各務課長が「君の時間を十分ください」と言った結果
 目の前にあるしっとりと濡れた前頭部が、しゅんと耳を垂らしてうなだれる黒い大型犬に見えてくる。私はハンカチを持った手を課長の頭に延ばした。

「私なら全然平気です。かばってくださってありがとうございました」

 課長が顔を上げる。

「今回のお礼とお詫びをしたい。この後の予定は?」

 課長が湿った前髪を鬱陶しそうにかき上げた。その仕草がやけに色っぽくて目がくぎ付けになる。形のよい額とキリリと横に伸びた眉があらわになり、見慣れた課長スタイルのはずなのに、ここが職場ではないというだけでそわそわとした気持ちにさせられた。

「いえ……お礼もお詫びも気にしないでください。私、これから人と会う約束もありますし」

 十分待ったら慎士のマンションへ行こうと思っていたのだ。時間を確かめようと、テーブルに出しっぱなしにしてあったスマホに触れる。通知が目に飛び込んでいた。彼からのメッセージだ。
 反射的に画面をタップして開いた。

 瞬間息をのんだ。

【別れよう】

 ヒュッと喉が音を立てた。頭からサーっと血の気が引いていく。

 いったいどうして……。 

「何かあったのか?」

 隣から心配そうな声がする。返事をすべきだと思うのに、声が出せない。スマホを見つめたまま微動だにしない私を不審に思ったのだろう。課長の視線が私の手元に落ちるのを感じた。
 課長が何か言おうとする気配を感じ、私は勢いよく立ち上がった。

「私……失礼しますっ」

 椅子の背もたれに置いてあるバッグをひっつかみ、スマホの音声通話をタップして小走りで店の外へ出た。
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