隣の彼はステイができない
* * *
通話がオフになると、一華とのやり取りの画面に戻る。通話のひとつ前のメッセージ。
『会えなくて残念だった』という言葉に、歩はふっと笑みを浮かべた。
今日は所属しているバスケサークルの大会で、市民体育館に来ている。自分の試合は終わり、他のサークル同士の試合を仲間と一緒に観ていたのだが、ふと彼女のことが気にかかりメッセージを送った。
用事があっての帰省だと言っていたし、移動もある。返信はそれほど期待していなかったが、思いがけず嬉しい言葉をもらいテンションが上がった。
いつも受け身ではじめはどこか迷惑そうですらあった彼女からの言葉だから尚更だ。
ずっと気にかけていたけれど、つんとしてつれなかった野良猫にはじめて触らせてもらえたような、妙な高揚感を抱いて、思わず体育館を抜け出して電話をかけてしまった。
「おーいたいた、歩」
「もー歩、いつになったら戻るのよ。そろそろ今日の祝勝会に移動するよ。主役なんだから皆んな待っているよ」
体育館の方から歩を見つけてやってきたのは夏木と同じサークルの男友達だ。
会社の同僚でもある夏木は同じサークルに所属している。ちなみに大学でも学部は違うが同じサークルだった。
「ん、了解」
画面を閉じて答えると、彼女はスマホをちらりと見て不満そうにした。
「さっきからスマホばっか見てたよね。最近飲みも来ないこともあるし、なんかあった?」
その指摘には、歩より先に友達の方が反応する。
「なに歩、そうなの? もしかして彼女できたとか?」
「まさか」
笑って返事をして座っていたベンチから立ち上がり、ふたりとともに体育館に向かって歩きだす。
「おい、なにがまさかだよ。お前その気になれば彼女くらいいつでもできるくせに」
「いやいや、どういうキャラよ」
「そういうキャラだよ。優しくて背が高くてカッコよくて癒し系。まさに令和が求める理想の彼氏。モテないわけがないだろ? 夏木だって、すきあらばって思ってるだろ?」
「ちょっ……! なによそれ。私は歩のことなんて、なんとも思ってないし!」
社外で一華と会っていることは、会社の誰にも言っていない。
意図的に隠しているわけではないけれど、なんとなく知られない方が一華にとってはよさそうだからだ。
とくに、夏木が一華を快く思っていない状況では。
「ほめるねー。全然そんなことないけど。ま、それに俺、今は仕事に生きちゃってるから、今のところは彼女を作るつもりはない」
軽い調子で返すと、夏木がつまらなそうに目を逸らした。
「そんな贅沢なこと言うなよー。俺がお前だったらまちがいなく遊びまくってる」
心底羨ましそうな友達に歩は苦笑した。
「俺になってもべつに遊べないよ」
「またまた。お前ならどんなタイプの女子でもいけるっしょ。オールマイティ男、加藤歩」
「まぁ、嫌いな人はいないけど……」
「だけど真面目なタイプは合わないんじゃない?」
唐突に夏木の言葉が入ってきて、答えようとしていた歩は口を閉じる。
「ノリが悪いタイプ。職場の飲み会を何回も断るような人」
友達が、おやっという表情で夏木を見た。なんとなく言い方に棘があるのを感じたのだろう。
「なんか、具体的じゃね?」と首を傾げる。
おそらくはその通り、彼女は一般的な話をしているのではなく、具体的な人物を思い浮かべて話している。
もちろん歩は気づいたが、素知らぬふりでノリよく返す。
「いやー俺には真面目な人の方がいいかもよ。真面目は俺にない唯一の要素」
「確かに!」
それに友達がノリよく返したのに、すかさず「そういや、祝勝会ってどこの店だっけ?」と話題を変えた。
「あそこでしょ、いつも行くイタリアンの店」
「あそこか、飲み放題なのかな」
「あ、俺、トイレ行ってから戻るわ」
体育館の入口まで来て、男友達がそう言って離れていく。夏木と歩は二階の観戦席へ続く階段を上る。
それを見計らったように夏木が口を開いた。
「そう言えば、先週金曜、深夜喫茶に行った? マスターが言ってたけど」
夏木の言葉に、歩はどきりとして足を止めた。先週の金曜日、例の深夜喫茶で一緒にいたのは、一華だ。
「誰と行ったの?」
その問いかけに一瞬答えに詰まる。けれど、変に隠すとかえって誤解を招きそうだと思い直した。
「加藤さん。たまたま帰りが一緒になったから」
「……意外」
さして意外そうでもなく彼女は言う。もしかしたらマスターから相手の特徴を聞いてあたりをつけていたのかもしれない。はじめて一華とあの深夜喫茶に行った際、歩は彼女を同僚だと紹介した。
「加藤さん、飲み会には来ないのに、歩とだったらオッケーなんだ」
「や、たまたま流れで一緒に行っただけだから」
「加藤さんとふたりなんてなんか話弾まなさそう」
「……話してみると面白いところあるよ」
「ふーん」
つまらなそうな相槌に、それ以上なにかを言う気になれず前方に、チームのメンバーがいるのを見つけさりげなく彼女から離れた。
失敗したなと、苦々しい気持ちになった。
どんな人にも必ずいいところがある。
それが歩の信条だが、人間にはいいところと同じくらい嫌な部分もあるということも、当然ながら知っている。
そしてそれを目にした時は当たり前だが嫌な気持ちになる。けれど歩はいつも素知らぬふりあるいは笑顔でスルーすることにしている。
陰口や嫌味の類は、円滑なコミュニケーションの邪魔になるし、大抵は相手の望む反応をしなければつまらなくて言わなくなるものだ。
だが夏木の一華に対する態度は、一向に収まらない。それどころか最近は、まるで目の敵にしているようにも思える。
もしかしたら自分が一華にかかわっていることでそれに拍車がかかっているのかもしれないと思うのは、自意識過剰ではないはずだ。
一華を名前で呼ぶことにしたことや、夏木も行く店に一緒に行ったのは軽率な行動だったかもしれないと反省した。
夏木が自分に対して、友情以上の気持ちを抱いているのには前々から気がついている。けれど彼女の気持ちを受け入れるつもりはない。
決定的な言葉を言われていない中でできるのは、予防線を張ることくらい。
『今は彼女はいらない』と、機会があれば口にしてきた。
とはいえこれは、本心でもあった。
フレンドリーな性格の副産物、あるいは副作用と言うべきか、女性に好意を持たれることは少なからずあって、今まで何人かと付き合った。
でも誰とも長続きはしなかった。
浮気や二股など不誠実なことはしていない。自分としてはいい付き合いをしていたつもりだが、しばらくすると相手が自分に不満を持つようになるのだ。
『歩って誰にでも優しいから、なんか不安になる。私のことちゃんと好きだよね?』
『ねえ、私って特別? 友達よりも?』
もちろんそうだと答えるし、実際そう思っていた。けれどそれをわかるように行動で表せと言われると困ってしまう。
歩にとっては彼女も友人も同じように大切でわざと差をつけるものではないと思うからだ。
結局、相手が望むような行動を取れなくてお互いに気持ちが冷めて別れることの繰り返しだ。
最近ではもうしばらく彼女はいらないと思っている。恋人なんていなくても、飲む相手もバスケをする仲間もいるのだから。
だから、ここ二、三年はたとえ流れだとしても女性とふたりきりというシチュエーションは意識的に避けてきた。メッセージのやり取りも極力用がある時だけにして特別に親密にならないように気をつけている。
自意識過剰と言われようと自分のようなタイプが円滑な人間関係を維持するためには必要なルールだ。
けれど一華に対しての行動は、そのルールを完全に逸脱している。
終業後にふたりだけでたびたび会い、アプリで、たわいもないメッセージのやり取りを重ねている。
もちろんそれが、愛犬を失い喪失感の真っ只中にいる彼女に必要だと思うからだ。あくまでも親切心からの行動である。
けれどふと今、本当にそれだけなのだろうか?という疑問が頭に浮かんだ。
さっき感じた高揚感は、それだけだったのだろうか?
観覧席の隅に座り、白熱する試合のボールの行方を目で追いながら、歩はさっきの一華の言葉を思い出していた。
『電話してくれて元気になった。ありがとう』
交友関係が広く人との繋がりを大切にしている歩にとって、困っている人に手を差し伸べるのは当たり前のこと。今までもできることはしてきた。その中で礼の言葉はよく飛び交う。
「ありがと」
「さんきゅ」
カジュアルに言い合うことはしょっちゅうだし、時に明確な言葉がないこともある。そこに気持ちがないとは思わないし、それを気にしたことはない。ただその場が楽しくあれば、自分はそれで満足だ。
けれど……だからこそ、だろうか?
彼女からの心のこもった言葉は特別なもののように耳に響いて、胸をスパッと射抜かれたような心地がした。
そう、"心がこもっている"とはっきり感じたのだ。
お世辞や冗談が苦手な彼女の言葉には、純度の高い感謝の気持ちがめいいっぱい詰まっている。だからこそ受け止めた瞬間、胸が震えてすぐに言葉が出なかった。
けれどよく考えてみると、親切心で会っているだけの相手からの言葉がこれほど強く胸に響くだろうか?
しかもその衝動に任せて、休みの日に会う約束を取り付けた。
今までの自分にない行動だ。
どうしてだろうと考えた時、胸に浮かぶのは、一華の笑顔だった。
理由うんぬんはわからないけれど、とにかくあの笑顔をずっと見ていたいと思う。
——もしかして俺、彼女を……?
「いや、それはまずいだろ」
思わずセルフツッコミしてしまい、歩は慌てて周りを見回した。観覧席は騒がしく、誰も歩を気にしていない。
よかったと胸を撫で下ろしかけて、いやまったくよくないと思い直す。
自分が一華を好きになりかけているとしたら、非常にまずい状況だ。
べつにふたりの間に障害はない。
お互いにフリーなのは確認済みだし、社内恋愛などよくあること。
問題は、歩が彼女に『変な意味はない』とはじめに約束していることだ。
あの人形のような容姿と、生真面目でやや引っ込み思案な中身のギャップが、あまりよくない男心を引き寄せそうだということは想像に難くない。だとしたら、異性に苦手意識を抱いていてもおかしくない。実際、終電を逃した日の警戒ぐあいからして、間違えてはいないはずだ。
その彼女と健全な意味での距離を縮めるために、歩はあえてそんな意図はまったくないと断言したのだ。
あれに心底ホッとしていたのが彼女は恋愛的な意味での異性とのかかわりを望んでいないという証拠だ。
それなのに今になって下心らしきものを歩が匂わせたら……。
確実に落胆し、幻滅される。生真面目な彼女のことだから騙されていたのかとショックを受けるかもしれない。いずれにせよ、もう会いたくないと思われるのは確実だ。
うわ、なにそれ、すでに失礼確定ってこと……?
「あれ、歩、戻ってきてたの? なになにやけに静かじゃん。珍しい」
観覧席の隅っこで、内心で頭を抱える歩に、気がついたメンバーがやってくる。やや乱暴に肩を抱かれる。
「なー! この試合、さっきから点数入りまくり、もはや勝ち確定じゃね? 俺テンション上がってきた」
目の前で繰り広げられる試合を観ながらそう言う彼に、思わず歩はうなだれる。
「いや、むしろ負け確定……」
「は? お前そっち側?」
その言葉に、うわの空で答えながら心の中でため息をついた。
明日の約束をした時の高揚感が一気に萎んでいくのを感じた。
明日はふたりきりで出かけて、おそらく一日中一緒にいる。けれどこれ以上彼女を好きにならないようにしなくてはならないのだ。
万が一にでも今の微妙なこの気持ちを悟られてはいけない。
絶対に、絶対に。
「おーし! ナイッシュー!」
拳を突き出し声を上げる友人を見つめながら、歩は気を引き締めていた。
通話がオフになると、一華とのやり取りの画面に戻る。通話のひとつ前のメッセージ。
『会えなくて残念だった』という言葉に、歩はふっと笑みを浮かべた。
今日は所属しているバスケサークルの大会で、市民体育館に来ている。自分の試合は終わり、他のサークル同士の試合を仲間と一緒に観ていたのだが、ふと彼女のことが気にかかりメッセージを送った。
用事があっての帰省だと言っていたし、移動もある。返信はそれほど期待していなかったが、思いがけず嬉しい言葉をもらいテンションが上がった。
いつも受け身ではじめはどこか迷惑そうですらあった彼女からの言葉だから尚更だ。
ずっと気にかけていたけれど、つんとしてつれなかった野良猫にはじめて触らせてもらえたような、妙な高揚感を抱いて、思わず体育館を抜け出して電話をかけてしまった。
「おーいたいた、歩」
「もー歩、いつになったら戻るのよ。そろそろ今日の祝勝会に移動するよ。主役なんだから皆んな待っているよ」
体育館の方から歩を見つけてやってきたのは夏木と同じサークルの男友達だ。
会社の同僚でもある夏木は同じサークルに所属している。ちなみに大学でも学部は違うが同じサークルだった。
「ん、了解」
画面を閉じて答えると、彼女はスマホをちらりと見て不満そうにした。
「さっきからスマホばっか見てたよね。最近飲みも来ないこともあるし、なんかあった?」
その指摘には、歩より先に友達の方が反応する。
「なに歩、そうなの? もしかして彼女できたとか?」
「まさか」
笑って返事をして座っていたベンチから立ち上がり、ふたりとともに体育館に向かって歩きだす。
「おい、なにがまさかだよ。お前その気になれば彼女くらいいつでもできるくせに」
「いやいや、どういうキャラよ」
「そういうキャラだよ。優しくて背が高くてカッコよくて癒し系。まさに令和が求める理想の彼氏。モテないわけがないだろ? 夏木だって、すきあらばって思ってるだろ?」
「ちょっ……! なによそれ。私は歩のことなんて、なんとも思ってないし!」
社外で一華と会っていることは、会社の誰にも言っていない。
意図的に隠しているわけではないけれど、なんとなく知られない方が一華にとってはよさそうだからだ。
とくに、夏木が一華を快く思っていない状況では。
「ほめるねー。全然そんなことないけど。ま、それに俺、今は仕事に生きちゃってるから、今のところは彼女を作るつもりはない」
軽い調子で返すと、夏木がつまらなそうに目を逸らした。
「そんな贅沢なこと言うなよー。俺がお前だったらまちがいなく遊びまくってる」
心底羨ましそうな友達に歩は苦笑した。
「俺になってもべつに遊べないよ」
「またまた。お前ならどんなタイプの女子でもいけるっしょ。オールマイティ男、加藤歩」
「まぁ、嫌いな人はいないけど……」
「だけど真面目なタイプは合わないんじゃない?」
唐突に夏木の言葉が入ってきて、答えようとしていた歩は口を閉じる。
「ノリが悪いタイプ。職場の飲み会を何回も断るような人」
友達が、おやっという表情で夏木を見た。なんとなく言い方に棘があるのを感じたのだろう。
「なんか、具体的じゃね?」と首を傾げる。
おそらくはその通り、彼女は一般的な話をしているのではなく、具体的な人物を思い浮かべて話している。
もちろん歩は気づいたが、素知らぬふりでノリよく返す。
「いやー俺には真面目な人の方がいいかもよ。真面目は俺にない唯一の要素」
「確かに!」
それに友達がノリよく返したのに、すかさず「そういや、祝勝会ってどこの店だっけ?」と話題を変えた。
「あそこでしょ、いつも行くイタリアンの店」
「あそこか、飲み放題なのかな」
「あ、俺、トイレ行ってから戻るわ」
体育館の入口まで来て、男友達がそう言って離れていく。夏木と歩は二階の観戦席へ続く階段を上る。
それを見計らったように夏木が口を開いた。
「そう言えば、先週金曜、深夜喫茶に行った? マスターが言ってたけど」
夏木の言葉に、歩はどきりとして足を止めた。先週の金曜日、例の深夜喫茶で一緒にいたのは、一華だ。
「誰と行ったの?」
その問いかけに一瞬答えに詰まる。けれど、変に隠すとかえって誤解を招きそうだと思い直した。
「加藤さん。たまたま帰りが一緒になったから」
「……意外」
さして意外そうでもなく彼女は言う。もしかしたらマスターから相手の特徴を聞いてあたりをつけていたのかもしれない。はじめて一華とあの深夜喫茶に行った際、歩は彼女を同僚だと紹介した。
「加藤さん、飲み会には来ないのに、歩とだったらオッケーなんだ」
「や、たまたま流れで一緒に行っただけだから」
「加藤さんとふたりなんてなんか話弾まなさそう」
「……話してみると面白いところあるよ」
「ふーん」
つまらなそうな相槌に、それ以上なにかを言う気になれず前方に、チームのメンバーがいるのを見つけさりげなく彼女から離れた。
失敗したなと、苦々しい気持ちになった。
どんな人にも必ずいいところがある。
それが歩の信条だが、人間にはいいところと同じくらい嫌な部分もあるということも、当然ながら知っている。
そしてそれを目にした時は当たり前だが嫌な気持ちになる。けれど歩はいつも素知らぬふりあるいは笑顔でスルーすることにしている。
陰口や嫌味の類は、円滑なコミュニケーションの邪魔になるし、大抵は相手の望む反応をしなければつまらなくて言わなくなるものだ。
だが夏木の一華に対する態度は、一向に収まらない。それどころか最近は、まるで目の敵にしているようにも思える。
もしかしたら自分が一華にかかわっていることでそれに拍車がかかっているのかもしれないと思うのは、自意識過剰ではないはずだ。
一華を名前で呼ぶことにしたことや、夏木も行く店に一緒に行ったのは軽率な行動だったかもしれないと反省した。
夏木が自分に対して、友情以上の気持ちを抱いているのには前々から気がついている。けれど彼女の気持ちを受け入れるつもりはない。
決定的な言葉を言われていない中でできるのは、予防線を張ることくらい。
『今は彼女はいらない』と、機会があれば口にしてきた。
とはいえこれは、本心でもあった。
フレンドリーな性格の副産物、あるいは副作用と言うべきか、女性に好意を持たれることは少なからずあって、今まで何人かと付き合った。
でも誰とも長続きはしなかった。
浮気や二股など不誠実なことはしていない。自分としてはいい付き合いをしていたつもりだが、しばらくすると相手が自分に不満を持つようになるのだ。
『歩って誰にでも優しいから、なんか不安になる。私のことちゃんと好きだよね?』
『ねえ、私って特別? 友達よりも?』
もちろんそうだと答えるし、実際そう思っていた。けれどそれをわかるように行動で表せと言われると困ってしまう。
歩にとっては彼女も友人も同じように大切でわざと差をつけるものではないと思うからだ。
結局、相手が望むような行動を取れなくてお互いに気持ちが冷めて別れることの繰り返しだ。
最近ではもうしばらく彼女はいらないと思っている。恋人なんていなくても、飲む相手もバスケをする仲間もいるのだから。
だから、ここ二、三年はたとえ流れだとしても女性とふたりきりというシチュエーションは意識的に避けてきた。メッセージのやり取りも極力用がある時だけにして特別に親密にならないように気をつけている。
自意識過剰と言われようと自分のようなタイプが円滑な人間関係を維持するためには必要なルールだ。
けれど一華に対しての行動は、そのルールを完全に逸脱している。
終業後にふたりだけでたびたび会い、アプリで、たわいもないメッセージのやり取りを重ねている。
もちろんそれが、愛犬を失い喪失感の真っ只中にいる彼女に必要だと思うからだ。あくまでも親切心からの行動である。
けれどふと今、本当にそれだけなのだろうか?という疑問が頭に浮かんだ。
さっき感じた高揚感は、それだけだったのだろうか?
観覧席の隅に座り、白熱する試合のボールの行方を目で追いながら、歩はさっきの一華の言葉を思い出していた。
『電話してくれて元気になった。ありがとう』
交友関係が広く人との繋がりを大切にしている歩にとって、困っている人に手を差し伸べるのは当たり前のこと。今までもできることはしてきた。その中で礼の言葉はよく飛び交う。
「ありがと」
「さんきゅ」
カジュアルに言い合うことはしょっちゅうだし、時に明確な言葉がないこともある。そこに気持ちがないとは思わないし、それを気にしたことはない。ただその場が楽しくあれば、自分はそれで満足だ。
けれど……だからこそ、だろうか?
彼女からの心のこもった言葉は特別なもののように耳に響いて、胸をスパッと射抜かれたような心地がした。
そう、"心がこもっている"とはっきり感じたのだ。
お世辞や冗談が苦手な彼女の言葉には、純度の高い感謝の気持ちがめいいっぱい詰まっている。だからこそ受け止めた瞬間、胸が震えてすぐに言葉が出なかった。
けれどよく考えてみると、親切心で会っているだけの相手からの言葉がこれほど強く胸に響くだろうか?
しかもその衝動に任せて、休みの日に会う約束を取り付けた。
今までの自分にない行動だ。
どうしてだろうと考えた時、胸に浮かぶのは、一華の笑顔だった。
理由うんぬんはわからないけれど、とにかくあの笑顔をずっと見ていたいと思う。
——もしかして俺、彼女を……?
「いや、それはまずいだろ」
思わずセルフツッコミしてしまい、歩は慌てて周りを見回した。観覧席は騒がしく、誰も歩を気にしていない。
よかったと胸を撫で下ろしかけて、いやまったくよくないと思い直す。
自分が一華を好きになりかけているとしたら、非常にまずい状況だ。
べつにふたりの間に障害はない。
お互いにフリーなのは確認済みだし、社内恋愛などよくあること。
問題は、歩が彼女に『変な意味はない』とはじめに約束していることだ。
あの人形のような容姿と、生真面目でやや引っ込み思案な中身のギャップが、あまりよくない男心を引き寄せそうだということは想像に難くない。だとしたら、異性に苦手意識を抱いていてもおかしくない。実際、終電を逃した日の警戒ぐあいからして、間違えてはいないはずだ。
その彼女と健全な意味での距離を縮めるために、歩はあえてそんな意図はまったくないと断言したのだ。
あれに心底ホッとしていたのが彼女は恋愛的な意味での異性とのかかわりを望んでいないという証拠だ。
それなのに今になって下心らしきものを歩が匂わせたら……。
確実に落胆し、幻滅される。生真面目な彼女のことだから騙されていたのかとショックを受けるかもしれない。いずれにせよ、もう会いたくないと思われるのは確実だ。
うわ、なにそれ、すでに失礼確定ってこと……?
「あれ、歩、戻ってきてたの? なになにやけに静かじゃん。珍しい」
観覧席の隅っこで、内心で頭を抱える歩に、気がついたメンバーがやってくる。やや乱暴に肩を抱かれる。
「なー! この試合、さっきから点数入りまくり、もはや勝ち確定じゃね? 俺テンション上がってきた」
目の前で繰り広げられる試合を観ながらそう言う彼に、思わず歩はうなだれる。
「いや、むしろ負け確定……」
「は? お前そっち側?」
その言葉に、うわの空で答えながら心の中でため息をついた。
明日の約束をした時の高揚感が一気に萎んでいくのを感じた。
明日はふたりきりで出かけて、おそらく一日中一緒にいる。けれどこれ以上彼女を好きにならないようにしなくてはならないのだ。
万が一にでも今の微妙なこの気持ちを悟られてはいけない。
絶対に、絶対に。
「おーし! ナイッシュー!」
拳を突き出し声を上げる友人を見つめながら、歩は気を引き締めていた。