君恋し

第五話 夜汽車の告白

 四月に入ると、桜井の町は満開の桜に包まれた。
 駅前の桜並木は見事で、風が吹くたびに花びらが舞い散る。町の人々も、束の間の春を楽しんでいた。
 忠範と雅子の朝の会話は、少しずつ増えていった。
 最初は挨拶だけだったが、やがて天気のこと、桜のこと、些細な日常のことを話すようになった。
 短い時間だったが、二人にとっては大切な時間だった。


 ある朝。
 雅子が列車から降りてくると、忠範はいつものようにホームで待っていた。
「おはようございます、小野さん」
「おはようございます、伊藤さん」
 二人は、自然に微笑み合った。
「今日は、良い天気ですね」
「ええ。桜も、そろそろ散り始めますね」
「そうですね……少し寂しい」
 忠範は、そう言って桜の木を見上げた。
 雅子も、同じ方向を見た。
 風が吹き、花びらが二人の間を舞った。
「……綺麗」
 雅子が、小さく呟いた。
 忠範は、彼女の横顔を見た。
 風に髪がなびき、花びらが頬に触れる。
 その姿が──美しかった。
「小野さん」
「はい?」
「あの……今度、もし良ければ……」
 忠範は、意を決して言おうとした。
 だが、その時──工場の汽笛が鳴った。
「あ、すみません。行かなければ」
 雅子は、慌てて改札へ向かった。
 忠範は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
 今日も、言えなかった。
 その日の午後。
 忠範は、駅長室で悩んでいた。
 机の上には、業務報告書が広げられているが、一向に進まない。頭の中は、雅子のことでいっぱいだった。
「もっと、ちゃんと話がしたい」
 忠範は、小さく呟いた。
 朝のわずかな時間では、足りない。
 彼女のことを、もっと知りたい。
 そして──自分の気持ちを、伝えたい。
 だが、どうすれば。
 忠範は、時刻表を見た。
 最終の下り列車は、夜の八時。その列車に、雅子が乗るかもしれない。
 だが──。
 忠範は、迷った。
 業務時間外に、個人的な理由で彼女を待つのは、適切だろうか。
 いや、でも──。
 忠範は、決心した。
「……やってみよう」


 その日の夕方。
 雅子は、工場で遅くまで残業をしていた。
 大口の注文が入り、女工たちは総出で作業に追われていた。織機の音が、夜になっても止まらない。
「小野、お前はもういい。帰れ」
 監督が、疲れた顔で言った。
「でも、まだ──」
「いいから帰れ。明日も早いんだろう」
 雅子は、頭を下げて作業場を出た。
 外は、もう暗くなっていた。
 時計を見ると、午後七時半。最終列車には、ギリギリ間に合う。
 雅子は、急いで駅へ向かった。
 駅に着くと、忠範の姿が見えた。
 彼は、ホームの端に立って、こちらを見ている。
 雅子は、驚いた。
 こんな時間に、なぜ。
「伊藤さん?」
「小野さん……」
 忠範は、少し緊張した様子で近づいてきた。
「お疲れさまです。遅くまで、お仕事だったんですね」
「ええ。でも、伊藤さんも……」
「僕は、少し残っていただけです」
 忠範は、そう言ったが、本当は雅子を待っていたのだと、雅子には分かった。
 胸が、温かくなった。
「あの……小野さん」
「はい」
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか。列車が来るまで、まだ時間があります」
 雅子は、頷いた。
「……はい」
 二人は、ホームのベンチに座った。
 夜の駅は、静かだった。遠くで虫の声が聞こえる。
 忠範は、何から話せばいいか迷った。
「あの……工場の仕事は、大変ですか」
「ええ。でも、慣れました」
「無理は、していませんか」
「……少しは」
 雅子は、微笑んだ。
「でも、仕方ないんです。家族のために、働かなければ」
「ご家族は?」
「母と、弟と妹がいます。父は、もう……」
 雅子の声が、少し震えた。
「すみません、辛いことを」
「いえ、大丈夫です。もう、何年も前のことですから」
 雅子は、夜空を見上げた。
「父が亡くなってから、私が家族を支えなければならなくなって。それで、ここへ来ました」
「……そうだったんですか」
 忠範は、胸が痛んだ。
 彼女は、自分の人生を犠牲にして、家族のために働いている。
「小野さんは、強い方なんですね」
「強い?いいえ、ただ……他に選択肢がないだけです」
 雅子は、首を横に振った。
「でも、時々思うんです。私の人生は、これでいいのかって」
「……」
「毎日、同じことの繰り返し。朝起きて、工場へ行って、夜遅くまで働いて。それだけの人生で、いいのかって」
 雅子の目に、涙が滲んだ。
「すみません。こんな愚痴を」
「いえ……」
 忠範は、言葉を探した。
 何と言えば、彼女を慰められるのだろう。
「小野さん」
「はい」
「僕は……小野さんに、会えて良かったと思っています」
 雅子は、驚いて忠範を見た。
「毎朝、小野さんの姿を見ると……僕も、頑張ろうと思えるんです」
「伊藤さん……」
「小野さんは、強くて、優しくて……素敵な方です」
 忠範は、雅子の目を見つめた。
「だから、もっと……もっとお話ししたいと思っていました」
 雅子の頬が、赤く染まった。
 心臓が、激しく打っている。
「伊藤さん……」
「小野さん、僕は──」
 その時、遠くから汽笛が聞こえた。
 最終列車が、近づいている。
 忠範は、言葉を続けた。
「僕は、小野さんのことが……好きです」
 雅子は、息を呑んだ。
「突然、こんなことを言って、驚かせてしまって申し訳ありません。でも、伝えずにはいられなかった」
「伊藤さん……」
「返事は、急ぎません。ただ、僕の気持ちを、知っていてほしかったんです」
 列車が、ホームに滑り込んできた。
 蒸気が、白く立ち上る。
 扉が開く。
 雅子は、立ち上がった。
「伊藤さん」
「はい」
「私……」
 雅子の目から、涙が一筋流れた。
「私も、伊藤さんに会えて……嬉しかったです」
 そう言って、雅子は列車に乗り込んだ。
 扉が閉まり、列車が動き出す。
 窓から、雅子が手を振っている。
 忠範も、手を振り返した。
 列車は、夜の闇に消えていった。
 忠範は、その場に立ち尽くした。
 胸が、熱かった。
「……良かった」
 彼は、小さく呟いた。
 伝えられた。自分の気持ちを。
 そして──彼女も、嬉しいと言ってくれた。
 忠範の心に、希望の光が灯った。
 列車の中。
 雅子は、窓に額を押し当てていた。
 涙が、止まらなかった。
 嬉しくて、悲しくて、苦しくて。
「伊藤さん……」
 彼の告白が、胸に響いている。
 自分も、彼のことが好きだ。
 毎朝会うのが、楽しみだった。
 彼の声を聞くと、一日頑張れた。
 でも──。
 雅子は、拳を握りしめた。
 自分のような女工が、彼のような立派な人と、一緒にいていいのだろうか。
 彼の将来を、邪魔することになるのではないか。
 そして──。
 雅子の脳裏に、工場で見た光景が浮かんだ。
 田村新吉が、自分を見つめる目。
 あの、執着に満ちた目。
 最近、田村の視線が、以前より鋭くなっている。
 何かを企んでいるような──。
 雅子は、不安に駆られた。
 でも、今は──。
 彼の告白を、心の中にしまっておこう。
 大切に、大切に。


 翌朝。
 忠範は、いつもより早く駅に出た。
 胸が高鳴っている。
 今日、雅子に会ったら、何を話そう。
 昨夜の続きを、話せるだろうか。
 列車が到着し、乗客が降りてくる。
 だが──雅子の姿が見えない。
 忠範は、焦った。
 いつもなら、この列車に乗ってくるのに。
 体調が悪いのだろうか。
 それとも──。
 忠範の胸に、不安が広がった。


 その日、雅子は工場にいた。
 だが、いつもより早い列車で来ていた。
 忠範に会うのが──怖かったのだ。
 自分の気持ちに、正直になれなかった。
 雅子は、織機の前で、涙を堪えた。
「ごめんなさい、伊藤さん」
 小さく呟いた。
「私には、あなたと一緒にいる資格がないの」
 昼過ぎ。
 工場の作業場で、田村新吉が雅子に近づいてきた。
「小野、ちょっといいか」
 雅子は、顔を上げた。
「何ですか」
「お前、最近駅員と親しくしているらしいな」
 雅子の顔が、強ばった。
「……それが、何か?」
「やめておけ。あいつは、お前のことなんて本気じゃない」
「何を言っているんですか」
「鉄道員は、地位がある。お前みたいな女工と、本気で付き合うわけがない。遊ばれているだけだ」
 雅子は、拳を握りしめた。
「黙ってください」
「俺は、お前のことを心配して言っているんだ」
 田村は、雅子の肩に手を置こうとした。
「触らないで!」
 雅子は、田村の手を払いのけた。
 田村の目が、鋭く光った。
「……そうか。本気なんだな、あいつに」
「関係ありません」
「ならいい。だが、後悔するぞ」
 田村は、不気味に笑って去って行った。
 雅子は、その場に立ち尽くした。
 心が、ざわついている。
 田村の言葉が、不安を煽る。
 忠範は、本当に自分のことを──。
「雅子さん!」
 志津の声がした。
 振り返ると、志津が心配そうな顔で立っている。
「大丈夫ですか。田村さんと、何を」
「何でもないわ」
 雅子は、微笑んだ。
 だが、その笑顔は、どこか悲しかった。


 その夜。
 忠範は、寮の部屋で悩んでいた。
 今日、雅子に会えなかった。
 何かあったのだろうか。
 それとも──。
 自分の告白が、迷惑だったのだろうか。
 忠範は、頭を抱えた。
「……どうすればいいんだ」
 窓の外を見ると、工場の灯が見える。
 その中に、雅子がいる。
 会いたい。
 話したい。
 確かめたい。
 忠範は、立ち上がった。
 このままでは、眠れない。


 同じ頃、工場の寮で。
 雅子も、眠れずにいた。
 布団の中で、涙を流していた。
 忠範のことが、頭から離れない。
 会いたい。
 でも、会えない。
 自分には、彼と一緒にいる資格がない。
 そして──田村の言葉が、心に突き刺さる。
「遊ばれているだけだ」
 そんなはずはない。
 忠範は、そんな人じゃない。
 でも──。
 雅子は、枕に顔を埋めた。
「伊藤さん……」
 彼の名前を、何度も呟いた。
 恋は、始まったばかりだった。
 だが、既に試練が訪れようとしていた。
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