声にならない、さよならを

第17章「夜明け前の選べない心」

蒼士と別れて歩き出した帰り道。
風が強くなり、髪が揺れた。
街の灯りは滲んで見えて、涙がまだ止まっていないことに気づく。
――触れられない距離。
蒼士の手が伸びて、でも触れなかったこと。
あの一瞬の温度が、まだ頬に残っているようだった。
それだけで胸が苦しくなる。
家に帰りつくと、スマホが震えた。
春斗からだった。
《帰れた?》
それだけの短い言葉なのに、じんわり温かかった。
返事を打とうとした指が止まる。
なにを言えばいいのかわからない。
結局、
《うん。ありがとう》
それだけを送った。
春斗からの返事は来なかった。
きっとわざと――柚李に考える時間をくれているのだろう。
そんな優しさが、いちばん苦しい。
***
翌朝。
登校すると、校門の前で春斗が待っていた。
「おはよ」
いつも通りの声。
いつも通りの笑顔。
けれど、目だけが少し赤いように見えた。
「春斗……昨日、あの、急に返しちゃってごめん」
「いいよ。元気ならそれでいい」
そう言って歩き出すけど、
足取りはいつもよりゆっくりで、どこか重かった。
沈黙が続く。
昨日のことを話していいのか、話せないのか、わからない。
そんな中、春斗が唐突に言った。
「……先輩、なんて言ってた?」
心臓が強く跳ねた。
「え……」
言葉に詰まる柚李を見て、春斗は苦笑した。
「話してきたんだろ? 顔見りゃわかるよ」
優しい声。
でも、ほんの少しだけ震えていた。
柚李が何も答えられずにいると、
春斗は小さく息を吐いて言った。
「俺さ……ずるいよな」
「ずるい?」
春斗は歩きながら続ける。
「柚李が先輩のこと想ってるの、わかってるのに。それでも“俺の方見てほしい”って思ってるんだよ。ほんとはそんな資格ないのに」
胸が痛い。
苦しいほどに、痛い。
「そんなこと……ないよ」
「あるよ」
春斗は静かに笑った。
強がりの笑顔だった。
「だって、柚李の一番になれるなんて思ってないもん。先輩がずっと柚李の特別なのも、見てればわかるし」
その言葉を聞くだけで、涙が滲んだ。
「春斗……」
「でもさ――それでも柚李の近くにいたいって思っちゃうんだよ」
春斗は足を止めた。
その横顔は、昨日よりずっと大人びて見えた。
「好きなんだよ。苦しいくらい」
息が止まりそうになる。
「それでもいい? このまま、好きでいていい?」
その問いは、
“返事をしろ”ではなく
“気持ちを受け止めてくれ”という痛いほどの願いだった。
答えようとしたときだった。
「柚李?」
蒼士の声が響いた。
振り返ると、校門の近くに蒼士が立っていた。
朝日が背中から差し込み、その姿が眩しいほど鮮明に見える。
蒼士の視線は柚李にまっすぐ向いていた。
そして――春斗を見た瞬間、
一瞬だけ空気が張り詰めた。
春斗の表情が固まる。
蒼士も口を閉ざしたまま近づいてくる。
「……おはよう」
蒼士の低い声が落ちた。
ただの挨拶なのに、まるでどちらに向けているのかわからず、胸が苦しくなる。
春斗はゆっくりと蒼士を見返す。
二人の間を、冷たい風がすり抜けた。
しばらくして、春斗は唐突に言った。
「先輩」
蒼士が眉を動かす。
春斗は、真っ直ぐに言った。
「柚李を……泣かせないでください」
その言葉はやさしく、でも震えるくらい本気だった。
蒼士は一瞬だけ目を伏せ――
そのあと真っ直ぐに柚李を見つめた。
「泣かせるつもりはない。でも……泣かせるかもしれない」
その正直すぎる言葉に、柚李の胸がきゅっと締まる。
「俺だって……弱いよ」
蒼士の声はかすかに震えていた。
春斗の優しさも、蒼士の想いも。
二人とも、柚李の気持ちを奪おうとしているわけじゃない。
ただ、必死に守ろうとしているだけ。
だからこそ――苦しい。
柚李は思わず目をそらした。
どちらの顔も、これ以上見ていられなかった。
その瞬間、早朝の空気が静かに震えた。
三人の心が交差して、
誰も選べず、誰も踏み出せないまま、
朝の光だけが淡く世界を照らしていく。
まだ、夜明け前みたいに暗い。
でも確実に――終わりに近づいている気がした。
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