君恋し
第一話 薄紅の停車場
大正十二年、早春。
信州と上州(現・群馬県)の境に近い、山間の小さな町。朝靄が谷あいを這うように流れ、遠くで鶏の声が聞こえる。町の中心を貫く街道沿いに、煉瓦造りの小さな駅舎が建っている。看板には「桜井駅」と墨痕鮮やかに記されていた。
伊藤忠範は、紺の制服に制帽を被り、駅舎の軒下で朝の点検を終えたところだった。二十五歳。痩せ型だが背筋はまっすぐに伸び、几帳面な性格が姿勢にも表れている。懐中時計を確認し、五分後に到着する上り列車を待つ。
「伊藤さん、おはようございます」
改札口から声がかかった。振り返ると、駅前の雑貨屋の主人が手を振っている。
「おはようございます。今日も良い天気ですね」
忠範は帽子に手をかけて軽く会釈した。この町に赴任して三年になる。最初は都会育ちの若者が田舎の駅に飛ばされたのだと陰口も聞こえたが、持ち前の誠実さと丁寧な仕事ぶりで、いまでは町の人々に信頼されるようになっていた。
遠くから汽笛が聞こえる。
忠範は構内へ歩き、到着番線の確認をしながら、ホームの端まで視線を走らせた。線路の継ぎ目、枕木の状態、信号機の位置。毎朝同じことを繰り返しているが、決して油断はしない。鉄道員にとって、安全は何よりも優先されるべきものだった。
やがて、黒煙を上げた列車が、山の向こうから姿を現した。
車輪が軋む音、蒸気の白い吐息。列車はゆっくりとホームに滑り込む。忠範は停車位置を確認し、扉が開くと同時に乗客の誘導に入った。
「お気をつけて。足元にご注意ください」
降りてくるのは、数人の商人風の男たち、学生服姿の若者、そして──。
忠範の視界に、一人の若い女性が映った。
藍色の着物に質素な羽織を重ね、頭には手拭いを巻いている。荷物は小さな風呂敷包みひとつ。顔立ちは端正だが、どこか疲れた色が見える。それでも、ホームに降り立った瞬間、彼女は深く息を吸い込み、朝の空気を味わうように目を細めた。
忠範は、その横顔を一瞬だけ見つめた。
女性は改札へ向かおうとしたが、風呂敷の結び目がほどけかけているのに気づいていない。忠範は反射的に声をかけた。
「あの、お客さま。荷物が──」
女性は足を止め、振り返った。
目が合う。
彼女の瞳は、深い茶色だった。驚いたような、それでいて少し警戒するような表情。忠範は慌てて言葉を続けた。
「風呂敷が、ほどけかけています」
「……あ」
女性は慌てて荷物を抱え直し、結び目を確認した。ほつれた部分を手早く結び直すと、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は静かで、丁寧だった。
「いえ。お気をつけて」
忠範は帽子に手をかけて会釈し、そのまま次の乗客対応へ移った。しかし、心の片隅に、あの茶色い瞳が残っている気がした。
女性──小野雅子は、改札を抜けて駅舎の外へ出た。
町の空気は冷たく、頬を撫でる風が心地よい。駅前には馬車と人力車が数台並び、商店の軒先には桜の枝が飾られている。まだ蕾は固いが、もうすぐ春が来る予感があった。
雅子は大きく息を吐き、風呂敷包みを抱え直した。
「……やっと、着いた」
彼女は遠い町から、この桜井の地へやってきた。目的地は、町外れにある生機工場。絹織物を織る女工として、ここで働くことが決まっている。
家族を養うため、弟妹の学費を工面するため。
雅子には、選択肢などなかった。
彼女は駅舎を振り返った。制服姿の駅員──さきほどの青年が、列車を見送っている。真面目そうな顔立ちと、落ち着いた物腰。彼のような人は、きっと安定した生活を送っているのだろう。
雅子は小さく首を振り、駅前通りを歩き始めた。
自分には関係のない世界だ、と言い聞かせながら。
昼過ぎ。
忠範は駅長室で、書類整理をしていた。列車の運行記録、貨物の受付伝票、そして安全点検の報告書。鉄道局からの通達も山積みで、事務仕事は決して少なくない。
「伊藤くん、ちょっといいかね」
駅長の声がかかった。五十を過ぎた温厚な男で、忠範の仕事ぶりを高く評価している。
「はい、何でしょうか」
「さっき、本局から連絡があってね。今月中に臨時監査が入るそうだ」
「監査、ですか」
「ああ。安全管理体制の見直しだそうだ。特に地方路線は、設備の老朽化が問題視されているからな」
忠範は頷いた。この桜井駅も、開業から二十年近くが経つ。線路の補修は定期的に行っているが、予算の関係で完全とは言えない部分もある。
「わかりました。点検記録を再確認しておきます」
「頼むよ。君がいてくれて、本当に助かっている」
駅長は満足そうに頷き、部屋を出て行った。
忠範は再び書類に向かったが、ふと朝の光景が脳裏をよぎった。
藍色の着物を着た、あの女性。
なぜか、印象に残っている。
忠範は首を振り、意識を書類へ戻した。こんなことで気を取られているようでは、監査に備えられない。
その日の夕方。
忠範は最終点検のため、線路沿いを歩いていた。日が傾き始め、山の稜線が茜色に染まっている。風は冷たいが、どこか春の気配が混じっていた。
線路の状態を目視で確認しながら進む。枕木のひび割れ、犬釘の緩み、継ぎ目の隙間。すべてに目を配る。
と──。
忠範の足が止まった。
「……これは」
線路の継ぎ目に、妙な隙間がある。本来ならきっちりと接合されているはずの部分が、わずかに浮いていた。
忠範はしゃがみ込み、手で触れてみる。犬釘が一本、完全に抜けている。継ぎ目板も、わずかにずれていた。
「おかしい……」
朝の点検では異常なかったはずだ。それに、この箇所は二週間前に補修したばかりで、釘が緩むはずがない。
忠範は懐中時計を確認した。次の列車が通るまで、あと三十分。
彼は立ち上がり、駅舎へ向かって走り出した。
駅長室へ駆け込むと、駅長と助役が驚いた顔で振り返った。
「どうした、伊藤くん」
「第三区間の線路に異常があります。継ぎ目の犬釘が抜けていて、継ぎ目板もずれています」
「なんだと」
駅長の顔色が変わった。
「すぐに列車を止めろ。信号も赤にしろ」
助役が飛び出していく。忠範も続いて、信号操作室へ向かった。
やがて、赤信号が上がる。次の列車は手前の駅で停車し、緊急連絡が入った。忠範と駅員たちは、工具を持って現場へ急行した。
日が沈みかけている。
忠範は提灯を掲げながら、再び線路の継ぎ目を確認した。やはり、犬釘が完全に抜けている。そして──。
「駅長、これを」
忠範が拾い上げたのは、小さな金属片だった。錆びてはいるが、形状は明らかに人の手で削られたものだ。
「……誰かが、わざと抜いたのか」
駅長の声が、低く震えた。
忠範は黙って頷いた。
事故ではない。
これは、人為的な破壊行為だ。
その夜。
忠範は寮の部屋で、一人考え込んでいた。
誰が、何のために、線路を破壊したのか。
鉄道は、人々の命を預かる仕事だ。列車が脱線すれば、大惨事になる。それを分かっていながら、誰かが意図的に犬釘を抜いた。
理由が分からない。
忠範は窓の外を見た。遠くに、工場の煙突から煙が上がっているのが見える。
町の外れにある、生機工場。
女工たちが夜遅くまで働いているという、あの工場。
そして、朝、駅に降り立ったあの女性も──。
忠範は首を振った。
無関係だ。考えすぎだ。
だが、心の片隅に、小さな不安が残っていた。
同じ頃。
工場の寮で、雅子は薄暗い電灯の下、布団に横たわっていた。
一日中、織機の前で糸を操り、腕も腰も痛い。それでも、明日もまた同じ作業が続く。
隣の部屋からは、他の女工たちの話し声が聞こえてくる。
「ねえ、聞いた? また鉄道で事故があったんだって」
「ほんと? 怖いわね」
「でも、駅員さんが見つけて、止めたらしいわよ」
「良かった……」
雅子は目を閉じた。
あの駅員──朝、声をかけてくれた青年。
真面目そうな顔をしていた。
雅子の胸に、わずかな温かさが灯る。
そして、すぐに消えた。
彼のような人と、自分のような女工が、交わることなどない。
雅子はそう信じていた。
──まだ、この時は。
信州と上州(現・群馬県)の境に近い、山間の小さな町。朝靄が谷あいを這うように流れ、遠くで鶏の声が聞こえる。町の中心を貫く街道沿いに、煉瓦造りの小さな駅舎が建っている。看板には「桜井駅」と墨痕鮮やかに記されていた。
伊藤忠範は、紺の制服に制帽を被り、駅舎の軒下で朝の点検を終えたところだった。二十五歳。痩せ型だが背筋はまっすぐに伸び、几帳面な性格が姿勢にも表れている。懐中時計を確認し、五分後に到着する上り列車を待つ。
「伊藤さん、おはようございます」
改札口から声がかかった。振り返ると、駅前の雑貨屋の主人が手を振っている。
「おはようございます。今日も良い天気ですね」
忠範は帽子に手をかけて軽く会釈した。この町に赴任して三年になる。最初は都会育ちの若者が田舎の駅に飛ばされたのだと陰口も聞こえたが、持ち前の誠実さと丁寧な仕事ぶりで、いまでは町の人々に信頼されるようになっていた。
遠くから汽笛が聞こえる。
忠範は構内へ歩き、到着番線の確認をしながら、ホームの端まで視線を走らせた。線路の継ぎ目、枕木の状態、信号機の位置。毎朝同じことを繰り返しているが、決して油断はしない。鉄道員にとって、安全は何よりも優先されるべきものだった。
やがて、黒煙を上げた列車が、山の向こうから姿を現した。
車輪が軋む音、蒸気の白い吐息。列車はゆっくりとホームに滑り込む。忠範は停車位置を確認し、扉が開くと同時に乗客の誘導に入った。
「お気をつけて。足元にご注意ください」
降りてくるのは、数人の商人風の男たち、学生服姿の若者、そして──。
忠範の視界に、一人の若い女性が映った。
藍色の着物に質素な羽織を重ね、頭には手拭いを巻いている。荷物は小さな風呂敷包みひとつ。顔立ちは端正だが、どこか疲れた色が見える。それでも、ホームに降り立った瞬間、彼女は深く息を吸い込み、朝の空気を味わうように目を細めた。
忠範は、その横顔を一瞬だけ見つめた。
女性は改札へ向かおうとしたが、風呂敷の結び目がほどけかけているのに気づいていない。忠範は反射的に声をかけた。
「あの、お客さま。荷物が──」
女性は足を止め、振り返った。
目が合う。
彼女の瞳は、深い茶色だった。驚いたような、それでいて少し警戒するような表情。忠範は慌てて言葉を続けた。
「風呂敷が、ほどけかけています」
「……あ」
女性は慌てて荷物を抱え直し、結び目を確認した。ほつれた部分を手早く結び直すと、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は静かで、丁寧だった。
「いえ。お気をつけて」
忠範は帽子に手をかけて会釈し、そのまま次の乗客対応へ移った。しかし、心の片隅に、あの茶色い瞳が残っている気がした。
女性──小野雅子は、改札を抜けて駅舎の外へ出た。
町の空気は冷たく、頬を撫でる風が心地よい。駅前には馬車と人力車が数台並び、商店の軒先には桜の枝が飾られている。まだ蕾は固いが、もうすぐ春が来る予感があった。
雅子は大きく息を吐き、風呂敷包みを抱え直した。
「……やっと、着いた」
彼女は遠い町から、この桜井の地へやってきた。目的地は、町外れにある生機工場。絹織物を織る女工として、ここで働くことが決まっている。
家族を養うため、弟妹の学費を工面するため。
雅子には、選択肢などなかった。
彼女は駅舎を振り返った。制服姿の駅員──さきほどの青年が、列車を見送っている。真面目そうな顔立ちと、落ち着いた物腰。彼のような人は、きっと安定した生活を送っているのだろう。
雅子は小さく首を振り、駅前通りを歩き始めた。
自分には関係のない世界だ、と言い聞かせながら。
昼過ぎ。
忠範は駅長室で、書類整理をしていた。列車の運行記録、貨物の受付伝票、そして安全点検の報告書。鉄道局からの通達も山積みで、事務仕事は決して少なくない。
「伊藤くん、ちょっといいかね」
駅長の声がかかった。五十を過ぎた温厚な男で、忠範の仕事ぶりを高く評価している。
「はい、何でしょうか」
「さっき、本局から連絡があってね。今月中に臨時監査が入るそうだ」
「監査、ですか」
「ああ。安全管理体制の見直しだそうだ。特に地方路線は、設備の老朽化が問題視されているからな」
忠範は頷いた。この桜井駅も、開業から二十年近くが経つ。線路の補修は定期的に行っているが、予算の関係で完全とは言えない部分もある。
「わかりました。点検記録を再確認しておきます」
「頼むよ。君がいてくれて、本当に助かっている」
駅長は満足そうに頷き、部屋を出て行った。
忠範は再び書類に向かったが、ふと朝の光景が脳裏をよぎった。
藍色の着物を着た、あの女性。
なぜか、印象に残っている。
忠範は首を振り、意識を書類へ戻した。こんなことで気を取られているようでは、監査に備えられない。
その日の夕方。
忠範は最終点検のため、線路沿いを歩いていた。日が傾き始め、山の稜線が茜色に染まっている。風は冷たいが、どこか春の気配が混じっていた。
線路の状態を目視で確認しながら進む。枕木のひび割れ、犬釘の緩み、継ぎ目の隙間。すべてに目を配る。
と──。
忠範の足が止まった。
「……これは」
線路の継ぎ目に、妙な隙間がある。本来ならきっちりと接合されているはずの部分が、わずかに浮いていた。
忠範はしゃがみ込み、手で触れてみる。犬釘が一本、完全に抜けている。継ぎ目板も、わずかにずれていた。
「おかしい……」
朝の点検では異常なかったはずだ。それに、この箇所は二週間前に補修したばかりで、釘が緩むはずがない。
忠範は懐中時計を確認した。次の列車が通るまで、あと三十分。
彼は立ち上がり、駅舎へ向かって走り出した。
駅長室へ駆け込むと、駅長と助役が驚いた顔で振り返った。
「どうした、伊藤くん」
「第三区間の線路に異常があります。継ぎ目の犬釘が抜けていて、継ぎ目板もずれています」
「なんだと」
駅長の顔色が変わった。
「すぐに列車を止めろ。信号も赤にしろ」
助役が飛び出していく。忠範も続いて、信号操作室へ向かった。
やがて、赤信号が上がる。次の列車は手前の駅で停車し、緊急連絡が入った。忠範と駅員たちは、工具を持って現場へ急行した。
日が沈みかけている。
忠範は提灯を掲げながら、再び線路の継ぎ目を確認した。やはり、犬釘が完全に抜けている。そして──。
「駅長、これを」
忠範が拾い上げたのは、小さな金属片だった。錆びてはいるが、形状は明らかに人の手で削られたものだ。
「……誰かが、わざと抜いたのか」
駅長の声が、低く震えた。
忠範は黙って頷いた。
事故ではない。
これは、人為的な破壊行為だ。
その夜。
忠範は寮の部屋で、一人考え込んでいた。
誰が、何のために、線路を破壊したのか。
鉄道は、人々の命を預かる仕事だ。列車が脱線すれば、大惨事になる。それを分かっていながら、誰かが意図的に犬釘を抜いた。
理由が分からない。
忠範は窓の外を見た。遠くに、工場の煙突から煙が上がっているのが見える。
町の外れにある、生機工場。
女工たちが夜遅くまで働いているという、あの工場。
そして、朝、駅に降り立ったあの女性も──。
忠範は首を振った。
無関係だ。考えすぎだ。
だが、心の片隅に、小さな不安が残っていた。
同じ頃。
工場の寮で、雅子は薄暗い電灯の下、布団に横たわっていた。
一日中、織機の前で糸を操り、腕も腰も痛い。それでも、明日もまた同じ作業が続く。
隣の部屋からは、他の女工たちの話し声が聞こえてくる。
「ねえ、聞いた? また鉄道で事故があったんだって」
「ほんと? 怖いわね」
「でも、駅員さんが見つけて、止めたらしいわよ」
「良かった……」
雅子は目を閉じた。
あの駅員──朝、声をかけてくれた青年。
真面目そうな顔をしていた。
雅子の胸に、わずかな温かさが灯る。
そして、すぐに消えた。
彼のような人と、自分のような女工が、交わることなどない。
雅子はそう信じていた。
──まだ、この時は。
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