大好きだった元彼と再会しましたが、私はもう結婚しています。
「おい、遅くまで残りすぎ」
その声に、ハッと顔を上げた。
振り返れば、そこに穂高が立っていた。
一つだけ分析して帰ろう――そう思って試料を測定して、その結果をまとめて、過去資料まで開いていたら、時計はもう十時を回っていた。
「え、あ、もうこんな時間! すみません、帰ります」
「慌てなくていい。電車はまだあるよな?」
「はい」
「……ちょっと、プライベートな話、してもいいか?」
その言い方に、私は思わず穂高を見つめた。
迷ったけれど、ゆっくり頷く。
「仕事が楽しいのは見ていれば分かる。でも、帰る時の顔が無理してるのが、どうしても目につく」
真正面から言われて、言葉に詰まった。
「プライベートな相談はしづらいだろうが、上司なんだ。俺でよければなんでも聞くし、相談も乗る。一人で抱えるなよ」
穂高が気づいてしまったからこそ、心配で言わずにいられなかったのが伝わってくる。
私は気になって口を開いていた。
「……部長。夫と揉めたと聞きました。夫は、その時、なにを言ったんですか」
穂高は目を伏せた。
「……いや、それは」
「大丈夫。私、自分の中で、少しずつ覚悟ができてきてるんです。ショックかもしれないけど、壊れたりしません。というか、すでに本人が陰で話していたのを少し聞いてます。『いつ離婚してもいい』って」
「……そうか」
穂高は、ゆっくりと言葉を落とす。
「『あんなのいらない』って言ったんだ。……あんなの。だから俺は――」
「珍しく怒った?」
そう返すと、穂高は驚いたように眉を上げ、それから額に手を当てた。
「……そこまで知ってたのか」
「あと、瑞穂さんが『こっそりやれ』って怒ったんでしょ」
「……姉さんめ。全部話したのか。いや……そうか。そうだよな。仲いいんだったな……」
「はい。でも、本当にすみません、私のせいで変なトラブルに巻き込んでしまって」
「違う。社内で起きたことだし、何より部下を侮辱されてるのが分かって、知らんぷりなんてできないさ」
その言い方があまりにもちゃんと大人で、穂高らしい。
私は眉を下げる穂高に向かって口を開いた。素直な言葉が漏れる。
「……部長。私ね、すごく不思議なんです」
「ん?」
「部長が『私がショックを受けるだろう』って一生懸命隠してくれてた言葉……聞いてもショックじゃなかった。正直に言えば、『その程度か』って思ったんです。もっとひどいこと言われたのかと思ってたから」
「……十分ひどい言葉だぞ」
「麻痺しちゃってるんですかね、私」
自嘲気味に笑うと、穂高はぎゅっと唇を噛んだ。
「俺は……千紘が幸せなら、それでいいと無理矢理思おうとして……なのにもし千紘が今――」
「え……」
戸惑った私を見て、穂高はハッとしたように肩を揺らした。
「すまない。……何言ってるんだ、俺は。セクハラだよな」
どこがセクハラなのか、本気でわからない。間違って名前を呼んだことかな?
ただ、穂高は自分にブレーキをかけるように、深呼吸をしてこちらを見る。
「とにかく、何かあれば相談しろ。絶対に一人で抱え込むな」
その言葉に、私はただ頷いた。
それだけなのに頭が軽くなった気がした。