャチ達は、しばらくトムと触れ合った後、いっせいに噴気を上げてボートから離れてゆく。泳ぎながら一列に列を組み、南西の方向に進む。
 まるで軍隊、いや、敵艦隊との決戦を挑むべく出港してゆく艦隊のようだ。
 トムはそれを見届けると、一度海面の下に消える。浮上すると同時に宙に身を躍らせ、一回転しながらブルワークを越える。後部デッキに着地するなり、すぐに立ち上がって、
「追うぞ」
と一言、キャビンに戻る。海結も慌ててナビゲーターシートに座り直した。

 フロントウィンドウの向こうに、シャチの隊列を見ながら、ボートは後を追う。
 海結は、トムとシャチとの関係を考えた。
 明らかに、シャチ達は、トムから何らかの指示を受け取り、行動を開始している。
 これから何が始まるのか。トムはいったい何者なのか。
 口から出かかったその問いが、トムの横顔を見た瞬間、気道の奥へと戻ってしまった。
 一見、平静なようで、しかし、その内に闘志と計算とを合わせ持っている表情。
 とても声をかけられなかった。
 シャチの群れに目を戻すと、一頭が遅れを取り始めている。
 遅れは次第に大きくなり、隊列から脱落しつつあった。先頭を進むシャチが泳ぐ速度を落とすが、それでも追いつくことはできず、ボートの右舷側までずるずると後退してしまった。
 トムは、スロットルを戻し、キャビンの横で弱々しく潮を吹くシャチに顔を向けた。
「……」
「どうしたの?」
「エリザベスの調子が悪いようだ」
 トムは少しだけスロットルを煽り、シャチの隊列とエリザベスの間にボートを割り込ませた。
 それを合図と取ったのか、残る五頭のシャチは、再び泳ぐ速さを上げた。
 ボートとの距離がどんどん開いてゆき、やがて、五頭の姿と噴気が見えなくなる。
 トムはボートの位置を、ちょうどキャプテンシートからエリザベスを横目で見守ることができる場所へと調整する。
 ボートは、速く泳げないエリザベスとともに、ゆっくりと航行を続ける。
「ここはメアリーに任せよう」
「どのシャチがメアリーなの?」
「一番先頭を進んでたやつだ」
 キャプテンシートの頭上に据えられた無線機が鳴った。
 トムがレシーバーを取る。
「こちらオルカ号、〇〇番パヤオに向かっています。まわりに潮吹きは見えますか、どうぞ」
「こちら〇〇丸、今、××番パヤオ付近ですが、見えてます、船尾についています、どうぞ」
「そのままゆっくり、浅い位置で、〇〇番パヤオまで引っぱってもらえますか、どうぞ」
「了解です」
 漁船との交信が終わった後、トムは、
「間に合うか……」
とひとり言を呟いた。

 ボートは、島影を左右に臨む海域に到達し、停止した。
 前方に小さく、旗が立った円柱状のものが浮いている。その周囲を回るように動く漁船の姿もある。
 トムに続いて前部デッキに移動する。
「トム、あれは?」
「浮き魚礁。パヤオと呼んでいる。常設のやつだ。魚が寄ってくる」
 西から吹く風が、パヤオの旗をはためかせている。
 ボートの横に、じっと動かないエリザベスがいる。海結が覗き込んだ時にちょうど潮を吹き、風下にいた海結は細かな水滴を浴びてしまった。
「海結、あの漁船のまわりを重点的に見張ってくれ」
 海結はうなずいて、トムと並んで舳先に立ち、遠目をこらした。
 漁船は徐々に向きを変え、船首をこちらへ向けてくる。注意深く観察を続けていると、漁船の後ろに、一瞬、白い噴気が上がった。
「トム」
「ああ、いるな」
 トムが双眼鏡で確認する。
 漁船はどんどんボートに近づいてきて、やがて、左舷を通過してゆく。漁師がこちらに手を振り、船尾方向を指して何か言っているのが見える。リールから縄が伸び、まだ何かの漁具を曳いている。
 トムは、漁師に向かって手を上げる。漁船はそのまま漁港のある方向、あるいは別の海域へと去ってゆく。
「あっ!」
 漁船の船尾から離れた海面に、浮いたり沈んだりしながら後をつける、黒ずんだ灰色の塊が見えた。
 周囲をよく見ると、噴気があちこちで上がっている。海中に潜って見えないものまで入れれば、相当な頭数が漁船を追尾しているものと思われた。
 トムが言っていたとおり、パヤオ周辺の魚を根こそぎ食い尽くしてしまうかもしれない。
 ダークグレーの集団が、ボートに接近してくる。先頭を進む個体の頭が視認できた。
「間違いない。あの頭と背びれの形はオキゴンドウだ」
「ずいぶん多いみたいだけど……」
「海面下のものも含めて、ざっと四、五〇頭か……相手にとって不足はない」
 カメラを構え、ゴンドウを撮影するトム。数枚撮っただけでカメラを下ろし、腕を組んだ。
「こんなところだろう。もうすぐ始まる」
「何が?」
「海結」
「?」
「キャビンに戻ってもいいんだぞ」
 トムは、ゴンドウの群れを睨みつけながら言った。
 最後の警告だと思ったが、海結は首を横に振る。
「私も、ここで見てる」
「……そうか、わかった」
 これから何が起こるのかわからないが、目を背けたら私は前に進めない。
 海結は銀色の手すりを、ぎゅっ、と握り直した。

 ゴンドウ集団の先頭は、すぐ目の前に迫っている。口を開けたゴンドウの歯まで見えるくらいだ。
 残り二〇〇メートルくらいか。
 海結は、舷側に浮かんでいるエリザベスのことが心配になった。もし、元気がないところでゴンドウ達に襲われたら、海の王者のシャチとてひとたまりもないのではないか。
 エリザベスは小さく潮を吹き、水面下の胸びれをゆらゆらと振るだけで、逃げ出す様子はない。
 トムが無言のまま、ゴンドウの群れのさらに奥、少し右手の方向を指差す。
 見ると、島影から全速力で近づいてくる、新たな群れの姿があった。体表の色も背びれの大きさも、一見してゴンドウとは違う。
 五頭のシャチだった。
 その瞬間、海結は、トムとシャチ達の意図を完全に理解した。
 ゴンドウ達に気づかれぬよう、島影に隠れて迂回しながら背後に回り、そこから一気に襲いかかるつもりなのだ。
 しかし、ゴンドウの数は圧倒的だ。たった五頭のシャチで、いったいどうするつもりなのか。
 ゴンドウの群れも異変に気づいた。ボートの至近距離まで接近していた足がぴたりと止まり、一八〇度逆の方向へ回頭し始める。
 キー、ピー、という、ゴンドウ達のけたたましい鳴き声が満ちる。これまで保っていた群れの形が次第に崩れてゆく。
 その機会を逃すことなく、シャチ達は、ひとつの塊となって突進する。
 ゴンドウ集団は大混乱に陥った。逃げ惑う個体、シャチに向かう個体など、各々が勝手に動き始め、群れとしての統制の取れた動きは失われた。
 スピードをゆるめず、ゴンドウ群の真ん中に切り込んでゆくシャチ達。
 先頭を切るメスのシャチが、驚いて海面上に飛び出したゴンドウを跳ね飛ばして進む。
 各々がバラバラの方向に逃走を図ろうとしたために、ゴンドウの群れは、薄く広く引き延ばされた形に変わってゆく。
 シャチは、それを楔のように切り裂きながら突き進む。一頭のゴンドウに狙いを定め、追いかけ始めた。
「ゴンドウの親玉だ」
 トムに親玉と呼ばれた個体。必死に逃げるが、シャチ達のほうが速い。
 背びれが大きいアレクサンダーが、すっ、と海面下に姿を隠す。
 あっと言う間に差をつめられた親玉は、潜って逃れようとするが、次の瞬間、水中から浮上してきたアレクサンダーの頭突きではじき出され、その背の上を転がるように海面に落ちた。
 他の四頭も、いっせいに襲いかかる。もがく親玉に体当たりを食らわせ、上にのしかかり、噛みついて歯を突き立てる。
 白い水しぶきの中に、赤い血の色が混じってゆく。
 親玉の背に噛みついたシャチが首を振ると、肉が裂け、白い層で囲まれた赤い断面が露わになった。
 抵抗が止んだ親玉の肉を、シャチ達はよってたかって食いちぎってゆく。
 白い骨まで見えた時、海面は真っ赤に染まっていた。血は、海面を薄く帯状に広がり、その端はボートの舳先にまで達した。
 海結は、目の前で繰り広げられる殺戮の様を、ただ、動画のコマ送りのように瞳に映すだけだった。
 現実感がなかった。頭よりも、むしろ感情が、すぐそこにある現実に追いついていない。
 隣に立つトムは、腕を組んだまま、何も話そうとしなかった。

 親玉の死体をくわえたシャチが、ボートに近づいてくる。他のシャチもその後に続く。
 周囲には、まだ数多くのゴンドウが残っている。反撃を避けるには急ぎこの海域を離脱する必要があるはずだ。
 ゴンドウ達がその後を追尾するが、なぜか鳴き声も上げず、一定の距離を空けたまま、それ以上シャチ達に近づこうとはしない。
 シャチ達に慌てる様子はまったくない。背びれをぴんっ、と立てて、むしろスピードを落として悠々と泳いでいる。
 意に介さない姿勢を見せること、それ自体が無言の威圧として、ゴンドウの接近を阻止しているように思えた。
 この群れの先祖は、遠くノルウェーの海にいたと聞いている。さしずめ、黒い兜と鎖帷子に身を固め、敵の大将首を掲げて進むヴァイキングだ。
 やがて、ゴンドウ達は、恐れをなしたか、これ以上の戦いは無意味と踏んだか、一頭、また一頭と、西の方角へと去っていった。
 シャチ達は、親玉の死体を、ボートの舷側に佇むエリザベスの前まで運んできた。死体が沈まぬよう、鼻先でつついたり、背で持ち上げたりしながら保持している。
 敵の首を見せているつもりなのか、それとも食糧のつもりか。
 しかし、エリザベスは反応を示さない。シャチが死体を食み、引きちぎった肉片を口の前に置いても、キュウ、と一度鳴いただけだった。
 ズタズタに裂かれて、内臓が方々にはみ出した血まみれの死体。それを見ているうちに、海結の中に、現実から遊離していた意識が戻ってくる。
 親玉の死体が、ぐるりと横倒しになった。剥き出しの頭蓋骨の奥に残った目玉が、何かを必死に訴えかけてくる。
 その言葉が聞こえた気がした。瞬間、胃袋がぎゅっ、と縮む。
 海結は、こみ上げてくる吐き気とともに、トムが言っていた「思い知らせる」の真意を、ようやく悟った。



 翌日の月曜日。
 トムが内容を考え、海結がパソコンで作った、ゴンドウによる漁業被害に関する報告書。
 ひとつ南にある漁港にフィッシングボートで向かい、そこで漁協側に提示した。
 もっとも、食害をもたらす犯人がゴンドウであることは漁協側も半ば把握済だった。すでに、漁師達も、魚の内臓を漁場に投棄しない、被害を確認したらすぐに網、綱を巻き上げる、などの対策をしながら漁を行っている、と聞く。
「トーマスさん、手間かけました」
 折りたたみテーブルの上に置かれた報告書を手に取る老人は、組合長だ。
 報告書は、組合長から隣の漁師へ、また隣へと回覧される。漁師達が動くたび、パイプ椅子がギッ、と鳴る。
「さすが研究者だなあ」
「シャチとかは、わしらより詳しいさ」
「これは、県へ上げるために使わせてもらうから」
 海結は、第三者による客観的な報告が必要だったんだな、と思う。
 しかし、報告書は、意図的にあることを伏せてまとめてあった。調査海域から漁船が去った後、シャチがゴンドウを襲い、駆逐した事実だ。
 トムは、ゴンドウの代わりに、今度はシャチが漁師達の警戒対象になることを恐れていた。

 漁協の会議室を出た足で、海結とトムはフィッシングボートに乗り込む。
「特効薬にはならないが、これでしばらくは現れないだろう」
 キャプテンシートのトムが、ハンドルを操作しながら言う。
 隣に座る海結は、フロントウィンドウの向こうに広がる海原を、黙って眺めている。
 海結の脳裏には、五頭のシャチが、一頭のゴンドウにいっせいに襲いかかり、無慈悲に殺害する光景が浮かんでいた。
 ズタズタに引き裂かれ、肉片にされたゴンドウ。横倒しになった瞬間に向けてきた目が忘れられない。
 これが、野生の海。弱肉強食の世界。
 幼い頃から抱き続けてきた、シャチの強さへの憧憬、丸く大きな海獣への愛おしさ、そういったものが一挙に崩れてしまった。
 一方、何倍もの敵に臆することなく突進する勇猛さ。ゴンドウを仕留めた後、あえて敵に背を見せ、威風堂々と泳ぐ様は、まさに海の王者だった。
 もう、シャチを以前と同じようには見ることができないとしても、単に海の殺し屋、海のギャング、と思うこともできない。
 ボートの船底一枚下は、人間の常識など通用しない世界が、果てしなく深く広がっているのだ。
 トムの横顔を見る。
 海結が知ってしまったことが、もうひとつあった。
 それはトムとシャチの関係だ。
 シャチ達は、ゴンドウに気づかれぬよう、島を迂回しつつ背後に回り込み、島と島の間に集中した時を狙って急襲した。
 ゴンドウの群れを誘導してきた漁船の動きと〇〇番パヤオへの到達時間、シャチの頭数と行動、それらすべてのファクターを把握していたのは、トムただひとり。
 軍隊経験のあるトムのことだ。将校でなくとも、タイムスケジュールに基づく作戦行動の経験は豊富なはず。
 トムが立案し、シャチ達に授けた作戦。そうとしか考えられなかった。
 トムは、ただのシャチの研究者ではない。シャチ達との間に、何か特別な関係があるか、シャチを操る特殊な能力を持っているかのどちらか、あるいは両方だ。
 いったい、トムは何者なのか。
 海結の疑念はますます深まった。

 西風は弱い。凪いだ海をボートは進む。
 どこに向かうつもりなのかと考えているうちに、ボートは速力をゆるめ、やがて洋上に停船した。
 遠く陸地の形状からして、昨日、シャチ達が集合した場所と思われた。
 少し離れた海上に、黒い塊と白い噴気が見える。シャチ達だ。
 どうやらこのあたりが、トムとシャチが接触するポイントらしい。
 トムは、スロットルレバーを慎重に操作して、ボートをゆっくりと群れに近づける。
 四頭のシャチが、一頭のシャチに寄り添うように取り囲んでいた。
 中央にいるメスのシャチ。動きが極端に鈍い。ただただ波に任せ、海面をたゆたっているように見える。体表からは艶が落ち、潮吹きにもまったく勢いがない。
 群れのボス、エリザベスだった。
 初めて遭遇した時から、まだひと月も経っていないはずだ。なのに、この痩せ方は何だろう。特に、背びれの後ろがひどく細く見える。
 何かの病気を抱えているのだろうか。
 トムは無言で海パン以外を脱ぎ、海に飛び込んで、シャチの輪の真ん中に浮上した。
 エリザベスの体や頭をなで、目を覗き込み、口を開けさせて中を確かめるトム。
 北の方向から、噴気しながら近づいてくるメスの姿があった。口に大型のキハダマグロをくわえている。
 エリザベスの口にマグロを押しつけるが、反応が薄い。メスがキュウ、と鳴く。
 群れに戻ったメスの代わりに、違うメスが一頭、潮をひと吹きしてから離れてゆく。
 どうやら、衰弱したエリザベスのために、子シャチ達が交代で狩りに出ているらしい。
 トムが、子シャチ達をぺちぺちと叩いてから、ボートに戻ってくる。
 膝をついた姿勢から立ち上がったトムの顔は、険しかった。
 海結は、その表情から、エリザベスの状態が深刻だと知る。
 トムは、タオルでざっ、と髪と体の水分を拭う。再びライフジャケットを着てキャップをかぶり、キャプテンシートに収まる。
 ディーゼルエンジンが低い唸りを上げ、ボートはシャチ達を背に、陸の方向へと走り始めた。
「魚をくわえてきたのはメアリー?」
「エミリーだな。代わりに狩りに出たのはマーガレットだ」
「オスはアレクサンダー……かな?」
「そうだ」
 トーマスというオスは、今日も姿を見せない。
「エリザベスの具合はどうなの?」
 トムは、前方を凝視しながら、鼻から息を吐いた。
「正直、良くない。衰弱が進んでいる。餌をまるで受けつけないようだ。餌を食べないから、水分も取れていない」
「何かの病気にかかってるの?」
「……わからんが、海水温の影響かもしれない。高い水温を避けようとして、深海まで潜って、呼吸のためにまた浮上して、それを一日中繰り返して、体に負担をかけた。推測だが……」
「ねえ、獣医さんに頼めないのかな」
 トムの返事まで、少し間があった。
「シャチのことを知ってる獣医が、いったいどれだけいると言うんだ」
「……」
「野生の世界に獣医はいない。人間に頼らず、誰にも飼われず、自然に生きることが野生の証なんだ。シャチは家畜でもペットでもない」
「じゃあ、どうするの?」
「自力で回復してくれることを願うだけだ」
 そう、噛みしめるように言うトム。
 野生動物のために獣医を呼べば、トムの言うとおり、野生は損なわれる。それは、人間の一方的な選別と、自然に対する介入に他ならない。
 海結は、自分の考えが浅はかだったことに気づく。
 しかし、自然に生きることが野生の証明だと言うなら、自然に死にゆくことも同じではないか。
 その言葉を口にすることがはばかられ、胸の中に留め置く。
 漁港に戻ると、トムはすぐに提携先のリゾートホテルや宿を回り、翌日からしばらくの間、ホエールウォッチングを運休する、と通告した。

 ホエールウォッチングの運休から四日目。
 その間も、エリザベスの容態は日を追うごとに悪化していった。
 シャチの輪は、前日よりも陸地から離れた位置にあった。
 右斜め前方にシャチ達を見るようにボートを停めると、トムがGPSオートポジションのスイッチを入れる。
 エリザベスは、もうほとんど動かない。肉が削げ、皮膚は完全に艶を失って、こすれば垢のようにはがれてしまいそうに見えた。噴気もか弱く、不規則だ。横から波を受けると姿勢が保てず、上下逆にひっくり返りそうになる有様だった。
 五頭のシャチは、エリザベスに寄り添い続けている。昨日まで聞こえていた鳴き声もなく、群れ全体が静まり返っていた。
 海結は、直感的に、エリザベスに最期の時が近づいていると悟る。
 今日か、それとも明日か。
 エリザベスの左側にいるオスは、背びれの形からしてアレクサンダーだ。
 エリザベスの初子である残る一頭のオス、トーマスは、母の危篤に際しても、なぜ姿を見せないのだろう。
 もしかしたら、七頭いるというのはトムの誤解で、ポッドは最初から六頭なのか。
 舳先に立つトムは、腕を下ろして、じっとエリザベスの様子を見つめている。時々、ちらり、と海結のほうを振り向いては、右手でぎゅっ、と拳を作り、またゆるめる、という動作を繰り返している。
 しばらくそうしていたトムが、キャップを取った。次いでライフジャケット、デッキシューズを脱ぎ、左腕のダイブコンピューターを外す。ついには、海パンまで脱いで、海結の目の前で全裸になってしまった。
「トム、な、何……?」
 海に飛び込むだけなら、海パンまで脱ぐ必要はない。その意図が、まったくわからない。
 トムは、脱いだものを、戸惑う海結に手渡して背中を向けた。
「海結」
「?」
「目をそらさずに僕を見てて欲しい」
 感情を押し殺した静かな声。ただならぬものを感じる。
「いったい何をする気なの?」
「これが、僕だ」
 一言残し、トムは舳先を蹴って高く飛び上がると、空中でくの字に体を曲げて海に飛び込む。
 海結はブルワークにしがみつき、海中に消えたトムの姿を探す。
 ボートの下から浮上してくる無数の泡を目で追っていると、突然、海面の照り返しが消えた。海結の周囲が、さっ、と暗くなる。
 頭上の太陽を隠す、何かの影に包まれた。咄嗟に見上げた海結の目に、信じられないものが映った。
 赤褐色に変色したシャチ。その巨体が、海結の頭上を飛んでいる。
 遅れて、つぶてのように降り注ぐ海水。
 ボートごと海結の上を飛び越えてゆくシャチと、瞬間、目が合う。
 時間が止まった。
 琥珀色の瞳。トムと同じ色。
 トムと過ごした時間、トムとの記憶のすべてが、電流となって海結の体を駆け巡る。
 海結は、トムの真の姿を知った。言語でなく、体感として。
 シャチが、ボートの右舷の海に頭から飛び込むと、高い水柱が立った。
 わずか一瞬の、まばたきすらできない時間のはずなのに、海結には、異様に長く感じられた。
 再び浮上した、シャチのトム。
 体表の黒はそのままで、白い部分が赤褐色を帯びている。シャチとしては異形な姿だ。体も、ぴんっ、とそそり立つ高い背びれも、アレクサンダーより大型だった。
 シャチのトムが、エリザベスの左側から身を寄せる。何をするわけでもなく、ただ寄り添い続けている。
 かすかな鳴き声を上げ、口を開くエリザベス。
 また、静けさが戻る。海上は、波と風の音だけになる。
 海結は、トムが立っていた場所で手すりにつかまり、終わりゆく命を見守る。

 何時間が過ぎただろう。
 確認できないくらい細くなっていたエリザベスの噴気が、突然、大きく空中に上がる。
 海結は、飛沫が、海上を風に流されてゆく様子を見ながら、次の潮吹きを待った。
 時間が過ぎる。次がない。目をこらしても、わずかな噴気もなかった。
 エリザベスの命が尽きた。
 残された子達、シャチのトム、メアリー、マーガレット、キャサリン、エミリー、アレクサンダー。六頭の、号泣にも似たけたたましい鳴き声が、いっせいに響き渡った。

 シャチ達の弔いの声が止んだ。
 トムが先頭を泳ぎ始め、その後ろに、沈みそうになるエリザベスの亡骸を交代しながら支えつつ、四頭が続く。最後尾を一頭のメスが守る。
 海の葬列は、沈み始めた太陽に向かい、ゆっくりと進んでゆく。
 海結は手を合わせて見送る。
 シャチ達の姿は、沖へ沖へと、次第に小さくなり、肉眼では見えなくなった。
 海結は、子シャチ達に見送られ、ゆっくりと海底に沈んでゆくエリザベスの幻影を見た。
 ゴンドウの大群を駆逐した、海の絶対強者であるシャチも、死の門をくぐってしまえば、等しく無に帰する。小魚に食まれ、腐敗し、プランクトンに分解され、海の命のサイクルの中に還元されてゆく。そこからまた、新しい生命が生まれる。
 海は、命が帰る場所であり、命が生まれる場所でもある。
 しかし、あらゆる生命の器である海の中に、人が人としていられる場所はあるのだろうか。
 様々な想いが胸の中に飽和する。
 西の空と凪いだ海を見る。
 太陽が、下から溶けるように、水平線と一体になってゆく。溶け出した黄色が海一面に広がり、眩しさを海結の目に向かって放ってくる。
 もうじき、陽も沈む。
 まだ、トムは帰らない。
 海上にぽつんとひとり取り残されている。ボートの操縦などできるはずもない。
 もしかして、トムはシャチになったまま海に帰り、私を置いて、もう戻ってこないのではないか。
 そんな想像が、頭をよぎる。
「……トム」
 不安に駆られ、思わず名前を呼んだ。
「トムっ、トムーっ!! ……」
 海に叫んだ。
 遠くに、小さく噴気が見える。
 黄色から赤色に染まり始めた海面を蹴り、猛スピートで近づいてくるシャチ。ひときわ大きな背びれと、赤褐色に変色した体。
 速度を落とさずにボートの右舷を一度通過し、くるりと向きを変える。
 大きく海面から飛び出した瞬間、シャチはトムの姿に変化し、一回転してから後部デッキに着地した。
 海結はトムに駆け寄った。
 トムはしばらく、片膝をついた姿勢のままだった。やがて、ゆっくりと立ち上がる。濡れた体を拭おうともせず、ただ黙って、海結を見つめる。
 その表情は、何かに耐えているかのように歪んでいた。
「……どうしても、最期は元の姿で送りたかった……」
 消えるような声。
 海結の体が自然に動いた。近づいて、トムの体を抱きしめる。
 濡れても構わない。今はただ、冷えたトムの体を温めたいと思った。
 やがて、トムの腕が、海結の背中に回ってくる。
 顎を肩に預けるようにして、腕に力を込めてくるトムを、海結も力いっぱい抱き返した。



 朝、スマホのアラームが鳴る。
 海結は、広いベッドからひとり起き出す。
 外は、もうかなり明るい。締め切った窓が、吹きつける風でガタ、ガタと音を立てている。
 ハンモックから飛び降りるトム。
「おはよう、トム」
「おはよう、海結さん」
 挨拶を交わすだけで終わり、それ以上、互いに言葉がない。
 昨夜も、トムは海結に触れてこようとはしなかった。
 エリザベスを海に葬った日の夜から、トムは、シャワーを浴びると、そのままハンモックで眠るようになった。
 トムは、海結を抱くことを避け続けている。
 自分の正体を自ら明かしたトム。なかなか海結の前に姿を現さなかった一頭のオスのシャチ、トーマスこそ、トムの正体だった。
 トムは以前、己が動物でないことを自覚することが人間の尊厳の源だ、というような意味のことを話していた。
 獣姦で私の尊厳を汚すことになるから、もう抱けない、とトムは考えているのだろうか。
 海結は、朝食をテーブルの上に並べる。
「いただきます」
 トムと向かい合って座り、食べ始めても、海結とトムの間に会話はない。
 互いに顔を直視することを避け、視線は胸のあたりに張りついている。
 黙々と、パンにジャムを塗り、口に運ぶ。
 互いに言葉を探し、何か話しかけようとして、次の瞬間に引っ込める。その繰り返しだった。
 聞きたいことは山ほどある。
 なぜシャチであることを隠していたのか。何のために人間になっているのか。その不思議な力は何か。この先、どうするつもりなのか。
 しかし、それを聞き出すことができない。
 聞けば、ブーメランのように自分に返ってくる。問われれば、答えなければならない。
 恐らく、トムも同じだ。
 わかっている。私もトムも、その先にあることを、無意識に遠ざけようとしていると。
 トムの正体も知れた今、これ以上、答えを出すことを先延ばしにしたまま、ずるずるとこの暮らしを続けることはできない。できないのに、もう一歩を踏み出す勇気が持てないのだ。
 冷めかけのコーヒーをすする。
 テレビでは、沖縄のローカルニュースが流れ、台風の接近を告げている。
 おととい、沖縄本島南南東の海上で、熱帯低気圧が発生した。昨夜遅くに台風に変わり、スピードを徐々に増しながら、沖縄本島に接近している。
 火曜日の今日、午前便から、ホエールウォッチングの運航を再開する予定だった。トムは昨日のうちに、すでに欠航を決めている。
 まだ風は、日常生活に支障が出るほど強くはないが、海上は波も高いはずだ。
 また暴風雨に見舞われるのかと思うと、気が滅入る。
 ニュースの内容が突然切り替わった。
「速報です。本日午前六時過ぎ、○○市〇〇付近で遊漁船が転覆し、乗組員と乗客が行方不明になっています。中城海上保安部によりますと、転覆したのは遊漁船第三××丸で、台風接近に伴う高波を受けて転覆し、乗組員と乗客の一〇名が海に投げ出された模様です。現在、巡視艇が行方不明者の捜索に当たっているとのことです。行方不明者の中に、〇〇大学環境学部○○百合子教授、またテレビ××が外注した撮影クルーが複数人いる、との情報があり……」
 映像が流れる。ひっくり返って船底を見せる遊漁船。白い波に揉まれて揺れている。次いで、マスクもメガネもつけていない、知的で柔和な百合子教授の顔が、映し出された。
 トムは、食い入るようにテレビの画面を見つめていたが、
「こんな時化にっ……!」
と、声を荒げた。

 幸い、台風は大過なくやり過ごすことができた。
 約二週間ぶりに、今日の午後便から、ホエールウォッチングの運航を再開する。
 トムは久しぶりに海パンをはき、ライフジャケットをきっちりと身に着けている。
 慣れ親しんだその姿に、海結は少し安心感を覚えるが、海結もトムも心にひっかかっていることがある。
 海結より先に、トムがテレビをつける。
 百合子教授の遺体が発見された、と報じられていた。
 教授の遺体は、遭難現場から数キロ離れた海岸に打ち上げられていた。
 担架に乗せられ、ブルーシートに覆われた状態で、マスクをした係官達に運び出されてゆくところが映っている。
 昨夜遅くに行われたという、撮影を発注したテレビ××側の記者会見の模様も流れた。
 〇〇〇基地新設工事がもたらす海洋環境の破壊について、特集番組を撮影中に起きた事故だった。
 会見席に並ぶテレビ局の役員達。記者達の質問は、なぜ台風接近下の時化模様の海で撮影を強行したのか、という点に集中した。
 テレビ局として、外注先の映像製作会社に対して、撮影スケジュール等の具体的な指示は行っていなかったとし、また、時化た海での撮影は、事態の切迫感を伝えるために有効であると、百合子教授が強硬に主張したことによるものだ、と説明した。
 これに納得できない記者達から、次々にテレビ局の責任を問う厳しい質問がぶつけられた。役員達は苦しい弁明に終始している。
 転覆事故で、結局、乗組員、乗客の全員が死亡した。事の真相を知る者はない。海結が聞いていても、テレビ××が死人に全責任を押しつけているように思えてくる。
 海結が百合子教授と会ったのは、海水温調査の時の一回きりだ。好感の持てる人物ではなかったが、それでも、海の環境保護に取り組んできたことに違いはない。
 たとえ、その真の目的が、別のところにあったとしても。
 唐突に、エリザベスの死を思い出す。
 エリザベスの亡骸は青い海の底へと葬られ、教授の遺体は陸に押し戻されてブルーシートで覆われた。
 この差は、何だろう。
 海の中に、人が人でいられる場所は、ない。
 当たり前のことだ。改めて理由を考える必要もない。なのに、胸の奥に深い断裂が生じたような痛みを感じた。
 開け放った窓から、風が部屋の中に入り込んでくる。
 少し前のような、まとわりつく熱気はない。
 九月の下旬になった。陸斗と喧嘩をして家を飛び出し、沖縄にやって来て、二ヶ月が過ぎたのだ。その間に季節は移ろい、長かった夏にも終わりが見えている。
 その時、海結はある声を聞いた。
 最初は、テレビか、家電の唸りか何かの音と思った。耳をすますが、どうも違う。
 また聞こえた。かすかな、笛の音にも似た声は、西側の窓の向こうから聞こえてくる。
 トムは海結よりも早く気づいていた。すでに玄関でキャップをかぶり、靴を履いている最中だった。
 声に呼ばれるように玄関の外へ出てゆくトム。海結も後を追う。
 トムの姿は家の西側にあった。崖の縁に立ち、静かに海を見下ろしている。
 海結は恐る恐る、トムのそばに歩み寄る。腰を屈め、両手を地面につけ、四本足で崖から下を覗いてみた。
 崖と海の接点に白波が立つ。そこから少し沖のほうに、五頭のシャチが顔を出していた。
 キューン、キュイーン、と、叫ぶような鳴き声が、風と一緒に崖をかけ登ってくる。
 海とシャチを見下ろしているうちに、海結は目が回ってきた。意識が飛びそうになる。冷や汗が出て、体に震えが走り始める。
 耐えられなくなって、四本足の姿勢のまま後退した。
 安全圏にたどり着くと、そのまま、ぺたんと地べたに座り込む。
 見上げた先に、トムの後ろ姿がある。ぎゅっ、と両手の拳を握りしめ、微動だにせず、風とシャチの鳴き声を、真正面から受け止めている。
 海結は理解した。
 シャチ達は、長兄であるトムを呼んでいるのだ。海に帰れ、私達と一緒に、もっと暮らしやすい海へ、と必死に叫んでいるのだ。
 トムは、エリザベスの体調悪化は、水温の高さが関係していると言っていた。ならば、程度の差はあれ、他のシャチもまた無傷ではいられないはずだ。
 もうじき秋が来る。季節が冬に向かえば、海水温も下がる。しかし、野生の世界では、人間のように時期を待つ、などという判断の遅れは、死を招く。
 群れごとこの海から離れ、新天地か、あるいは知った海域へと旅立とうとしている。元より、世界の海を旅してきた一族だ。DNAに刻まれたものが、そう命じたのかもしれない。
 海結は、トムに声をかけようとしたが、それを遮るように、
「大丈夫だ。僕は、ここにいる」
と、トムが言う。
 その時、地べたに座り込んでいる自分が、まるで漁港の係船柱のように思えた。
 トムの足を地上に縛りつけ、自由を奪っている、見えない縄がある。
 ならば、私がすべきことは。
 崖下から強く風が吹く。トムの黒いキャップが浮いた。
 宙に飛ばされたキャップは、風にくるくると揉まれながら、海のほうへと消えていった。

(続く)
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