君恋し
第六話 工場騒動
翌朝、雅子は再び早い列車に乗って工場へ向かった。
忠範に会わないためだった。自分の気持ちが揺らいでいる今、彼の顔を見たら、涙が溢れてしまいそうだった。
だが、工場に着くと、いつもと様子が違った。
正門の前に、女工たちが集まっている。皆、不安そうな顔をしていた。
「どうしたの?」
雅子が志津に尋ねると、志津は震える声で答えた。
「機械が……また壊されたんです」
「壊された?」
「はい。昨夜、誰かが工場に忍び込んで、織機を三台も」
雅子は、息を呑んだ。
正門の向こうでは、工場主の中津川と監督たちが、険しい顔で話し込んでいる。警察も来ているようだった。
「誰が、そんなことを」
「分かりません。でも、工場主は……」
志津は、声を落とした。
「女工の誰かだと疑っているそうです」
やがて、女工たちは作業場へ呼び出された。
中津川工場主が、壇上に立っている。五十代半ばの、厳格な顔つきの男だ。
「諸君」
工場主の声が、作業場に響いた。
「昨夜、この工場で破壊行為があった。織機三台が、故意に壊された」
女工たちの間に、ざわめきが広がった。
「犯人は、まだ捕まっていない。だが、内部の者の仕業である可能性が高い」
工場主の目が、女工たちを睨みつけた。
「もし、この中に犯人がいるなら、今すぐ名乗り出なさい。さもなくば、全員を対象に調査を行う」
沈黙が、作業場を支配した。
誰も、声を上げない。
「……そうか」
工場主は、冷たく笑った。
「なら、今月の給金は全員減額する。犯人が判明するまで、この措置は継続する」
「そんな!」
女工の一人が、声を上げた。
「私たちは何もしていません!」
「黙れ!」
監督が、怒鳴った。
「お前たちの中に、犯人がいるかもしれないんだ。不満があるなら、出て行け」
女工たちは、黙り込んだ。
雅子も、拳を握りしめた。
理不尽だ。
何もしていない者まで、罰せられる。
だが、声を上げれば、さらに厳しい処分が待っている。
その日、作業場は重苦しい空気に包まれていた。
女工たちは、黙々と織機を動かしている。だが、その目には、怒りと絶望が混じっていた。
雅子は、志津の隣で作業をしながら、考えていた。
誰が、機械を壊したのだろう。
女工の中に、犯人がいるのだろうか。
それとも──。
雅子の脳裏に、田村新吉の顔が浮かんだ。
彼なら、やりかねない。
工場主への不満を、何度も口にしていた。
そして──鉄道を狙うとも言っていた。
雅子は、不安に駆られた。
昼休み。
雅子は、工場の中庭で一人座っていた。
握り飯を食べる気にもなれず、ただぼんやりと空を見上げていた。
「小野」
声がして、振り返ると、田村が立っていた。
「……何ですか」
「さっきの話、聞いたか」
「ええ」
「酷い話だ。俺たちは何もしていないのに、給金を減らされる」
田村は、憤っている様子だった。
「でも、仕方ないでしょう。犯人が分からないんだから」
「仕方ない?お前、それで納得できるのか」
「納得はできません。でも──」
「だったら、声を上げるべきだ」
田村は、雅子の肩を掴んだ。
「お前には、女工たちの信頼がある。お前が動けば、みんなも動く」
「私に、何をしろと」
「工場主に、抗議するんだ。正当な待遇を求める」
「そんなこと、できません」
雅子は、田村の手を振り払った。
「もしそんなことをしたら、私たちは全員クビになります」
「だったら、それでいい」
「何を言っているの!」
雅子は、声を荒げた。
「私たちには、家族がいるの。ここで働かなければ、生きていけない人もいるの」
「だからといって、黙って搾取されろというのか」
「私は──」
雅子は、言葉に詰まった。
田村の言うことも、分かる。
だが、現実は厳しい。
「小野、お前は臆病者だ」
田村は、吐き捨てるように言った。
「駅員に甘い言葉をかけられて、浮かれているから、現実が見えないんだ」
「黙ってください」
「俺は、お前のために言っているんだ。あの駅員は、お前を利用しているだけだ」
「そんなこと──」
「そうじゃないと言えるのか? お前と、あいつは違う世界の人間だ。分かっているだろう」
雅子は、黙り込んだ。
田村の言葉が、胸に突き刺さる。
「……考えておけ」
田村は、そう言って去って行った。
雅子は、その場に座り込んだ。
涙が、溢れた。
その日の夕方。
忠範は、駅で線路の点検をしていた。
最近、夜間巡回を強化しているが、異常は見つかっていない。だが、油断はできない。
点検を終えて駅舎に戻ろうとした時、町の巡査が訪ねてきた。
「伊藤さん、少しいいかね」
「はい、何でしょう」
「工場で、また事件があった」
巡査は、深刻な顔をしていた。
「昨夜、織機が壊されたんだ。犯人は、まだ分からない」
「それは……」
「工場主は、内部の犯行だと見ている。だが、俺は違うと思う」
「と言いますと?」
「最近、町で不穏な動きがある。工場の男工たちが、何かを企んでいるらしい」
忠範は、息を呑んだ。
「そして──鉄道も、標的にされる可能性がある」
「鉄道を?」
「ああ。工場の出荷は、すべて鉄道に頼っている。鉄道を止めれば、工場も困る。それを狙っているんじゃないかと」
忠範の胸に、不安が広がった。
「警戒を、強めてください」
巡査は、そう言って去って行った。
忠範は、線路の方を見た。
また、何かが起きようとしている。
そして──雅子は、大丈夫だろうか。
その夜。
工場の寮に、女工たちが集まっていた。
給金の減額に対する不満が、爆発寸前だった。
「こんなの、おかしいわ」
「私たち、何もしていないのに」
「どうすればいいの」
女工たちの声が、部屋に響く。
雅子は、隅で黙って聞いていた。
志津が、雅子の袖を引いた。
「雅子さん、何か言ってあげてください」
「私が?」
「はい。みんな、雅子さんの言葉を待っています」
雅子は、女工たちを見た。
皆、疲れ切った顔をしている。
だが、その目には、希望の光がわずかに残っていた。
雅子は、立ち上がった。
「みんな、聞いて」
女工たちが、静かになった。
「私たちは、何も悪いことをしていない。それは、みんな分かっている」
「でも、どうすれば」
「今は、耐えるしかないわ」
雅子の言葉に、失望の声が上がった。
「耐えるだけ?」
「それじゃ、何も変わらない」
「いいえ」
雅子は、首を振った。
「犯人が捕まれば、この措置は終わる。それまで、私たちは真面目に働き続けるの」
「でも──」
「それが、私たちにできる、唯一の抵抗よ」
雅子は、女工たちを見つめた。
「私たちは、負けない。どんなに苦しくても、家族のために、自分のために、働き続ける」
女工たちは、黙って頷いた。
雅子の言葉が、少しだけ彼女たちの心を支えた。
しかし、その夜。
工場の倉庫で、田村新吉が仲間たちと集まっていた。
「小野雅子は、使えない」
田村は、苛立った様子で言った。
「あいつは、駅員に心を奪われている」
「どうする?」
「雅子を諦めるしかない。だが──」
田村は、不敵に笑った。
「あの駅員を、潰してやる」
「どうやって」
「簡単だ。鉄道で事故を起こす。そうすれば、あいつは責任を問われる」
「だが、それは──」
「心配するな。大した事故にはしない。ただ、あいつの立場を悪くするだけだ」
田村の目に、狂気の光が宿った。
「そうすれば、雅子も目が覚める。あの駅員が、どれだけ無能か、分かるだろう」
男工たちは、黙って頷いた。
しかしながら、その計画が──やがて取り返しのつかない事態を招くことになる。
翌朝。
雅子は、意を決して、いつもの列車に乗った。
忠範に、会おう。
ちゃんと話そう。
そして──自分の気持ちを、伝えよう。
列車が駅に到着すると、忠範の姿が見えた。
彼は、ホームで待っていた。
雅子が降りると、忠範は駆け寄ってきた。
「小野さん!」
「伊藤さん……」
二人は、見つめ合った。
「会いたかった」
忠範の声が、震えていた。
「昨日も、その前も、会えなくて……心配しました」
「ごめんなさい」
雅子の目から、涙が溢れた。
「私……逃げていました」
「小野さん」
「でも、もう逃げません」
雅子は、忠範の目を見つめた。
「伊藤さん。私も……あなたのことが、好きです」
忠範の目が、大きく見開かれた。
「本当……ですか」
「はい」
雅子は、微笑んだ。
涙を流しながら、でも確かに微笑んだ。
忠範は、雅子の手を取った。
「小野さん……ありがとうございます」
二人の手が、温かく触れ合った。
その瞬間──。
遠くから、汽笛が鳴り響いた。
工場の、始業の合図。
「行かなければ」
「はい。でも、また」
「また、明日」
雅子は、改札へ向かった。
だが、何度も振り返った。
忠範も、手を振っていた。
二人の恋は、ようやく始まった。
──その行く手には、大きな試練が待ち受けていた。
忠範に会わないためだった。自分の気持ちが揺らいでいる今、彼の顔を見たら、涙が溢れてしまいそうだった。
だが、工場に着くと、いつもと様子が違った。
正門の前に、女工たちが集まっている。皆、不安そうな顔をしていた。
「どうしたの?」
雅子が志津に尋ねると、志津は震える声で答えた。
「機械が……また壊されたんです」
「壊された?」
「はい。昨夜、誰かが工場に忍び込んで、織機を三台も」
雅子は、息を呑んだ。
正門の向こうでは、工場主の中津川と監督たちが、険しい顔で話し込んでいる。警察も来ているようだった。
「誰が、そんなことを」
「分かりません。でも、工場主は……」
志津は、声を落とした。
「女工の誰かだと疑っているそうです」
やがて、女工たちは作業場へ呼び出された。
中津川工場主が、壇上に立っている。五十代半ばの、厳格な顔つきの男だ。
「諸君」
工場主の声が、作業場に響いた。
「昨夜、この工場で破壊行為があった。織機三台が、故意に壊された」
女工たちの間に、ざわめきが広がった。
「犯人は、まだ捕まっていない。だが、内部の者の仕業である可能性が高い」
工場主の目が、女工たちを睨みつけた。
「もし、この中に犯人がいるなら、今すぐ名乗り出なさい。さもなくば、全員を対象に調査を行う」
沈黙が、作業場を支配した。
誰も、声を上げない。
「……そうか」
工場主は、冷たく笑った。
「なら、今月の給金は全員減額する。犯人が判明するまで、この措置は継続する」
「そんな!」
女工の一人が、声を上げた。
「私たちは何もしていません!」
「黙れ!」
監督が、怒鳴った。
「お前たちの中に、犯人がいるかもしれないんだ。不満があるなら、出て行け」
女工たちは、黙り込んだ。
雅子も、拳を握りしめた。
理不尽だ。
何もしていない者まで、罰せられる。
だが、声を上げれば、さらに厳しい処分が待っている。
その日、作業場は重苦しい空気に包まれていた。
女工たちは、黙々と織機を動かしている。だが、その目には、怒りと絶望が混じっていた。
雅子は、志津の隣で作業をしながら、考えていた。
誰が、機械を壊したのだろう。
女工の中に、犯人がいるのだろうか。
それとも──。
雅子の脳裏に、田村新吉の顔が浮かんだ。
彼なら、やりかねない。
工場主への不満を、何度も口にしていた。
そして──鉄道を狙うとも言っていた。
雅子は、不安に駆られた。
昼休み。
雅子は、工場の中庭で一人座っていた。
握り飯を食べる気にもなれず、ただぼんやりと空を見上げていた。
「小野」
声がして、振り返ると、田村が立っていた。
「……何ですか」
「さっきの話、聞いたか」
「ええ」
「酷い話だ。俺たちは何もしていないのに、給金を減らされる」
田村は、憤っている様子だった。
「でも、仕方ないでしょう。犯人が分からないんだから」
「仕方ない?お前、それで納得できるのか」
「納得はできません。でも──」
「だったら、声を上げるべきだ」
田村は、雅子の肩を掴んだ。
「お前には、女工たちの信頼がある。お前が動けば、みんなも動く」
「私に、何をしろと」
「工場主に、抗議するんだ。正当な待遇を求める」
「そんなこと、できません」
雅子は、田村の手を振り払った。
「もしそんなことをしたら、私たちは全員クビになります」
「だったら、それでいい」
「何を言っているの!」
雅子は、声を荒げた。
「私たちには、家族がいるの。ここで働かなければ、生きていけない人もいるの」
「だからといって、黙って搾取されろというのか」
「私は──」
雅子は、言葉に詰まった。
田村の言うことも、分かる。
だが、現実は厳しい。
「小野、お前は臆病者だ」
田村は、吐き捨てるように言った。
「駅員に甘い言葉をかけられて、浮かれているから、現実が見えないんだ」
「黙ってください」
「俺は、お前のために言っているんだ。あの駅員は、お前を利用しているだけだ」
「そんなこと──」
「そうじゃないと言えるのか? お前と、あいつは違う世界の人間だ。分かっているだろう」
雅子は、黙り込んだ。
田村の言葉が、胸に突き刺さる。
「……考えておけ」
田村は、そう言って去って行った。
雅子は、その場に座り込んだ。
涙が、溢れた。
その日の夕方。
忠範は、駅で線路の点検をしていた。
最近、夜間巡回を強化しているが、異常は見つかっていない。だが、油断はできない。
点検を終えて駅舎に戻ろうとした時、町の巡査が訪ねてきた。
「伊藤さん、少しいいかね」
「はい、何でしょう」
「工場で、また事件があった」
巡査は、深刻な顔をしていた。
「昨夜、織機が壊されたんだ。犯人は、まだ分からない」
「それは……」
「工場主は、内部の犯行だと見ている。だが、俺は違うと思う」
「と言いますと?」
「最近、町で不穏な動きがある。工場の男工たちが、何かを企んでいるらしい」
忠範は、息を呑んだ。
「そして──鉄道も、標的にされる可能性がある」
「鉄道を?」
「ああ。工場の出荷は、すべて鉄道に頼っている。鉄道を止めれば、工場も困る。それを狙っているんじゃないかと」
忠範の胸に、不安が広がった。
「警戒を、強めてください」
巡査は、そう言って去って行った。
忠範は、線路の方を見た。
また、何かが起きようとしている。
そして──雅子は、大丈夫だろうか。
その夜。
工場の寮に、女工たちが集まっていた。
給金の減額に対する不満が、爆発寸前だった。
「こんなの、おかしいわ」
「私たち、何もしていないのに」
「どうすればいいの」
女工たちの声が、部屋に響く。
雅子は、隅で黙って聞いていた。
志津が、雅子の袖を引いた。
「雅子さん、何か言ってあげてください」
「私が?」
「はい。みんな、雅子さんの言葉を待っています」
雅子は、女工たちを見た。
皆、疲れ切った顔をしている。
だが、その目には、希望の光がわずかに残っていた。
雅子は、立ち上がった。
「みんな、聞いて」
女工たちが、静かになった。
「私たちは、何も悪いことをしていない。それは、みんな分かっている」
「でも、どうすれば」
「今は、耐えるしかないわ」
雅子の言葉に、失望の声が上がった。
「耐えるだけ?」
「それじゃ、何も変わらない」
「いいえ」
雅子は、首を振った。
「犯人が捕まれば、この措置は終わる。それまで、私たちは真面目に働き続けるの」
「でも──」
「それが、私たちにできる、唯一の抵抗よ」
雅子は、女工たちを見つめた。
「私たちは、負けない。どんなに苦しくても、家族のために、自分のために、働き続ける」
女工たちは、黙って頷いた。
雅子の言葉が、少しだけ彼女たちの心を支えた。
しかし、その夜。
工場の倉庫で、田村新吉が仲間たちと集まっていた。
「小野雅子は、使えない」
田村は、苛立った様子で言った。
「あいつは、駅員に心を奪われている」
「どうする?」
「雅子を諦めるしかない。だが──」
田村は、不敵に笑った。
「あの駅員を、潰してやる」
「どうやって」
「簡単だ。鉄道で事故を起こす。そうすれば、あいつは責任を問われる」
「だが、それは──」
「心配するな。大した事故にはしない。ただ、あいつの立場を悪くするだけだ」
田村の目に、狂気の光が宿った。
「そうすれば、雅子も目が覚める。あの駅員が、どれだけ無能か、分かるだろう」
男工たちは、黙って頷いた。
しかしながら、その計画が──やがて取り返しのつかない事態を招くことになる。
翌朝。
雅子は、意を決して、いつもの列車に乗った。
忠範に、会おう。
ちゃんと話そう。
そして──自分の気持ちを、伝えよう。
列車が駅に到着すると、忠範の姿が見えた。
彼は、ホームで待っていた。
雅子が降りると、忠範は駆け寄ってきた。
「小野さん!」
「伊藤さん……」
二人は、見つめ合った。
「会いたかった」
忠範の声が、震えていた。
「昨日も、その前も、会えなくて……心配しました」
「ごめんなさい」
雅子の目から、涙が溢れた。
「私……逃げていました」
「小野さん」
「でも、もう逃げません」
雅子は、忠範の目を見つめた。
「伊藤さん。私も……あなたのことが、好きです」
忠範の目が、大きく見開かれた。
「本当……ですか」
「はい」
雅子は、微笑んだ。
涙を流しながら、でも確かに微笑んだ。
忠範は、雅子の手を取った。
「小野さん……ありがとうございます」
二人の手が、温かく触れ合った。
その瞬間──。
遠くから、汽笛が鳴り響いた。
工場の、始業の合図。
「行かなければ」
「はい。でも、また」
「また、明日」
雅子は、改札へ向かった。
だが、何度も振り返った。
忠範も、手を振っていた。
二人の恋は、ようやく始まった。
──その行く手には、大きな試練が待ち受けていた。