声にならない、さよならを

第16章「触れたら終わる夜」

柚李は、春斗の言葉が胸から離れないまま、家へ向かう道を歩いていた。
――行きなよ。蒼士先輩のとこ。
その言葉が、背中を押したようにも引き止めたようにも感じられて。
足は動くのに、心だけがずっとその場所に置き去りになったみたいだった。
スマホをそっと開く。
一度見たはずの蒼士のメッセージが、何度見返しても胸にずきっと刺さった。
“また話したい”
短い言葉なのに、理由のわからない痛みが広がる。
――あの人の言葉には、いつも逃げ道がない。
優しいのにズルくて、でもその優しさに救われてしまう自分がいる。
それがいちばん苦しい。
家に着いて、暗い部屋でひとりになると、音が消えた。
静かすぎて、胸の鼓動だけが響いてくる。
「……蒼士、さん……」
名前を口にすると、涙腺の奥がじわりと熱くなる。
彼の低い声。
さりげない気遣い。
昔のままなのに、距離だけが変わってしまった関係。
“また話したい”
その言葉が、まるで「近づいてもいいよ」と許されているみたいで怖かった。
私は――蒼士に触れたら、終わる。
春斗の優しさも、蒼士の迷いも、自分の気持ちも。
全部、壊れてしまう気がした。
だけど、触れずにはいられないほど惹かれている。
***
翌日。
委員会の終わり、部屋を出ようとしたときだった。
「柚李」
低い声に振り向くと、蒼士がドア横にもたれていた。
光に濡れた黒目が、まっすぐこちらを射抜く。
また、心臓が跳ねた。
「昨日の……返事、聞いてない」
そう言って近づいてくる。
距離が縮まるたびに、息が苦しくなっていく。
「話……できる?」
言葉は静かなのに、その瞳は逃がさないように見つめてくる。
胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「……ごめんなさい。昨日は、その……返せなくて」
「返せなかったんじゃなくて、返さなかったんだろ?」
鋭い指摘。
でも怒ってるわけじゃない。
ただ、全部見透かされているだけ。
蒼士はほんの少し微笑んで言った。
「昔から、俺には嘘つけなかったじゃん。柚李は」
その言い方が、優しすぎて苦しい。
蒼士が一歩近づく。
距離があと少しで触れそうになる。
「……泣いてた?」
心臓が止まりそうになった。
「え、泣い……てない、です」
慌てて否定した声が震える。
蒼士はため息をつき、そっと視線を落とした。
「俺のせいなら……ごめん」
そう言って、指先が柚李の頬の近くをゆっくりなぞる。
触れないぎりぎりの距離で。
それが逆に、触れられるより苦しかった。
「泣かせたいわけじゃないんだよ。ほんとは、笑っててほしい。ずっと」
言葉のすべてが真っ直ぐで、逃げ場がない。
「蒼士さん……」
名前を呼んだだけで声が震える。
蒼士の表情が一瞬だけゆるむ。
「柚李」
その声が、甘くて、切なくて。
手が伸びそうになった。
だけど、伸ばしたら終わりだ。
触れたら、壊れる。
わかっているのに、苦しくて、胸が締めつけられて。
蒼士が、もう一歩近づいた。
「俺……好きだよ」
心が止まった。
「ずっと。変わらないよ。それだけは信じて」
その言葉は、柚李の呼吸を奪った。
返事ができない。
泣きそうになる。
「……でも」
柚李が絞り出した声は、震えていた。
「今のままじゃ、誰も……幸せになれない」
蒼士の目がわずかに揺れる。
柚李は息を飲む。
胸が痛くて、足元がぐらぐらする。
「言ったら、全部崩れるのが怖いの」
蒼士はしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「崩れてもいいよ」
その言葉が、春斗の言葉と重なった。
“壊れたら痛いし、泣くかもしれない。でも……”
二人とも、同じことを言う。
でも――自分は動けない。
柚李は、そっと一歩下がった。
「……だめ、だよ」
蒼士の表情がゆっくりと曇っていく。
でも追ってこない。
追えば壊れるとわかっているように。
「逃げてる?」
蒼士の問いが、胸に突き刺さる。
「……うん。逃げてる」
涙が落ちた。
止められなかった。
蒼士はその涙に触れようと手を伸ばし――
でも、触れなかった。
「俺も、逃げてるよ。ずっと」
蒼士の声も震えていた。
二人は、触れそうで触れない距離に立ち尽くしていた。
手を伸ばすことも、背を向けることもできず――
ただ、同じ痛みだけが夜の空気に溶けていく。
この恋は、進めば壊れる。
止まれば消える。
そのどちらも選べないまま、
柚李の胸には、どうしようもない切なさだけが広がっていった。
< 17 / 21 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop