君恋し
第三話 工場の影
三月も半ばを過ぎると、桜井の町にも春の兆しが濃くなってきた。
駅前の桜の木に、小さな蕾が膨らみ始めている。忠範は毎朝、その変化を眺めながら出勤するのが習慣になっていた。
だが、町の空気は、どこか落ち着かない。
工場での事故以来、女工たちの表情は一層暗くなり、町の人々も工場の動向を気にするようになった。匿名のビラは、その後も何度か出回り、工場主と労働者の対立が深まっているという噂が絶えない。
忠範は、線路の点検を続けながら、工場の様子を遠目に見ることが増えた。
あの中で、雅子は無事に働いているのだろうか。
彼は、自分がなぜそこまで気にしているのか、理由が分からなかった。ただ、毎朝彼女の姿を見かけると、どこか安心する自分がいた。
その日の朝も、忠範はホームで列車を迎えていた。
定刻通りに到着した列車から、いつものように雅子が降りてくる。藍色の着物は少し擦り切れているが、きちんと着こなしている。風呂敷包みを抱え、改札へ向かう。
忠範は、今日も声をかけようか迷った。
だが、彼女は急いでいる様子で、すぐに駅舎を出て行った。
忠範は小さく息を吐き、次の業務へ移った。
午前十時。
駅長室に、鉄道局から電話が入った。
駅長が受話器を置くと、深刻な表情で忠範を呼んだ。
「伊藤くん、悪い知らせだ」
「何でしょうか」
「本局から、監査官が明日来ることになった」
「明日、ですか」
「ああ。それも、三輪監査官だ」
忠範は、その名前を知っていた。
三輪長蔵──鉄道局でも有名な厳格な監査官だ。規則に一切の妥協を許さず、違反があれば容赦なく処分を下す。地方駅の駅長が、彼の監査で更迭された例もある。
「準備は万全か」
「はい。点検記録も整理してあります。ただ……」
「ただ?」
「第三区間の破損の件が、引っかかります」
駅長は頷いた。
「それは私も心配している。人為的な破壊行為だと報告したが、犯人が捕まっていない。監査官は、そこを厳しく追及するだろう」
「対策は?」
「警備を強化するしかない。今夜から、線路の夜間巡回を増やす。伊藤くん、君も手伝ってくれるか」
「もちろんです」
忠範は即座に答えた。
鉄道の安全を守ることが、自分の使命だ。
昼過ぎ。
忠範は、駅舎の外で昼食を取っていた。握り飯と漬物だけの質素な弁当だが、それで十分だった。
駅前の通りを眺めながら食べていると、工の方から女工たちが数人、歩いてくるのが見えた。昼休みに、町へ買い物に来たらしい。
その中に、雅子と志津の姿があった。
二人は雑貨屋の前で立ち止まり、店の中を覗いている。志津が何か言うと、雅子は首を横に振った。お金が足りないのだろう。
忠範は、立ち上がろうとして──やめた。
何をするつもりだったのか、自分でも分からない。ただ、彼女たちの様子が気になった。
雅子たちは、雑貨屋を出て、再び工場の方へ歩いて行った。
忠範は、その後ろ姿を見送った。
その日の午後、工場で。
雅子は、織機の前で黙々と作業をしていた。
糸を張り、シャトルを走らせる。単調な作業だが、一瞬でも気を抜けば、糸が絡まったり切れたりする。集中力が求められる仕事だ。
だが、今日は隣の機械がまた止まった。
監督が怒鳴り声を上げ、女工を叱責している。
「何度言ったら分かるんだ! お前たちの不注意で、どれだけ損害が出ると思っている!」
女工は泣きながら謝っているが、監督は聞き入れない。
雅子は、拳を握りしめた。
機械が古いのが原因だ。それを、女工のせいにする。
だが、声を上げれば、自分も罰せられる。
雅子は、ただ黙って作業を続けた。
夕方、作業が終わると、雅子は志津と共に寮へ向かった。
志津は、今日一日泣きそうな顔をしていた。
「雅子さん……私、もう無理かもしれません」
「何を言ってるの。まだ三か月じゃない」
「でも……毎日怒られて、罰金を取られて……故郷の家族に、お金を送れないんです」
志津の目から、涙が溢れた。
雅子は、志津の肩を抱いた。
「大丈夫。私が、あなたを守るから」
「雅子さん……」
「ここで倒れたら、家族が悲しむわ。だから、一緒に頑張りましょう」
雅子はそう言ったが、自分の心も限界に近づいていることを感じていた。
いつまで、この生活が続くのだろう。
いつか、自分も壊れてしまうのではないか。
その夜。
寮の一室で、雅子は手紙を書いていた。
母への手紙。いつものように、元気だと嘘を書く。工場は良いところで、皆優しいと。
だが、ペンを持つ手が震えた。
涙が、便箋に落ちる。
「……ごめんなさい」
雅子は、小さく呟いた。
嘘をついて、ごめんなさい。
だが、本当のことを言えば、母は心配する。弟と妹も、学校を辞めなければならなくなる。
だから、自分が耐えるしかない。
雅子は涙を拭い、手紙を書き続けた。
と、その時。
寮の外で、物音がした。
雅子は顔を上げた。
窓の外を見ると、誰かの影が動いている。
男の影だ。
雅子は息を呑んだ。
寮の周りには、夜になると守衛が巡回しているはずだが──。
影は、窓の下に何かを置いて、去って行った。
雅子は立ち上がり、そっと外へ出た。
寮の入り口に、紙の束が置かれていた。
拾い上げると、それは──ビラだった。
「工場主は、我々の要求を無視し続けている。これ以上、沈黙していれば、我々は行動に移る。鉄道を止め、流通を断つ。工場を追い詰める──」
雅子は、ビラを読んで震えた。
誰が、こんなことを。
そして、鉄道を止めるとは、どういうことなのか。
雅子は、駅の方を見た。
遠くに、駅舎の灯が見える。
あの駅員——忠範が、働いている場所。
「……まさか」
雅子の胸に、不安が広がった。
同じ頃、駅では。
忠範と数人の駅員が、夜間巡回の準備をしていた。
提灯と工具を持ち、線路沿いを見回る。第三区間だけでなく、すべての区間を確認する必要がある。
「伊藤くん、気をつけてな」
駅長が声をかけた。
「はい。何かあれば、すぐに連絡します」
忠範は帽子を被り直し、線路へ向かった。
夜の線路は、静かだ。
月明かりに照らされた枕木が、どこまでも続いている。忠範は提灯を掲げ、一本一本確認しながら歩いた。
犬釘の状態、継ぎ目の隙間、枕木のひび。
すべてに異常はない。
だが、忠範の胸には、妙な緊張感があった。
何かが、起きようとしている。
その予感が、消えない。
しばらく歩いた時、遠くに人影が見えた。
忠範は足を止め、提灯を高く掲げた。
「誰だ!」
人影が動いた。
逃げようとしている。
忠範は走り出した。
「待て!」
だが、人影は素早く、茂みの中へ消えていった。
忠範は茂みの前で立ち止まった。追いかけるには、視界が悪すぎる。
だが、その場所に──何かが落ちていた。
忠範はそれを拾い上げた。
小さな布切れ。藍色の、手拭いの端だった。
忠範は、それを見つめた。
この色──。
彼の脳裏に、雅子の姿が浮かんだ。
彼女が、いつも頭に巻いている手拭い。
「……まさか」
忠範は首を振った。
そんなはずはない。
だが、布切れは確かに手の中にある。
忠範は、それを懐にしまい、駅へ戻った。
翌朝。
三輪監査官が、桜井駅に到着した。
四十代半ばの、細身で鋭い目つきの男だ。紺のスーツに中折れ帽を被り、鞄を片手に駅長室へ入ってきた。
「三輪です。よろしく」
挨拶もそこそこに、監査官は記録の確認を始めた。
点検記録、運行記録、安全管理体制。すべてを細かく見ていく。
忠範も同席し、質問に答えた。
「第三区間の破損について、説明してください」
「はい。三月十二日、夕方の点検で継ぎ目の犬釘が抜かれているのを発見しました。人為的なものと判断し、警察に通報しました」
「犯人は?」
「まだ捕まっていません」
「対策は?」
「夜間巡回を強化しています」
三輪監査官は、眉をひそめた。
「それだけか」
「……はい」
「不十分だ。線路の警備体制を見直す必要がある。このままでは、また事故が起きる」
駅長が口を開いた。
「人員が不足していまして……」
「それは、本局に要請しなさい。安全を守るのが、鉄道の第一義務だ」
三輪監査官は、記録を閉じた。
「今日一日、構内を見回る。不備があれば、報告書に記載する」
そう言って、監査官は立ち上がった。
忠範と駅長は、顔を見合わせた。
厳しい一日になりそうだった。
昼過ぎ。
監査官が構内を見回っている間、忠範はホームで通常業務を続けていた。
列車が到着し、乗客が降りてくる。
そして──雅子の姿が見えた。
いつものように、藍色の着物。風呂敷包みを抱え、改札へ向かう。
だが、今日の雅子は、どこか様子がおかしかった。
顔色が悪く、足取りもふらついている。
忠範は、思わず駆け寄った。
「お客さま、大丈夫ですか」
雅子は振り返り、驚いたように忠範を見た。
「……ええ、大丈夫です」
「顔色が悪いようですが」
「少し、疲れているだけです」
雅子はそう言って、歩き出そうとした。
だが──その足が、もつれた。
「危ない!」
忠範は、咄嗟に雅子の腕を掴んだ。
雅子は、忠範の胸に倒れ込んだ。
「……すみません」
彼女の声は、か細かった。
忠範は、雅子を支えながら、近くのベンチへ導いた。
「少し、休んでください」
「……ありがとうございます」
雅子は、ベンチに座り、息を整えた。
忠範は、彼女の様子を心配そうに見つめた。
「無理をしているのでは?」
「……仕事ですから」
「でも、体を壊しては」
「大丈夫です。慣れますから」
雅子は、そう言って微笑んだ。
だが、その笑顔は、どこか悲しかった。
忠範は、何か言いたかった。
だが、言葉が見つからなかった。
ただ、彼女の疲れた姿が、胸に痛かった。
しばらくして、雅子は立ち上がった。
「もう、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「本当に?」
「ええ。では、失礼します」
雅子は、改札へ向かった。
忠範は、その後ろ姿を見送った。
そして──懐の中の、藍色の布切れに触れた。
これは、彼女のものなのだろうか。
それとも、ただの偶然なのか。
忠範は、確かめたかった。
だが、どう聞けばいいのか、分からなかった。
その夜。
工場の寮で、雅子は布団に横たわっていた。
体が重く、熱っぽい。風邪を引いたかもしれない。
だが、明日も仕事に行かなければならない。休めば、罰金を取られる。
雅子は、目を閉じた。
今日、駅で倒れそうになった時──あの駅員が、支えてくれた。
温かい手だった。
優しい声だった。
雅子の胸に、わずかな温もりが残っている。
「……ありがとう」
彼女は、小さく呟いた。
そして、眠りに落ちた。
同じ頃、工場の片隅で。
田村新吉が、数人の男工と密談していた。
「次は、もっと大きく動く」
「どうするんだ」
「線路をもう一度狙う。今度は、確実に列車を止める」
「だが、それは危険すぎる」
「心配するな。怪我人は出さない。ただ、工場主を焦らせるだけだ」
田村は、不敵に笑った。
「それと——小野雅子を、こちらに引き込む」
「雅子を?」
「あいつは、女工たちに人望がある。あいつが動けば、他の女工も動く」
「だが、あいつは関わりたがらないだろう」
「なら、関わらざるを得ないようにする」
田村の目に、狂気の光が宿った。
男工たちは、黙って頷いた。
嵐が、近づいていた。
駅前の桜の木に、小さな蕾が膨らみ始めている。忠範は毎朝、その変化を眺めながら出勤するのが習慣になっていた。
だが、町の空気は、どこか落ち着かない。
工場での事故以来、女工たちの表情は一層暗くなり、町の人々も工場の動向を気にするようになった。匿名のビラは、その後も何度か出回り、工場主と労働者の対立が深まっているという噂が絶えない。
忠範は、線路の点検を続けながら、工場の様子を遠目に見ることが増えた。
あの中で、雅子は無事に働いているのだろうか。
彼は、自分がなぜそこまで気にしているのか、理由が分からなかった。ただ、毎朝彼女の姿を見かけると、どこか安心する自分がいた。
その日の朝も、忠範はホームで列車を迎えていた。
定刻通りに到着した列車から、いつものように雅子が降りてくる。藍色の着物は少し擦り切れているが、きちんと着こなしている。風呂敷包みを抱え、改札へ向かう。
忠範は、今日も声をかけようか迷った。
だが、彼女は急いでいる様子で、すぐに駅舎を出て行った。
忠範は小さく息を吐き、次の業務へ移った。
午前十時。
駅長室に、鉄道局から電話が入った。
駅長が受話器を置くと、深刻な表情で忠範を呼んだ。
「伊藤くん、悪い知らせだ」
「何でしょうか」
「本局から、監査官が明日来ることになった」
「明日、ですか」
「ああ。それも、三輪監査官だ」
忠範は、その名前を知っていた。
三輪長蔵──鉄道局でも有名な厳格な監査官だ。規則に一切の妥協を許さず、違反があれば容赦なく処分を下す。地方駅の駅長が、彼の監査で更迭された例もある。
「準備は万全か」
「はい。点検記録も整理してあります。ただ……」
「ただ?」
「第三区間の破損の件が、引っかかります」
駅長は頷いた。
「それは私も心配している。人為的な破壊行為だと報告したが、犯人が捕まっていない。監査官は、そこを厳しく追及するだろう」
「対策は?」
「警備を強化するしかない。今夜から、線路の夜間巡回を増やす。伊藤くん、君も手伝ってくれるか」
「もちろんです」
忠範は即座に答えた。
鉄道の安全を守ることが、自分の使命だ。
昼過ぎ。
忠範は、駅舎の外で昼食を取っていた。握り飯と漬物だけの質素な弁当だが、それで十分だった。
駅前の通りを眺めながら食べていると、工の方から女工たちが数人、歩いてくるのが見えた。昼休みに、町へ買い物に来たらしい。
その中に、雅子と志津の姿があった。
二人は雑貨屋の前で立ち止まり、店の中を覗いている。志津が何か言うと、雅子は首を横に振った。お金が足りないのだろう。
忠範は、立ち上がろうとして──やめた。
何をするつもりだったのか、自分でも分からない。ただ、彼女たちの様子が気になった。
雅子たちは、雑貨屋を出て、再び工場の方へ歩いて行った。
忠範は、その後ろ姿を見送った。
その日の午後、工場で。
雅子は、織機の前で黙々と作業をしていた。
糸を張り、シャトルを走らせる。単調な作業だが、一瞬でも気を抜けば、糸が絡まったり切れたりする。集中力が求められる仕事だ。
だが、今日は隣の機械がまた止まった。
監督が怒鳴り声を上げ、女工を叱責している。
「何度言ったら分かるんだ! お前たちの不注意で、どれだけ損害が出ると思っている!」
女工は泣きながら謝っているが、監督は聞き入れない。
雅子は、拳を握りしめた。
機械が古いのが原因だ。それを、女工のせいにする。
だが、声を上げれば、自分も罰せられる。
雅子は、ただ黙って作業を続けた。
夕方、作業が終わると、雅子は志津と共に寮へ向かった。
志津は、今日一日泣きそうな顔をしていた。
「雅子さん……私、もう無理かもしれません」
「何を言ってるの。まだ三か月じゃない」
「でも……毎日怒られて、罰金を取られて……故郷の家族に、お金を送れないんです」
志津の目から、涙が溢れた。
雅子は、志津の肩を抱いた。
「大丈夫。私が、あなたを守るから」
「雅子さん……」
「ここで倒れたら、家族が悲しむわ。だから、一緒に頑張りましょう」
雅子はそう言ったが、自分の心も限界に近づいていることを感じていた。
いつまで、この生活が続くのだろう。
いつか、自分も壊れてしまうのではないか。
その夜。
寮の一室で、雅子は手紙を書いていた。
母への手紙。いつものように、元気だと嘘を書く。工場は良いところで、皆優しいと。
だが、ペンを持つ手が震えた。
涙が、便箋に落ちる。
「……ごめんなさい」
雅子は、小さく呟いた。
嘘をついて、ごめんなさい。
だが、本当のことを言えば、母は心配する。弟と妹も、学校を辞めなければならなくなる。
だから、自分が耐えるしかない。
雅子は涙を拭い、手紙を書き続けた。
と、その時。
寮の外で、物音がした。
雅子は顔を上げた。
窓の外を見ると、誰かの影が動いている。
男の影だ。
雅子は息を呑んだ。
寮の周りには、夜になると守衛が巡回しているはずだが──。
影は、窓の下に何かを置いて、去って行った。
雅子は立ち上がり、そっと外へ出た。
寮の入り口に、紙の束が置かれていた。
拾い上げると、それは──ビラだった。
「工場主は、我々の要求を無視し続けている。これ以上、沈黙していれば、我々は行動に移る。鉄道を止め、流通を断つ。工場を追い詰める──」
雅子は、ビラを読んで震えた。
誰が、こんなことを。
そして、鉄道を止めるとは、どういうことなのか。
雅子は、駅の方を見た。
遠くに、駅舎の灯が見える。
あの駅員——忠範が、働いている場所。
「……まさか」
雅子の胸に、不安が広がった。
同じ頃、駅では。
忠範と数人の駅員が、夜間巡回の準備をしていた。
提灯と工具を持ち、線路沿いを見回る。第三区間だけでなく、すべての区間を確認する必要がある。
「伊藤くん、気をつけてな」
駅長が声をかけた。
「はい。何かあれば、すぐに連絡します」
忠範は帽子を被り直し、線路へ向かった。
夜の線路は、静かだ。
月明かりに照らされた枕木が、どこまでも続いている。忠範は提灯を掲げ、一本一本確認しながら歩いた。
犬釘の状態、継ぎ目の隙間、枕木のひび。
すべてに異常はない。
だが、忠範の胸には、妙な緊張感があった。
何かが、起きようとしている。
その予感が、消えない。
しばらく歩いた時、遠くに人影が見えた。
忠範は足を止め、提灯を高く掲げた。
「誰だ!」
人影が動いた。
逃げようとしている。
忠範は走り出した。
「待て!」
だが、人影は素早く、茂みの中へ消えていった。
忠範は茂みの前で立ち止まった。追いかけるには、視界が悪すぎる。
だが、その場所に──何かが落ちていた。
忠範はそれを拾い上げた。
小さな布切れ。藍色の、手拭いの端だった。
忠範は、それを見つめた。
この色──。
彼の脳裏に、雅子の姿が浮かんだ。
彼女が、いつも頭に巻いている手拭い。
「……まさか」
忠範は首を振った。
そんなはずはない。
だが、布切れは確かに手の中にある。
忠範は、それを懐にしまい、駅へ戻った。
翌朝。
三輪監査官が、桜井駅に到着した。
四十代半ばの、細身で鋭い目つきの男だ。紺のスーツに中折れ帽を被り、鞄を片手に駅長室へ入ってきた。
「三輪です。よろしく」
挨拶もそこそこに、監査官は記録の確認を始めた。
点検記録、運行記録、安全管理体制。すべてを細かく見ていく。
忠範も同席し、質問に答えた。
「第三区間の破損について、説明してください」
「はい。三月十二日、夕方の点検で継ぎ目の犬釘が抜かれているのを発見しました。人為的なものと判断し、警察に通報しました」
「犯人は?」
「まだ捕まっていません」
「対策は?」
「夜間巡回を強化しています」
三輪監査官は、眉をひそめた。
「それだけか」
「……はい」
「不十分だ。線路の警備体制を見直す必要がある。このままでは、また事故が起きる」
駅長が口を開いた。
「人員が不足していまして……」
「それは、本局に要請しなさい。安全を守るのが、鉄道の第一義務だ」
三輪監査官は、記録を閉じた。
「今日一日、構内を見回る。不備があれば、報告書に記載する」
そう言って、監査官は立ち上がった。
忠範と駅長は、顔を見合わせた。
厳しい一日になりそうだった。
昼過ぎ。
監査官が構内を見回っている間、忠範はホームで通常業務を続けていた。
列車が到着し、乗客が降りてくる。
そして──雅子の姿が見えた。
いつものように、藍色の着物。風呂敷包みを抱え、改札へ向かう。
だが、今日の雅子は、どこか様子がおかしかった。
顔色が悪く、足取りもふらついている。
忠範は、思わず駆け寄った。
「お客さま、大丈夫ですか」
雅子は振り返り、驚いたように忠範を見た。
「……ええ、大丈夫です」
「顔色が悪いようですが」
「少し、疲れているだけです」
雅子はそう言って、歩き出そうとした。
だが──その足が、もつれた。
「危ない!」
忠範は、咄嗟に雅子の腕を掴んだ。
雅子は、忠範の胸に倒れ込んだ。
「……すみません」
彼女の声は、か細かった。
忠範は、雅子を支えながら、近くのベンチへ導いた。
「少し、休んでください」
「……ありがとうございます」
雅子は、ベンチに座り、息を整えた。
忠範は、彼女の様子を心配そうに見つめた。
「無理をしているのでは?」
「……仕事ですから」
「でも、体を壊しては」
「大丈夫です。慣れますから」
雅子は、そう言って微笑んだ。
だが、その笑顔は、どこか悲しかった。
忠範は、何か言いたかった。
だが、言葉が見つからなかった。
ただ、彼女の疲れた姿が、胸に痛かった。
しばらくして、雅子は立ち上がった。
「もう、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「本当に?」
「ええ。では、失礼します」
雅子は、改札へ向かった。
忠範は、その後ろ姿を見送った。
そして──懐の中の、藍色の布切れに触れた。
これは、彼女のものなのだろうか。
それとも、ただの偶然なのか。
忠範は、確かめたかった。
だが、どう聞けばいいのか、分からなかった。
その夜。
工場の寮で、雅子は布団に横たわっていた。
体が重く、熱っぽい。風邪を引いたかもしれない。
だが、明日も仕事に行かなければならない。休めば、罰金を取られる。
雅子は、目を閉じた。
今日、駅で倒れそうになった時──あの駅員が、支えてくれた。
温かい手だった。
優しい声だった。
雅子の胸に、わずかな温もりが残っている。
「……ありがとう」
彼女は、小さく呟いた。
そして、眠りに落ちた。
同じ頃、工場の片隅で。
田村新吉が、数人の男工と密談していた。
「次は、もっと大きく動く」
「どうするんだ」
「線路をもう一度狙う。今度は、確実に列車を止める」
「だが、それは危険すぎる」
「心配するな。怪我人は出さない。ただ、工場主を焦らせるだけだ」
田村は、不敵に笑った。
「それと——小野雅子を、こちらに引き込む」
「雅子を?」
「あいつは、女工たちに人望がある。あいつが動けば、他の女工も動く」
「だが、あいつは関わりたがらないだろう」
「なら、関わらざるを得ないようにする」
田村の目に、狂気の光が宿った。
男工たちは、黙って頷いた。
嵐が、近づいていた。