君恋し

第四話 恋の緖(いとぐち)

 三月の終わり。

 桜井の町は、ようやく春らしい暖かさに包まれ始めていた。駅前の桜の蕾も、日に日に膨らみを増している。あと一週間もすれば、花が開くだろう。





 三輪監査官の監査は無事に終わり、いくつかの改善指示はあったものの、大きな問題は指摘されなかった。駅長も忠範も、ひとまず安堵した。

 だが、忠範の心には、別の不安があった。

 あの夜、線路で拾った藍色の布切れ。それが雅子のものなのかどうか、確かめる術がない。そして、彼女の疲れ切った様子も、気にかかり続けていた。

 忠範は、毎朝雅子が列車から降りてくるのを待つようになっていた。

 それが、いつの間にか習慣になっていた。





 ある朝。

 いつものように、雅子が列車から降りてきた。

 今日は、顔色が少し良くなっているようだった。藍色の着物に、赤い手拭いを巻いている。風呂敷包みを抱え、改札へ向かう。

 忠範は、思い切って声をかけた。

「おはようございます」

 雅子は足を止め、振り返った。

 目が合う。

「……おはようございます」

 彼女は、少し戸惑ったような表情で答えた。

「その後、お体の調子は?」

「ええ、おかげさまで。ご心配をおかけしました」

「無理はなさらないでください」

「……ありがとうございます」

 雅子は、小さく微笑んだ。

 その笑顔が、忠範の胸に温かく染み込んだ。

 二人の間に、短い沈黙が流れる。

 忠範は、何か言いたかった。だが、言葉が見つからない。

「では、失礼します」

 雅子は、改札へ向かった。

 忠範は、その後ろ姿を見送った。

 そして──自分の胸の高鳴りに気づいた。

 これは、何なのだろう。

 その日の午後。

 忠範は、駅長室で事務作業をしていた。

 列車の運行記録を整理していると、助役が部屋に入ってきた。

「伊藤くん、ちょっといいか」

「はい、何でしょう」

「お前、最近様子がおかしいぞ」

「え?」

「ぼんやりしていることが多い。何か悩みでもあるのか」

 忠範は、慌てて首を振った。

「いえ、そんなことは」

「そうか?まあ、若い男なら、一つや二つ悩みもあるだろうがな」

 助役は笑って、部屋を出て行った。

 忠範は、一人残されて、ため息をついた。

 確かに、最近集中できていない。

 頭の中に、いつも雅子の姿が浮かぶ。

 彼女は、どんな生活をしているのだろう。工場で、どんな思いで働いているのだろう。

 それから──自分は、なぜこんなにも彼女のことが気になるのだろう。

 忠範は、顔を両手で覆った。

「……参ったな」

 自分の気持ちに、気づき始めていた。





 その日の夕方。

 雅子は、工場の作業を終えて寮へ戻る途中だった。

 志津と並んで、町の通りを歩いている。

「雅子さん、最近顔色が良くなりましたね」

 志津が、嬉しそうに言った。

「そう?気のせいじゃない?」

「いいえ、本当です。何か良いことでもあったんですか」

「別に……」

 雅子は、視線を逸らした。

 しかしながら、胸の中に、わずかな温もりがあることを自覚していた。

 あの駅員──忠範。

 毎朝、声をかけてくれる。優しい声で、気遣ってくれる。

 それが、どこか嬉しかった。

 自分のような女工を、気にかけてくれる人がいる。

 それだけで、少し救われる気がした。

「雅子さん?」

 志津の声に、雅子は我に返った。

「何?」

「やっぱり、何かありましたね。顔が赤いですよ」

「そんなことないわ」

 雅子は、慌てて頬に手を当てた。

 志津は、くすくすと笑った。

「恋、ですか?」

「違うわよ」

「本当ですか?」

「……本当よ」

 雅子はそう言ったが、自分の声が上ずっているのが分かった。

 志津は、それ以上追及しなかった。ただ、優しく微笑んでいた。

 二人は、寮の前で別れた。

 雅子は、自分の部屋へ戻り、窓を開けた。

 夕暮れの空が、茜色に染まっている。遠くに、駅舎の屋根が見えた。

 あの駅で、忠範が働いている。

 雅子は、胸に手を当てた。

 心臓が、いつもより速く打っている。

「……何を考えているの、私は」

 雅子は、自分に言い聞かせた。

 彼と自分は、住む世界が違う。

 彼は、安定した鉄道員。自分は、ただの女工。

 交わることなど、あり得ない。

 それに──。

 雅子の脳裏に、あの夜のことが浮かんだ。

 寮に置かれていたビラ。鉄道を止める、という文言。

 それから、自分が線路の近くにいたあの夜のこと。

 雅子は、何も悪いことをしていない。ただ、散歩をしていただけだ。

 だが、もしも──。

 もしも、自分が疑われたら。

 忠範は、どう思うだろう。

 雅子は、窓を閉めた。

 考えても、仕方がない。

 ただ、今は、毎日を生きるだけだ。

 数日後。

 町の桜が、ついに咲き始めた。

 駅前の桜の木も、薄紅色の花を開かせている。春の風が吹くたび、花びらが舞い落ちる。





 忠範は、朝の点検を終えて、桜の下に立っていた。

 美しい光景だった。

 だが、心の中には、まだもやもやとしたものがあった。

 雅子に、もっと話しかけたい。

 だが、何を話せばいいのか分からない。

 それに──自分のような者が、彼女に近づいても良いのだろうか。

「伊藤さん」

 声がして、忠範は振り返った。

 助役が、笑顔で立っていた。

「桜、綺麗ですね」

「ええ」

「お前も、たまには休んで、花見でもしたらどうだ」

「休みですか……」

「ああ。若いんだから、もっと楽しまないと」

 助役は、そう言って去って行った。

 忠範は、再び桜を見上げた。

 花見。

 雅子も、桜を見たいだろうか。

 そんなことを、考えている自分がいた。





 その日の午後。

 雅子は、工場の窓から外を見ていた。

 遠くに、桜の木が見える。花が咲いている。

 美しい光景だった。

 だが、自分には関係のない世界だと思った。

 女工には、花見をする時間も余裕もない。

「小野!」

 監督の怒鳴り声が響いた。

「何をぼんやりしている!手を動かせ!」

「はい、すみません」

 雅子は、慌てて織機に向き直った。

 シャトルを走らせ、糸を張る。

 だが、心の片隅には、桜の花が残っていた。

 それから──忠範の顔も。





 その夜。

 忠範は、寮の部屋で一人、考え込んでいた。

 机の上には、本局からの通達が置かれている。地方路線の安全管理強化について。

 だが、忠範の頭には、それが入ってこない。

 雅子のことばかり考えている。

 彼は、立ち上がり、窓を開けた。

 夜風が、心地よい。

 遠くに、工場の灯が見える。

 その中に、雅子がいる。

 今、何をしているのだろう。

 疲れているのではないか。

 また、無理をしているのではないか。

 忠範は、胸が締めつけられるような気持ちになった。

 そして──決心した。

「……話しかけよう」

 明日、もっとちゃんと話しかけよう。

 ただの挨拶ではなく、ちゃんと会話をしよう。

 忠範は、そう心に決めた。

 翌朝。

 忠範は、いつもより早く駅に出た。

 列車の到着時刻まで、まだ三十分ある。

 彼は、ホームの端で待っていた。

 心臓が、速く打っている。

 やがて、列車が到着した。

 扉が開き、乗客が降りてくる。

 そして──雅子の姿が見えた。

 今日も、藍色の着物。赤い手拭いを巻いている。

 雅子は、改札へ向かおうとした。

 忠範は、勇気を出して声をかけた。

「あの、お客さま」

 雅子は足を止め、振り返った。

「……はい?」

「少し、お時間よろしいでしょうか」

 雅子は、驚いたような表情を見せた。

「……何か?」

「あの、その……」

 忠範は、言葉に詰まった。

 何を言おうとしていたのか、急に分からなくなった。

 雅子は、困ったような顔で忠範を見ている。

「あの……急いでいるのですが」

「あ、すみません。その……桜が、綺麗ですね」

 忠範は、咄嗟にそう言った。

 雅子は、一瞬きょとんとした顔をした。

 そして──小さく微笑んだ。

「……ええ。本当に」

「あの、もし良ければ……いえ、その……」

 忠範は、また言葉に詰まった。

 雅子は、首を傾げた。

「……?」

「あの……お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」

 忠範は、思い切って言った。

 雅子は、少し戸惑ったような表情を見せた。

 だが──答えてくれた。

「……小野、雅子と申します」

「小野、雅子さん」

 忠範は、その名前を繰り返した。

 美しい名前だと思った。

「私は、伊藤忠範と申します。この駅で、働いております」

「……存じております」

 雅子は、頬を少し赤らめた。

 二人の間に、短い沈黙が流れた。

 だが、それは、気まずいものではなかった。

 むしろ──温かいものだった。

「あの……」

 忠範が口を開こうとした時、工場の方から汽笛が鳴った。

 始業の合図だ。

「すみません、行かなければ」

 雅子は、慌てて頭を下げた。

「あ、はい。お気をつけて」

 雅子は、改札へ向かった。

 しかし──数歩進んで、振り返った。

「伊藤さん」

「はい」

「……いつも、ありがとうございます」

 雅子は、そう言って微笑んだ。

 そして、走って駅を出て行った。

 忠範は、その後ろ姿を見送った。

 胸の中で、何かが弾けた。

 温かく、明るく、眩しいもの。

 それが、恋だと──。

 忠範は、ようやく理解した。





 その日、忠範は一日中、胸が高鳴っていた。

 業務をこなしながらも、頭の中には雅子の笑顔が浮かんでいた。

「小野、雅子さん」

 何度も、心の中でその名前を呼んだ。

 美しい名前だった。

 それから──彼女の、あの微笑み。

 忠範は、もっと彼女と話したいと思った。

 もっと、彼女のことを知りたいと思った。





 一方、雅子も。

 工場で働きながら、忠範のことを考えていた。

 伊藤忠範——真面目で、優しい人。

 毎朝、気遣ってくれる。

 そして、今日——名前を聞いてくれた。

 雅子の胸に、温かいものが広がっていた。

 それが何なのか、分からなかった。

 いや──分かっていた。

 だが、認めるのが怖かった。

 彼と自分は、違う世界の人間だ。

 交わってはいけない。

 それでも──。

 雅子は、織機の前で、小さく微笑んだ。

 今日、少しだけ幸せだった。





 その夜。

 田村新吉は、工場の倉庫で、数人の男工と密談していた。

「小野雅子が、駅員と親しくしているらしい」

 一人の男工が、報告した。

 田村の目が、鋭く光った。

「……何?」

「朝、駅で話していたのを見た奴がいる」

「ふざけるな」

 田村は、拳で壁を叩いた。

「あいつは、俺のものだ」

「落ち着けよ、田村」

「落ち着いていられるか! あの駅員が、邪魔をするなら──」

 田村は、不気味に笑った。

「始末する」

 男工たちは、息を呑んだ。

「田村、それは──」

「心配するな。直接手は下さない。ただ──あいつが、どんな奴か、雅子に教えてやる」

 田村の目に、狂気が宿っていた。

 彼の執着は、もはや常軌を逸していた。





 そして──それが、やがて大きな悲劇を生むことになる。

 だが、この時、誰もそれに気づいていなかった。

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