君恋し
第九話 揺れる心
日曜日の朝。
雅子は、久しぶりの休日に、少しだけ心が軽くなっていた。
今日は、忠範と会える日。町外れの桜並木で、二人きりで過ごせる。
雅子は、普段よりも少しだけ身なりを整えた。藍色の着物を丁寧に着て、髪を結い直した。鏡を見ると、疲れた顔が映っているが、それでも今日は──笑顔でいたい。
寮を出ようとした時、志津が声をかけてきた。
「雅子さん、今日はお休みですね」
「ええ」
「どこかへ?」
雅子は、少し戸惑った。
「……少し、町を歩こうかと」
「一人で?」
「ええ」
志津は、微笑んだ。
「もしかして……駅員さんと?」
雅子の頬が、赤くなった。
「志津ちゃん……」
「いいんです。雅子さんには、幸せになってほしいから」
志津は、雅子の手を握った。
「雅子さん、いつも私を守ってくれて、ありがとうございます」
「何を言ってるの」
「だから……雅子さんも、幸せになってください」
雅子は、志津を抱きしめた。
「ありがとう。でも、まだ何も始まっていないのよ」
「でも、始まりますよ。きっと」
志津の言葉が、雅子の胸に温かく響いた。
午前十時。
雅子は、町外れの桜並木へ向かった。
桜はもう散り始めていたが、まだ花びらが道を覆っている。風が吹くたび、薄紅色の花びらが舞い落ちる。
並木道の先に、忠範の姿が見えた。
彼も、普段の制服ではなく、紺の着物を着ている。少し緊張した様子で、そわそわと辺りを見回していた。
「伊藤さん」
雅子が声をかけると、忠範は振り返った。
「小野さん!」
彼の顔が、ぱっと明るくなった。
「来てくれたんですね」
「ええ。約束ですから」
二人は、並木道を歩き始めた。
しばらく、無言の時間が続いた。
だが、それは気まずいものではなく──むしろ、心地よい沈黙だった。
「小野さん」
「はい」
「今日は、ゆっくり話ができて嬉しいです」
「私も……」
雅子は、微笑んだ。
「いつも、朝の短い時間だけでしたから」
「そうですね」
忠範は、少し照れくさそうに笑った。
二人は、桜の木の下のベンチに座った。
「小野さん、工場は……大変ですか」
「ええ。でも、慣れました」
「昨日は、泣いていましたね」
雅子は、視線を落とした。
「……すみません。弱いところを見せてしまって」
「いいえ」
忠範は、首を振った。
「僕は……小野さんの、そういうところも知りたいんです」
「え?」
「いつも強くて、優しくて、頑張っている小野さん。でも、時には辛くて、泣きたくなることもある」
忠範は、雅子の目を見つめた。
「そんな小野さんも、好きです」
雅子の胸が、熱くなった。
「伊藤さん……」
「僕は、小野さんの全部を、知りたいんです」
雅子の目から、涙が溢れた。
「伊藤さん……私、あなたに会えて、本当に良かった」
「僕も、です」
二人の手が、そっと触れ合った。
温かい手。
優しい手。
雅子は、初めて──本当の幸せを感じた。
だが、その時。
並木道の向こうから、数人の男たちが歩いてくるのが見えた。
雅子は、その中の一人を見て、息を呑んだ。
田村新吉だった。
「伊藤さん……」
「どうしました?」
「あの人たちは……工場の」
忠範も、男たちを見た。
田村たちは、二人の姿を認めると、足を止めた。
そして──こちらへ向かってきた。
「小野雅子」
田村の声が、冷たく響いた。
「こんなところで、何をしている」
「田村さん……」
雅子は、立ち上がった。
忠範も、立ち上がり、雅子の前に立った。
「あなたたちは?」
「俺たちは、工場の者だ」
田村は、忠範を睨みつけた。
「お前が、伊藤忠範か」
「……はい」
「小野を、たぶらかしているのは、お前だな」
「たぶらかす?何を言っているんですか」
「黙れ!」
田村は、一歩前に出た。
「お前のような鉄道員が、女工に手を出すなど、許されると思っているのか」
「田村さん、やめてください」
雅子が、間に入った。
「伊藤さんは、何も悪いことをしていません」
「雅子、お前は黙っていろ」
「いいえ!あなたこそ、何をしに来たんですか」
田村の目が、鋭く光った。
「お前を、連れ戻しに来た」
「連れ戻す?」
「ああ。お前は、こんな男といるべきじゃない」
「それは、私が決めることです」
「雅子!」
田村は、雅子の腕を掴もうとした。
だが、忠範がそれを遮った。
「やめてください」
「どけ!」
田村は、忠範を突き飛ばした。
忠範は、よろめいた。
「伊藤さん!」
雅子が、忠範を支えた。
田村の仲間たちが、前に出てきた。
「おい、田村。こんなところで騒ぎを起こすのは──」
「黙れ」
田村は、仲間を睨んだ。
そして、再び忠範を見た。
「いいか、伊藤。お前は、雅子から離れろ」
「それは──」
「さもなくば、お前の鉄道を、めちゃくちゃにしてやる」
忠範は、息を呑んだ。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
田村は、不敵に笑った。
「お前の大切な鉄道を、止めてやる。そうすれば、お前は責任を問われる」
「田村さん、やめて!」
雅子が、叫んだ。
「そんなことをしたら、あなたが──」
「構わない」
田村は、雅子を見た。
「俺は、お前のためなら、何でもする」
「私のため? 違うわ。あなたは、ただ──」
「黙れ!」
田村の声が、並木道に響いた。
「お前は、分かっていない。この男が、お前を利用しているだけだということを」
「利用? そんなこと──」
「そうだ。鉄道員と女工。釣り合わない関係だ。お前は、いずれ捨てられる」
雅子の顔が、青ざめた。
田村の言葉が、心の奥に突き刺さる。
「小野さん」
忠範が、雅子の手を取った。
「そんなことは、ありません。僕は、小野さんを——」
「愛している? 笑わせるな」
田村は、冷たく笑った。
「お前は、今は面白半分で遊んでいるだけだ。だが、いずれ上司から圧力がかかる。身分違いの女との関係を、切れと」
「そんなことは——」
「あるんだよ」
田村は、一歩近づいた。
「俺は、知っている。お前のような鉄道員は、将来を約束されている。だが、それには条件がある。相応しい相手と結婚すること。女工のような、下層の女ではなく」
忠範は、言葉に詰まった。
田村の言葉には──確かに、一理あった。
鉄道局には、暗黙のルールがある。昇進するためには、家柄や身分も考慮される。地方駅から本局へ異動するには、上司の推薦が必要で、その際には私生活も審査される。
もし、雅子との関係が知られたら──。
「伊藤さん……」
雅子が、震える声で言った。
「田村さんの言う通り……なのですか」
「いいえ、そんなことは──」
「でも……」
雅子の目から、涙が溢れた。
「私は……あなたの、足枷になるのですか」
「小野さん、違います」
「でも、田村さんは──」
「田村という男の言葉を、信じるんですか」
忠範は、真剣な目で雅子を見つめた。
「僕は、小野さんを愛しています。それは、本当です」
「伊藤さん……」
「どんなことがあっても、僕は小野さんと一緒にいたい」
田村は、鼻で笑った。
「綺麗事を言うな。お前は、いずれ現実に直面する」
「それは、僕が決めることです」
忠範は、田村を睨んだ。
「あなたに、言われる筋合いはありません」
「ほう」
田村は、不気味に笑った。
「なら、後悔するなよ」
そう言って、田村は仲間たちと共に去って行った。
二人は、その場に残された。
沈黙が、重く横たわった。
「小野さん……」
「伊藤さん……田村さんの言うこと、本当なんですか」
忠範は、躊躇した。
「……全くの嘘とは、言えません」
雅子の顔が、さらに青ざめた。
「でも」
忠範は、雅子の両手を握った。
「僕は、小野さんと一緒にいたい。それだけは、本当です」
「でも、私は……あなたの将来を、邪魔してしまう」
「そんなことは──」
「いいえ」
雅子は、首を振った。
「田村さんの言う通りです。私は、あなたと釣り合わない」
「小野さん」
「私は、ただの女工。あなたは、立派な鉄道員」
雅子の涙が、止まらなかった。
「私たちは……一緒にいてはいけないのかもしれません」
「そんなこと、ありません」
忠範は、雅子を抱きしめた。
「僕は、小野さんがいなければ、生きていけません」
「伊藤さん……」
「一緒に、いてください」
雅子は、忠範の胸で泣いた。
嬉しくて。
悲しくて。
苦しくて。
二人の恋は──既に、大きな試練に直面していた。
その日の夜。
田村新吉は、倉庫で仲間たちと最終準備をしていた。
「今夜、決行する」
「本当にいいのか」
「もう、迷っている時間はない」
田村は、工具を手に取った。
「線路の継ぎ目を、三箇所破壊する。そうすれば、明日の朝の列車は──」
「止まるのか」
「ああ。そして、伊藤忠範は責任を問われる」
田村は、不気味に笑った。
「あの男が失墜すれば、雅子も分かるだろう」
「だが、これは危険すぎる」
「心配するな。俺たちは、見つからない」
田村は、仲間たちを見回した。
「行くぞ」
男たちは、夜の闇に消えていった。
同じ頃、駅では。
忠範が、夜間巡回の準備をしていた。
今夜も、線路を見回らなければならない。
しかし、心は──雅子のことでいっぱいだった。
彼女は、今頃どうしているだろう。
まだ、泣いているだろうか。
忠範は、胸が苦しかった。
田村という男の言葉──確かに、一理ある。
自分と雅子では、身分が違う。
もし、上司に知られたら──。
だが、それでも。
忠範は、拳を握りしめた。
雅子を、守りたい。
どんなことがあっても、一緒にいたい。
その決意を、胸に。
忠範は、提灯を持って、線路へ向かった。
だが──彼は、まだ知らなかった。
今夜、大きな事件が起きようとしていることを。
雅子は、久しぶりの休日に、少しだけ心が軽くなっていた。
今日は、忠範と会える日。町外れの桜並木で、二人きりで過ごせる。
雅子は、普段よりも少しだけ身なりを整えた。藍色の着物を丁寧に着て、髪を結い直した。鏡を見ると、疲れた顔が映っているが、それでも今日は──笑顔でいたい。
寮を出ようとした時、志津が声をかけてきた。
「雅子さん、今日はお休みですね」
「ええ」
「どこかへ?」
雅子は、少し戸惑った。
「……少し、町を歩こうかと」
「一人で?」
「ええ」
志津は、微笑んだ。
「もしかして……駅員さんと?」
雅子の頬が、赤くなった。
「志津ちゃん……」
「いいんです。雅子さんには、幸せになってほしいから」
志津は、雅子の手を握った。
「雅子さん、いつも私を守ってくれて、ありがとうございます」
「何を言ってるの」
「だから……雅子さんも、幸せになってください」
雅子は、志津を抱きしめた。
「ありがとう。でも、まだ何も始まっていないのよ」
「でも、始まりますよ。きっと」
志津の言葉が、雅子の胸に温かく響いた。
午前十時。
雅子は、町外れの桜並木へ向かった。
桜はもう散り始めていたが、まだ花びらが道を覆っている。風が吹くたび、薄紅色の花びらが舞い落ちる。
並木道の先に、忠範の姿が見えた。
彼も、普段の制服ではなく、紺の着物を着ている。少し緊張した様子で、そわそわと辺りを見回していた。
「伊藤さん」
雅子が声をかけると、忠範は振り返った。
「小野さん!」
彼の顔が、ぱっと明るくなった。
「来てくれたんですね」
「ええ。約束ですから」
二人は、並木道を歩き始めた。
しばらく、無言の時間が続いた。
だが、それは気まずいものではなく──むしろ、心地よい沈黙だった。
「小野さん」
「はい」
「今日は、ゆっくり話ができて嬉しいです」
「私も……」
雅子は、微笑んだ。
「いつも、朝の短い時間だけでしたから」
「そうですね」
忠範は、少し照れくさそうに笑った。
二人は、桜の木の下のベンチに座った。
「小野さん、工場は……大変ですか」
「ええ。でも、慣れました」
「昨日は、泣いていましたね」
雅子は、視線を落とした。
「……すみません。弱いところを見せてしまって」
「いいえ」
忠範は、首を振った。
「僕は……小野さんの、そういうところも知りたいんです」
「え?」
「いつも強くて、優しくて、頑張っている小野さん。でも、時には辛くて、泣きたくなることもある」
忠範は、雅子の目を見つめた。
「そんな小野さんも、好きです」
雅子の胸が、熱くなった。
「伊藤さん……」
「僕は、小野さんの全部を、知りたいんです」
雅子の目から、涙が溢れた。
「伊藤さん……私、あなたに会えて、本当に良かった」
「僕も、です」
二人の手が、そっと触れ合った。
温かい手。
優しい手。
雅子は、初めて──本当の幸せを感じた。
だが、その時。
並木道の向こうから、数人の男たちが歩いてくるのが見えた。
雅子は、その中の一人を見て、息を呑んだ。
田村新吉だった。
「伊藤さん……」
「どうしました?」
「あの人たちは……工場の」
忠範も、男たちを見た。
田村たちは、二人の姿を認めると、足を止めた。
そして──こちらへ向かってきた。
「小野雅子」
田村の声が、冷たく響いた。
「こんなところで、何をしている」
「田村さん……」
雅子は、立ち上がった。
忠範も、立ち上がり、雅子の前に立った。
「あなたたちは?」
「俺たちは、工場の者だ」
田村は、忠範を睨みつけた。
「お前が、伊藤忠範か」
「……はい」
「小野を、たぶらかしているのは、お前だな」
「たぶらかす?何を言っているんですか」
「黙れ!」
田村は、一歩前に出た。
「お前のような鉄道員が、女工に手を出すなど、許されると思っているのか」
「田村さん、やめてください」
雅子が、間に入った。
「伊藤さんは、何も悪いことをしていません」
「雅子、お前は黙っていろ」
「いいえ!あなたこそ、何をしに来たんですか」
田村の目が、鋭く光った。
「お前を、連れ戻しに来た」
「連れ戻す?」
「ああ。お前は、こんな男といるべきじゃない」
「それは、私が決めることです」
「雅子!」
田村は、雅子の腕を掴もうとした。
だが、忠範がそれを遮った。
「やめてください」
「どけ!」
田村は、忠範を突き飛ばした。
忠範は、よろめいた。
「伊藤さん!」
雅子が、忠範を支えた。
田村の仲間たちが、前に出てきた。
「おい、田村。こんなところで騒ぎを起こすのは──」
「黙れ」
田村は、仲間を睨んだ。
そして、再び忠範を見た。
「いいか、伊藤。お前は、雅子から離れろ」
「それは──」
「さもなくば、お前の鉄道を、めちゃくちゃにしてやる」
忠範は、息を呑んだ。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
田村は、不敵に笑った。
「お前の大切な鉄道を、止めてやる。そうすれば、お前は責任を問われる」
「田村さん、やめて!」
雅子が、叫んだ。
「そんなことをしたら、あなたが──」
「構わない」
田村は、雅子を見た。
「俺は、お前のためなら、何でもする」
「私のため? 違うわ。あなたは、ただ──」
「黙れ!」
田村の声が、並木道に響いた。
「お前は、分かっていない。この男が、お前を利用しているだけだということを」
「利用? そんなこと──」
「そうだ。鉄道員と女工。釣り合わない関係だ。お前は、いずれ捨てられる」
雅子の顔が、青ざめた。
田村の言葉が、心の奥に突き刺さる。
「小野さん」
忠範が、雅子の手を取った。
「そんなことは、ありません。僕は、小野さんを——」
「愛している? 笑わせるな」
田村は、冷たく笑った。
「お前は、今は面白半分で遊んでいるだけだ。だが、いずれ上司から圧力がかかる。身分違いの女との関係を、切れと」
「そんなことは——」
「あるんだよ」
田村は、一歩近づいた。
「俺は、知っている。お前のような鉄道員は、将来を約束されている。だが、それには条件がある。相応しい相手と結婚すること。女工のような、下層の女ではなく」
忠範は、言葉に詰まった。
田村の言葉には──確かに、一理あった。
鉄道局には、暗黙のルールがある。昇進するためには、家柄や身分も考慮される。地方駅から本局へ異動するには、上司の推薦が必要で、その際には私生活も審査される。
もし、雅子との関係が知られたら──。
「伊藤さん……」
雅子が、震える声で言った。
「田村さんの言う通り……なのですか」
「いいえ、そんなことは──」
「でも……」
雅子の目から、涙が溢れた。
「私は……あなたの、足枷になるのですか」
「小野さん、違います」
「でも、田村さんは──」
「田村という男の言葉を、信じるんですか」
忠範は、真剣な目で雅子を見つめた。
「僕は、小野さんを愛しています。それは、本当です」
「伊藤さん……」
「どんなことがあっても、僕は小野さんと一緒にいたい」
田村は、鼻で笑った。
「綺麗事を言うな。お前は、いずれ現実に直面する」
「それは、僕が決めることです」
忠範は、田村を睨んだ。
「あなたに、言われる筋合いはありません」
「ほう」
田村は、不気味に笑った。
「なら、後悔するなよ」
そう言って、田村は仲間たちと共に去って行った。
二人は、その場に残された。
沈黙が、重く横たわった。
「小野さん……」
「伊藤さん……田村さんの言うこと、本当なんですか」
忠範は、躊躇した。
「……全くの嘘とは、言えません」
雅子の顔が、さらに青ざめた。
「でも」
忠範は、雅子の両手を握った。
「僕は、小野さんと一緒にいたい。それだけは、本当です」
「でも、私は……あなたの将来を、邪魔してしまう」
「そんなことは──」
「いいえ」
雅子は、首を振った。
「田村さんの言う通りです。私は、あなたと釣り合わない」
「小野さん」
「私は、ただの女工。あなたは、立派な鉄道員」
雅子の涙が、止まらなかった。
「私たちは……一緒にいてはいけないのかもしれません」
「そんなこと、ありません」
忠範は、雅子を抱きしめた。
「僕は、小野さんがいなければ、生きていけません」
「伊藤さん……」
「一緒に、いてください」
雅子は、忠範の胸で泣いた。
嬉しくて。
悲しくて。
苦しくて。
二人の恋は──既に、大きな試練に直面していた。
その日の夜。
田村新吉は、倉庫で仲間たちと最終準備をしていた。
「今夜、決行する」
「本当にいいのか」
「もう、迷っている時間はない」
田村は、工具を手に取った。
「線路の継ぎ目を、三箇所破壊する。そうすれば、明日の朝の列車は──」
「止まるのか」
「ああ。そして、伊藤忠範は責任を問われる」
田村は、不気味に笑った。
「あの男が失墜すれば、雅子も分かるだろう」
「だが、これは危険すぎる」
「心配するな。俺たちは、見つからない」
田村は、仲間たちを見回した。
「行くぞ」
男たちは、夜の闇に消えていった。
同じ頃、駅では。
忠範が、夜間巡回の準備をしていた。
今夜も、線路を見回らなければならない。
しかし、心は──雅子のことでいっぱいだった。
彼女は、今頃どうしているだろう。
まだ、泣いているだろうか。
忠範は、胸が苦しかった。
田村という男の言葉──確かに、一理ある。
自分と雅子では、身分が違う。
もし、上司に知られたら──。
だが、それでも。
忠範は、拳を握りしめた。
雅子を、守りたい。
どんなことがあっても、一緒にいたい。
その決意を、胸に。
忠範は、提灯を持って、線路へ向かった。
だが──彼は、まだ知らなかった。
今夜、大きな事件が起きようとしていることを。