ビタースイート・ドロップ~次期社長の甘い嘘~
 彼が先に破った私たちの暗黙のルールは、なし崩し的に壊れていく。
 壊れていいのかどうかを判断する気持ちも、残務を終えた解放感のせいで鈍ってしまっている。

 馴れ馴れしい態度をあれだけ嫌がっていた彼だ。こういう喋り方をしたら気を悪くするだろうかと一抹の不安を覚えた直後、普段の薄い笑みとは完全に異なる横顔が覗く。
 性質(たち)の悪さが滲み出たその笑みには見覚えがあった。給湯室でのやり取りのときに浮かべていたそれと、よく似ている。

 緊張が背筋を走った。
 こんなことしてて大丈夫なのかな私、と。

 先に帰宅した先輩社員たちのそわそわした態度を思い出す。
 邪推とまでは呼べない、けれど私と沓澤代理がふたりきりでフロアに残ることに噂の素材を見つけたような浮ついた表情……それを目にしたときは、さすがに居心地が悪かった。

 間違いだったのかもしれない。
 思ってもみない事態に巻き込まれて、丸め込まれて、それで私まで浮ついてしまうのはきっと正しくない。

 走った不安は、珍しく間延びした沓澤代理の声に掻き消された。

「那須野。今日も持ってきてんのか、飴」
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