君恋し
第十話 東京行きの知らせ
真夜中。
月明かりの下、線路が銀色に光っていた。
忠範は、提灯を掲げながら、慎重に線路を点検していた。枕木の状態、犬釘の緩み、継ぎ目の隙間──いつもと同じ作業を、いつも以上に注意深く行う。
田村の言葉が、頭から離れない。
「お前の鉄道を、めちゃくちゃにしてやる」
あれは、脅しではない。
忠範は、それを確信していた。
第三区間に差し掛かった時、忠範は足を止めた。
何か──違和感がある。
提灯を近づけると、継ぎ目の犬釘が、わずかに浮いていた。
「……やはり」
忠範は、しゃがみ込んで確認した。
犬釘は、半分ほど抜かれている。まだ作業途中のようだ。
ということは──。
忠範は、辺りを見回した。
犯人は、まだ近くにいるかもしれない。
その時、茂みの方から物音がした。
忠範は、提灯を掲げた。
「誰だ!」
茂みが揺れ、人影が飛び出した。
数人──三人か四人。
彼らは、忠範を見ると、逃げ出した。
「待て!」
忠範は追いかけようとしたが、暗闇の中では追いつけない。人影は、すぐに夜の闇に消えていった。
忠範は、その場に立ち尽くした。
やはり、田村たちだ。
彼らは、本当に線路を破壊しようとしていた。
忠範は、急いで駅へ戻った。
駅長室に駆け込むと、駅長と助役がまだ残っていた。
「伊藤くん、どうした」
「第三区間で、犯人を見つけました」
「何!」
「継ぎ目の犬釘が、抜かれかけていました。犯人は逃げましたが、数人いました」
駅長は、すぐに警察に電話をかけた。
やがて、巡査が数人駆けつけてきた。
「犯人の顔は?」
「暗くて、はっきりとは……でも、工場の男工だと思います」
「工場の?」
「はい。以前から、鉄道を狙うという噂がありました」
巡査は、頷いた。
「分かった。工場を調べる」
巡査たちは、急いで工場へ向かった。
忠範も、駅長、助役と共に、現場の修復作業に取り掛かった。
一時間後。
継ぎ目の修復が完了した。
明朝の列車は、無事に運行できる。
だが、忠範の胸には、重い不安が残っていた。
田村たちは、逃げただろうか。
それとも──。
「伊藤くん」
駅長が、声をかけた。
「よくやった。お前のおかげで、大事故を防げた」
「いえ、当然のことです」
「だが、これで終わりではない」
駅長は、深刻な顔をしていた。
「犯人たちは、まだ捕まっていない。また、同じことが起きるかもしれない」
「……はい」
「これから、さらに警備を強化する。お前も、協力してくれるな」
「もちろんです」
忠範は、頷いた。
だが、心の中では──雅子のことが気になっていた。
彼女は、大丈夫だろうか。
田村たちが捕まれば、工場も大騒ぎになるだろう。
その朝。
工場は、騒然としていた。
夜中に警察が来て、田村新吉と数人の男工が連行されたのだ。
線路破壊未遂の容疑。
女工たちは、驚きと恐怖に震えていた。
「田村さんが、捕まった……」
「本当に、線路を壊そうとしていたの?」
「怖い……」
雅子も、その知らせを聞いて、顔を青ざめていた。
田村は、本当にやろうとしていたのだ。
そして──捕まった。
雅子は、複雑な思いだった。
田村のやったことは、許されない。
だが、彼もまた──工場の劣悪な環境に追い詰められた、犠牲者なのかもしれない。
「雅子さん」
志津が、震える声で言った。
「これから、どうなるんでしょう」
「分からないわ……」
雅子は、窓の外を見た。
遠くに、駅が見える。
忠範は──無事だろうか。
その日の午後。
工場主の中津川が、全員を集めた。
「諸君」
工場主の声が、作業場に響いた。
「田村新吉ら数名が、鉄道破壊の容疑で逮捕された」
ざわめきが、広がった。
「これは、我が工場にとって、大きな不名誉だ」
工場主の顔は、怒りに染まっていた。
「だが、彼らは一部の不心得者だ。諸君らまで、同じように見られては困る」
「……」
「今後、このような事件が起きないよう、工場の規律を厳格にする。違反者には、厳しい処分を下す」
女工たちは、黙って聞いていた。
「そして──」
工場主は、女工たちを睨んだ。
「もし、この中に田村らに協力した者がいれば、今すぐ名乗り出なさい」
沈黙。
誰も、声を上げない。
「……そうか」
工場主は、冷たく笑った。
「なら、監視を強化する。諸君らの行動は、すべて監視される。覚悟しておけ」
女工たちの顔に、絶望の色が広がった。
その日の夕方。
雅子は、駅へ急いだ。
忠範に、会いたかった。
彼が無事か、確かめたかった。
駅に着くと、忠範がホームにいた。
彼は、疲れた様子だったが、無事だった。
「伊藤さん!」
雅子が駆け寄ると、忠範は振り返った。
「小野さん……」
二人は、見つめ合った。
「無事で……良かった」
雅子の目から、涙が溢れた。
「小野さんこそ、大丈夫ですか」
「ええ……でも、工場が大変なことになって」
「聞きました。田村たちが、捕まったと」
「はい……」
雅子は、視線を落とした。
「あの人たちは……やはり、線路を壊そうとしていたんですね」
「はい。でも、未遂で終わりました」
忠範は、雅子の手を取った。
「もう、大丈夫です」
「本当に?」
「ええ。犯人は捕まりました。これで、鉄道も安全です」
雅子は、小さく頷いた。
しかし、心の中では──まだ不安が消えていなかった。
その夜。
忠範は、寮の部屋で一人、考え込んでいた。
今日の事件──無事に解決した。
だが、これで本当に終わりなのだろうか。
そして──雅子との関係は、これからどうなるのだろう。
田村の言葉が、まだ頭に残っている。
「お前は、いずれ現実に直面する」
確かに、自分と雅子では、身分が違う。
もし、上司に知られたら──。
その時、部屋の扉がノックされた。
「伊藤くん、いるか」
駅長の声だった。
「はい」
忠範は、扉を開けた。
駅長は、真剣な顔をしていた。
「ちょっと、話がある」
「はい」
二人は、部屋の中に入った。
駅長は、忠範に向かい合って座った。
「伊藤くん、お前に良い知らせがある」
「良い知らせ、ですか」
「ああ」
駅長は、封筒を取り出した。
「本局から、連絡があった」
忠範の心臓が、跳ねた。
「お前を、東京の本局へ異動させたいそうだ」
「……え?」
「今回の事件で、お前の働きが評価された。線路破壊を未然に防ぎ、犯人の逮捕にも貢献した」
駅長は、微笑んだ。
「本局では、お前のような優秀な人材を求めている」
忠範は、言葉を失った。
東京──本局。
それは、鉄道員にとって、最高の栄誉だ。
地方駅から本局への異動は、出世への道が開かれることを意味する。
「伊藤くん、おめでとう」
「……ありがとうございます」
忠範は、機械的に答えた。
だが、心の中では──複雑な思いが渦巻いていた。
「異動は、来月だ」
「来月……」
「ああ。早いが、それだけお前が必要とされているということだ」
駅長は、立ち上がった。
「詳しい話は、また明日。今夜は、ゆっくり休みなさい」
「はい……」
駅長が去った後、忠範は一人、部屋に残された。
東京──。
それは、夢だった。
いつか、本局で働きたいと思っていた。
だが、今──。
忠範の脳裏に、雅子の顔が浮かんだ。
もし、東京へ行けば──。
彼女とは、離れ離れになる。
遠距離の恋。
それでも、続けられるだろうか。
忠範は、窓の外を見た。
遠くに、工場の灯が見える。
あの中に、雅子がいる。
「……どうすればいいんだ」
忠範は、頭を抱えた。
喜ぶべきことのはずなのに──心は、重かった。
翌日。
忠範は、雅子に会うため、工場の近くで待っていた。
仕事が終わる時間──女工たちが、ぞろぞろと出てくる。
やがて、雅子の姿が見えた。
「小野さん」
忠範が声をかけると、雅子は驚いて振り返った。
「伊藤さん?こんなところで……」
「少し、話があります」
二人は、人目につかない場所へ移動した。
「どうしたんですか」
雅子が尋ねた。
忠範は、言葉を探した。
どう伝えればいいのか。
「小野さん……僕、東京へ行くことになりました」
雅子の顔が、凍りついた。
「……え?」
「本局から、異動の辞令が出ました」
「東京……」
雅子の声が、震えた。
「それは……いつ?」
「来月です」
雅子は、視線を落とした。
沈黙が、二人の間に横たわった。
「小野さん……」
「おめでとうございます」
雅子は、顔を上げた。
微笑んでいた──だが、その目には、涙が滲んでいた。
「それは、素晴らしいことですね」
「でも、僕は──」
「伊藤さんは、優秀な方ですから。東京で、きっと活躍されます」
「小野さん……」
忠範は、雅子の手を取った。
「僕は、小野さんと離れたくありません」
「でも……」
「東京へ行っても、僕たちの関係は変わりません」
「本当に……そうでしょうか」
雅子の涙が、溢れた。
「東京は、遠いです。私は、ここにいる。会えるのは、いつになるか……」
「手紙を、書きます」
「手紙……」
「はい。毎日、手紙を書きます。小野さんも、書いてください」
雅子は、頷いた。
だが、心の中では──不安が渦巻いていた。
遠距離の恋。
それは、本当に続けられるのだろうか。
そして──東京には、自分よりも相応しい女性が、たくさんいるのではないか。
「小野さん」
忠範は、雅子を抱きしめた。
「僕は、小野さんだけを愛しています」
「伊藤さん……」
「どんなに離れていても、その気持ちは変わりません」
雅子は、忠範の胸で泣いた。
「信じて、待っていてください」
「……はい」
雅子は、小さく答えた。
だが、その声は──どこか、諦めの色を帯びていた。
二人の恋は──新たな試練を迎えようとしていた。
そして、それは──やがて、二人を引き裂く運命となる。
月明かりの下、線路が銀色に光っていた。
忠範は、提灯を掲げながら、慎重に線路を点検していた。枕木の状態、犬釘の緩み、継ぎ目の隙間──いつもと同じ作業を、いつも以上に注意深く行う。
田村の言葉が、頭から離れない。
「お前の鉄道を、めちゃくちゃにしてやる」
あれは、脅しではない。
忠範は、それを確信していた。
第三区間に差し掛かった時、忠範は足を止めた。
何か──違和感がある。
提灯を近づけると、継ぎ目の犬釘が、わずかに浮いていた。
「……やはり」
忠範は、しゃがみ込んで確認した。
犬釘は、半分ほど抜かれている。まだ作業途中のようだ。
ということは──。
忠範は、辺りを見回した。
犯人は、まだ近くにいるかもしれない。
その時、茂みの方から物音がした。
忠範は、提灯を掲げた。
「誰だ!」
茂みが揺れ、人影が飛び出した。
数人──三人か四人。
彼らは、忠範を見ると、逃げ出した。
「待て!」
忠範は追いかけようとしたが、暗闇の中では追いつけない。人影は、すぐに夜の闇に消えていった。
忠範は、その場に立ち尽くした。
やはり、田村たちだ。
彼らは、本当に線路を破壊しようとしていた。
忠範は、急いで駅へ戻った。
駅長室に駆け込むと、駅長と助役がまだ残っていた。
「伊藤くん、どうした」
「第三区間で、犯人を見つけました」
「何!」
「継ぎ目の犬釘が、抜かれかけていました。犯人は逃げましたが、数人いました」
駅長は、すぐに警察に電話をかけた。
やがて、巡査が数人駆けつけてきた。
「犯人の顔は?」
「暗くて、はっきりとは……でも、工場の男工だと思います」
「工場の?」
「はい。以前から、鉄道を狙うという噂がありました」
巡査は、頷いた。
「分かった。工場を調べる」
巡査たちは、急いで工場へ向かった。
忠範も、駅長、助役と共に、現場の修復作業に取り掛かった。
一時間後。
継ぎ目の修復が完了した。
明朝の列車は、無事に運行できる。
だが、忠範の胸には、重い不安が残っていた。
田村たちは、逃げただろうか。
それとも──。
「伊藤くん」
駅長が、声をかけた。
「よくやった。お前のおかげで、大事故を防げた」
「いえ、当然のことです」
「だが、これで終わりではない」
駅長は、深刻な顔をしていた。
「犯人たちは、まだ捕まっていない。また、同じことが起きるかもしれない」
「……はい」
「これから、さらに警備を強化する。お前も、協力してくれるな」
「もちろんです」
忠範は、頷いた。
だが、心の中では──雅子のことが気になっていた。
彼女は、大丈夫だろうか。
田村たちが捕まれば、工場も大騒ぎになるだろう。
その朝。
工場は、騒然としていた。
夜中に警察が来て、田村新吉と数人の男工が連行されたのだ。
線路破壊未遂の容疑。
女工たちは、驚きと恐怖に震えていた。
「田村さんが、捕まった……」
「本当に、線路を壊そうとしていたの?」
「怖い……」
雅子も、その知らせを聞いて、顔を青ざめていた。
田村は、本当にやろうとしていたのだ。
そして──捕まった。
雅子は、複雑な思いだった。
田村のやったことは、許されない。
だが、彼もまた──工場の劣悪な環境に追い詰められた、犠牲者なのかもしれない。
「雅子さん」
志津が、震える声で言った。
「これから、どうなるんでしょう」
「分からないわ……」
雅子は、窓の外を見た。
遠くに、駅が見える。
忠範は──無事だろうか。
その日の午後。
工場主の中津川が、全員を集めた。
「諸君」
工場主の声が、作業場に響いた。
「田村新吉ら数名が、鉄道破壊の容疑で逮捕された」
ざわめきが、広がった。
「これは、我が工場にとって、大きな不名誉だ」
工場主の顔は、怒りに染まっていた。
「だが、彼らは一部の不心得者だ。諸君らまで、同じように見られては困る」
「……」
「今後、このような事件が起きないよう、工場の規律を厳格にする。違反者には、厳しい処分を下す」
女工たちは、黙って聞いていた。
「そして──」
工場主は、女工たちを睨んだ。
「もし、この中に田村らに協力した者がいれば、今すぐ名乗り出なさい」
沈黙。
誰も、声を上げない。
「……そうか」
工場主は、冷たく笑った。
「なら、監視を強化する。諸君らの行動は、すべて監視される。覚悟しておけ」
女工たちの顔に、絶望の色が広がった。
その日の夕方。
雅子は、駅へ急いだ。
忠範に、会いたかった。
彼が無事か、確かめたかった。
駅に着くと、忠範がホームにいた。
彼は、疲れた様子だったが、無事だった。
「伊藤さん!」
雅子が駆け寄ると、忠範は振り返った。
「小野さん……」
二人は、見つめ合った。
「無事で……良かった」
雅子の目から、涙が溢れた。
「小野さんこそ、大丈夫ですか」
「ええ……でも、工場が大変なことになって」
「聞きました。田村たちが、捕まったと」
「はい……」
雅子は、視線を落とした。
「あの人たちは……やはり、線路を壊そうとしていたんですね」
「はい。でも、未遂で終わりました」
忠範は、雅子の手を取った。
「もう、大丈夫です」
「本当に?」
「ええ。犯人は捕まりました。これで、鉄道も安全です」
雅子は、小さく頷いた。
しかし、心の中では──まだ不安が消えていなかった。
その夜。
忠範は、寮の部屋で一人、考え込んでいた。
今日の事件──無事に解決した。
だが、これで本当に終わりなのだろうか。
そして──雅子との関係は、これからどうなるのだろう。
田村の言葉が、まだ頭に残っている。
「お前は、いずれ現実に直面する」
確かに、自分と雅子では、身分が違う。
もし、上司に知られたら──。
その時、部屋の扉がノックされた。
「伊藤くん、いるか」
駅長の声だった。
「はい」
忠範は、扉を開けた。
駅長は、真剣な顔をしていた。
「ちょっと、話がある」
「はい」
二人は、部屋の中に入った。
駅長は、忠範に向かい合って座った。
「伊藤くん、お前に良い知らせがある」
「良い知らせ、ですか」
「ああ」
駅長は、封筒を取り出した。
「本局から、連絡があった」
忠範の心臓が、跳ねた。
「お前を、東京の本局へ異動させたいそうだ」
「……え?」
「今回の事件で、お前の働きが評価された。線路破壊を未然に防ぎ、犯人の逮捕にも貢献した」
駅長は、微笑んだ。
「本局では、お前のような優秀な人材を求めている」
忠範は、言葉を失った。
東京──本局。
それは、鉄道員にとって、最高の栄誉だ。
地方駅から本局への異動は、出世への道が開かれることを意味する。
「伊藤くん、おめでとう」
「……ありがとうございます」
忠範は、機械的に答えた。
だが、心の中では──複雑な思いが渦巻いていた。
「異動は、来月だ」
「来月……」
「ああ。早いが、それだけお前が必要とされているということだ」
駅長は、立ち上がった。
「詳しい話は、また明日。今夜は、ゆっくり休みなさい」
「はい……」
駅長が去った後、忠範は一人、部屋に残された。
東京──。
それは、夢だった。
いつか、本局で働きたいと思っていた。
だが、今──。
忠範の脳裏に、雅子の顔が浮かんだ。
もし、東京へ行けば──。
彼女とは、離れ離れになる。
遠距離の恋。
それでも、続けられるだろうか。
忠範は、窓の外を見た。
遠くに、工場の灯が見える。
あの中に、雅子がいる。
「……どうすればいいんだ」
忠範は、頭を抱えた。
喜ぶべきことのはずなのに──心は、重かった。
翌日。
忠範は、雅子に会うため、工場の近くで待っていた。
仕事が終わる時間──女工たちが、ぞろぞろと出てくる。
やがて、雅子の姿が見えた。
「小野さん」
忠範が声をかけると、雅子は驚いて振り返った。
「伊藤さん?こんなところで……」
「少し、話があります」
二人は、人目につかない場所へ移動した。
「どうしたんですか」
雅子が尋ねた。
忠範は、言葉を探した。
どう伝えればいいのか。
「小野さん……僕、東京へ行くことになりました」
雅子の顔が、凍りついた。
「……え?」
「本局から、異動の辞令が出ました」
「東京……」
雅子の声が、震えた。
「それは……いつ?」
「来月です」
雅子は、視線を落とした。
沈黙が、二人の間に横たわった。
「小野さん……」
「おめでとうございます」
雅子は、顔を上げた。
微笑んでいた──だが、その目には、涙が滲んでいた。
「それは、素晴らしいことですね」
「でも、僕は──」
「伊藤さんは、優秀な方ですから。東京で、きっと活躍されます」
「小野さん……」
忠範は、雅子の手を取った。
「僕は、小野さんと離れたくありません」
「でも……」
「東京へ行っても、僕たちの関係は変わりません」
「本当に……そうでしょうか」
雅子の涙が、溢れた。
「東京は、遠いです。私は、ここにいる。会えるのは、いつになるか……」
「手紙を、書きます」
「手紙……」
「はい。毎日、手紙を書きます。小野さんも、書いてください」
雅子は、頷いた。
だが、心の中では──不安が渦巻いていた。
遠距離の恋。
それは、本当に続けられるのだろうか。
そして──東京には、自分よりも相応しい女性が、たくさんいるのではないか。
「小野さん」
忠範は、雅子を抱きしめた。
「僕は、小野さんだけを愛しています」
「伊藤さん……」
「どんなに離れていても、その気持ちは変わりません」
雅子は、忠範の胸で泣いた。
「信じて、待っていてください」
「……はい」
雅子は、小さく答えた。
だが、その声は──どこか、諦めの色を帯びていた。
二人の恋は──新たな試練を迎えようとしていた。
そして、それは──やがて、二人を引き裂く運命となる。


