君恋し

第二話 霧の構内

 翌朝、桜井駅は薄い霧に包まれていた。

 早春の山間では珍しくない現象だが、視界が悪い日は何かと神経を使う。忠範は、いつもより三十分早く駅舎へ出勤し、信号灯の確認から始めた。

「おはよう、伊藤くん」

 駅長が重い足取りで現れた。昨夜の線路破損の件で、本局への報告書作成に追われ、ほとんど眠れなかったらしい。

「おはようございます。霧がひどいですね」

「ああ。列車の運行が遅れるかもしれん。各駅との連絡を密にしてくれ」

「承知しました」

 忠範は帽子を被り直し、ホームへ向かった。霧の中を、汽笛の音が低く響いてくる。最初の上り列車が近づいているようだ。

 構内に立ち、懐中時計を確認する。定刻より五分遅れ。霧のせいで、運転士も慎重に速度を落としているのだろう。





 やがて、霧の向こうから列車の影が浮かび上がった。

 ゆっくりと、ホームに滑り込んでくる。蒸気が白く立ち上り、霧と混じり合う。扉が開き、乗客が降りてくる。





 そして──。

 忠範の目に、再び藍色の着物が映った。

 昨日と同じ女性だった。小野雅子。

 彼女は風呂敷包みを抱え、どこか急いだ様子でホームに降り立った。顔色は昨日よりも悪く、目の下に薄い隈ができている。

 忠範は、思わず声をかけようとした。

 だが、雅子はすぐに改札へ向かい、人混みの中へ消えていった。

 忠範は小さく息を吐いた。

 彼女は、工場へ通っているのだろうか。だとすれば、毎朝この列車に乗ってくるのかもしれない。

「伊藤さん、次の列車が来ます」

 助役の声に、忠範は我に返った。

「はい、すぐに」

 彼は再び業務に集中した。だが、心の片隅に、雅子の疲れた顔が残っている。





 午前十時過ぎ。

 駅長室に、町の巡査が訪ねてきた。制服姿の中年男で、昨夜の線路破損の件で聞き込みに来たらしい。

「伊藤くん、君も同席してくれ」

 駅長に呼ばれ、忠範は応接室へ入った。巡査は手帳を開き、淡々と質問を始めた。

「それで、犬釘が抜かれていたのは、第三区間の継ぎ目だったと」

「はい。朝の点検では異常がなかったので、昼から夕方の間に誰かが抜いたものと思われます」

「目撃者は?」

「いません。その時間帯、線路沿いに人はほとんど通りませんから」

 巡査は眉をひそめた。

「困ったことだ。最近、町でも物騒な話が増えている」

「物騒、と言いますと?」

「工場でな。労働争議の気配があるんだ」

 忠範は驚いて顔を上げた。

「工場……生機工場ですか」

「ああ。女工たちの待遇が悪いと、匿名のビラが出回っているらしい。工場主も警戒している」

 駅長が腕を組んだ。

「それと、線路破損に何か関係が?」

「分からん。だが、鉄道が標的にされたのには、何か理由があるはずだ」

 巡査はそう言って、手帳を閉じた。

「引き続き、注意を怠らないように。何かあれば、すぐに連絡してくれ」

「承知しました」

 巡査が去った後、駅長と忠範は顔を見合わせた。

「工場の争議か……厄介なことになってきたな」

「しかし、鉄道と工場に、どんな関係が」

「分からん。だが、何かが動き始めているのは確かだ」

 駅長は深いため息をついた。





 昼過ぎ。

 忠範は、再び線路の点検に出た。霧は晴れ、春の陽光が差し込んでいる。第三区間の補修は済んでいるが、他の箇所も念入りに確認する必要がある。

 線路沿いを歩いていると、遠くに工場の建物が見えた。

 煉瓦造りの三階建て。窓からは、織機の音が絶え間なく響いている。敷地の周りには高い塀が巡らされ、正門には守衛が立っている。

 忠範は足を止め、工場を眺めた。

 あの中で、何が起きているのだろう。

 そして、あの女性──雅子も、あの中で働いているのだろうか。

 忠範は首を振り、再び点検作業に戻った。

 自分には関係のないことだ。鉄道員として、やるべきことをやるだけだ。

 そう言い聞かせながら。





 その日の夕方。

 工場の正門から、女工たちが続々と出てきた。

 皆、疲れ切った表情で、足を引きずるように歩いている。藍や灰色の着物に、手拭いを巻いた姿。中には、まだ十代半ばと思われる少女もいる。

 雅子も、その中にいた。

 風呂敷包みを抱え、黙々と歩く。隣には、十八歳ぐらいの少女が寄り添っている。宮下志津《みやしたしづ》──工場の見習い女工だ。

「雅子さん、大丈夫ですか」

 志津が心配そうに尋ねた。

「ええ、平気よ」

 雅子は微笑んだが、その笑顔には疲労の色が濃い。今日は、特に厳しい一日だった。





 午前中、織機の一台が突然停止した。原因は、糸の掛け方が悪かったためだと、監督は雅子を叱責した。だが、雅子は確かに正しく糸をかけていた。機械そのものに問題があったのだ。

 それでも、監督は聞き入れなかった。

「お前たちが不注意だから、機械が壊れるんだ」

 雅子は黙って頭を下げた。反論すれば、もっと厳しい罰が待っている。それが、この工場のルールだった。

「雅子さん……」

 志津は、涙ぐんでいた。この少女は、まだ幼い。故郷から出てきて、まだ三か月も経っていない。

「大丈夫。私たちは、ただ働くだけよ」

 雅子はそう言って、志津の肩を抱いた。

 だが、心の中では、怒りと無力感が渦巻いていた。

 二人は、駅前通りを歩いた。

 寮へ戻る前に、雑貨屋で少しだけ買い物をする。石鹸《せっけん》と針と糸。生活必需品だけだ。

 雑貨屋の前で、雅子はふと足を止めた。

 駅舎の方から、制服姿の男が歩いてくるのが見えた。

 忠範だった。

 彼は、駅の外周を点検しているらしい。線路脇を歩き、何かを確認しながら、ゆっくりと進んでいる。

 雅子は、その姿を見つめた。

 真面目そうな横顔。きちんと整えられた制服。彼のような人は、きっと安定した人生を歩んでいるのだろう。

 自分とは、違う世界の人間だ。

「雅子さん、どうしたんですか」

 志津の声に、雅子は我に返った。

「何でもないわ。さあ、行きましょう」

 二人は雑貨屋へ入り、必要なものを買った。そして、寮へ向かって歩き始めた。

 だが、雅子は何度か振り返った。

 忠範の姿は、もう見えなかった。





 その夜。

 工場の寮──といっても、古い木造の建物に、女工たちが詰め込まれているだけだ──で、雅子は小さな行灯《あんどん》の下、手紙を書いていた。

 宛先は、故郷の母。

 月に一度、必ず手紙を送る。そして、わずかな給金を同封する。弟と妹が学校へ通えるように。

 だが、今月は給金が減らされていた。

 機械の故障を理由に、罰金を取られたのだ。

 雅子は、ペンを持つ手を止めた。

 涙が、一滴、便箋に落ちる。

「……負けない」

 彼女は小さく呟いた。

 ここで倒れるわけにはいかない。家族のために、自分が支えなければならない。

 雅子は涙を拭い、再び筆を進めた。





 同じ頃、工場の片隅で。

 男たちが、小さな集まりを開いていた。

 中心にいるのは、田村新吉《たむらしんきち》──二十三歳の男工だ。背が高く、体格も良いが、目つきは鋭い。

「また機械が止まった。原因は老朽化だ」

 田村は、仲間たちに向かって言った。

「だが、工場主は俺たちのせいにする。女工たちにも罰金を科す。こんなことが、いつまで続くんだ」

「どうすればいいんだ、田村」

 若い男工が尋ねた。

「声を上げるしかない。だが、正面から行っても潰される。だから──」

 田村は、声を低くした。

「別の手を考える必要がある」

「別の手?」

「鉄道だ」

 男工たちが、息を呑んだ。

「鉄道が止まれば、工場の出荷も止まる。工場主も、少しは焦るだろう」

「だが、それは……」

「心配するな。誰も傷つけやしない。ただ、少し脅すだけだ」

 田村は、不敵に笑った。

 だが、その目には、狂気の色が混じっていた。





 翌朝。

 忠範は、再び駅のホームに立っていた。

 霧はすっかり晴れ、青空が広がっている。だが、心の中には、もやもやとした不安が残っていた。

 巡査が言っていた、工場の争議。

 その上、線路破損。

 何か、繋がりがあるのだろうか。





 列車が到着し、扉が開く。

 乗客が降りてくる。

 それから──。

 再び、雅子の姿が見えた。

 今日も、藍色の着物。風呂敷包みを抱え、急ぎ足で改札へ向かう。

 忠範は、思わず声をかけた。

「あの、お客さま」

 雅子が足を止め、振り返った。

 目が合う。

 彼女の瞳は、驚いたように見開かれている。

「……はい?」

「いえ、その……毎朝、お疲れさまです」

 忠範は、自分でも何を言っているのか分からなくなった。ただ、声をかけずにはいられなかった。

 雅子は、一瞬戸惑ったような表情を見せた。

 そして、小さく微笑んだ。

「……ありがとうございます」

 彼女はそう言って、改札へ向かった。

 忠範は、その後ろ姿を見送った。

 胸の中で、何かが動いた。

 それが何なのか、まだ彼には分からなかった。

 



その日の午後。

 工場で、事故が起きた。

 男工の一人が、機械に手を挟まれたのだ。

 悲鳴が響き、工場中が騒然となった。すぐに医者が呼ばれ、怪我をした男工は病院へ運ばれた。

 幸い、命に別状はなかったが、指を二本失った。

 工場主は、事故の原因を「本人の不注意」とした。

 だが、女工たちは知っていた。

 機械の安全装置が壊れていたことを──。

 それを報告しても、工場主は聞き入れなかったことを──。

 雅子は、作業場の隅で、拳を握りしめた。

 志津が、怯えた顔で雅子の袖を引いた。

「雅子さん……怖い……」

「大丈夫。私たちは、気をつけていれば」

 雅子はそう言ったが、自分でも信じられなかった。

 この工場では、誰も守られていない。

 ただ、搾取されるだけだ。

 雅子の心の中で、何かが音を立てて崩れていった。

 



その夜、工場の寮に戻った雅子は、一枚のビラを見つけた。

 誰かが、寮の入り口に置いていったらしい。

 手に取って読む。

「我々は、不当な待遇に抗議する。工場主は、労働環境の改善を約束せよ。さもなくば──」

 文章は、そこで途切れていた。

 雅子は、ビラを握りしめた。

 誰が書いたのだろう。

 加えて、何をしようとしているのだろう。

 不安が、胸を締めつける。

 



雅子は、窓の外を見た。

 遠くに、駅の灯が見えた。

 あの駅員──忠範。

 今朝、声をかけてくれた。

「お疲れさまです」と。

 あの言葉が、どこか温かかった。

 雅子は、小さく息を吐いた。

 それは、行灯の火を消した。

 ──明日も、また長い一日が始まる。

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