君恋し

第七話 駅員たちの推測

 雅子が想いを告げてから、数日が過ぎた。
 二人は毎朝、短い時間だが言葉を交わすようになった。天気のこと、仕事のこと、そして互いへの想い。わずかな時間でも、二人にとっては何よりも大切な時間だった。
 忠範の表情は、明るくなった。
 駅の同僚たちも、それに気づいていた。


 ある日の昼休み。
 駅員たちが休憩室に集まって、昼食を取っていた。
 助役が、にやにやしながら忠範を見ている。
「伊藤くん、最近いいことでもあったのか?」
「え? いえ、別に」
 忠範は、慌てて否定した。
「嘘つけ。顔に書いてあるぞ」
 若い駅員が、笑いながら言った。
「毎朝、ホームで誰かを待っているだろう」
「そ、そんなことは」
「藍色の着物を着た、綺麗な娘さんだ」
 忠範の顔が、赤くなった。
 駅員たちは、どっと笑った。
「やっぱりな」
「伊藤くんも、ついに春が来たか」
「相手は、工場の女工さんだろう? 大丈夫か、工場主は厳しいぞ」
「でも、いい娘さんだよな。真面目そうで」
 駅員たちは、口々に言った。
 忠範は、恥ずかしそうに頷いた。
「はい……小野雅子さんと言います」
「小野さんか。いい名前だ」
「で、どこまで進んだんだ?」
「まだ……その、お付き合いを始めたばかりです」
「なら、大切にしないとな」
 助役が、真面目な顔で言った。
「ああいう娘さんは、簡単には心を開かない。お前が選ばれたんだから、誠実にしなきゃいかん」
「はい」
 忠範は、深く頷いた。
「でも、気をつけろよ」
 年配の駅員が、声を落とした。
「最近、工場の様子がおかしい。機械が壊されたり、労働争議の噂があったり」
「ええ、聞いています」
「それに──線路破損の件も、まだ解決していない」
 駅員たちの表情が、曇った。
「あれは、絶対に誰かの仕業だ」
「工場と関係があるんじゃないか?」
「どういうことです?」
 忠範が尋ねた。
「考えてみろ。工場の出荷は、すべて鉄道に頼っている。鉄道を止めれば、工場も困る」
「つまり……工場への嫌がらせ?」
「いや、逆だ」
 助役が言った。
「工場の労働者が、経営者への圧力として、鉄道を利用しているんじゃないか」
 忠範は、息を呑んだ。
「でも、それは……」
「分からん。ただの推測だ。だが、可能性はある」
「警察には?」
「もちろん、伝えてある。だが、証拠がない」
 沈黙が、部屋を支配した。
「伊藤くん」
 助役が、忠範を見た。
「お前の恋人は、工場で働いている。もし、何か知っていることがあれば──」
「小野さんは、関係ありません」
 忠範は、きっぱりと言った。
「彼女は、真面目に働いているだけです」
「分かっている。だが、周りの人間がどうか、分からないだろう」
「……」
「気をつけろ。お前も、彼女も」
 忠範は、黙って頷いた。
 だが、胸の中には、不安が広がっていた。


 その日の午後。
 忠範は、再び線路の点検に出た。
 助役の言葉が、頭から離れない。
 工場と鉄道。
 労働者と経営者。
 そして──雅子。
 彼女は、本当に何も知らないのだろうか。
 いや、疑ってはいけない。
 忠範は、自分に言い聞かせた。
 雅子は、そんな人間じゃない。
 だが──彼女の周りには、危険な人物がいるかもしれない。
 忠範は、線路を見つめた。
 守らなければ。
 鉄道も、そして雅子も。
 同じ頃、工場では。
 雅子は、織機の前で作業をしていた。
 だが、集中できない。
 昨夜から、奇妙な雰囲気が工場を支配していた。
 男工たちが、何かを計画しているようだった。
 田村新吉を中心に、数人の男工が頻繁に集まっている。そして、雅子を見る目が──冷たい。
 雅子は、不安だった。
「雅子さん」
 志津が、小さな声で呼びかけた。
「何?」
「あの……田村さんたちが、何か企んでいるみたいです」
「何を?」
「分かりません。でも、昨夜、倉庫で集まっていたのを見た人がいて」
 雅子の胸に、悪い予感が広がった。
「それと……」
 志津は、声をさらに落とした。
「鉄道を狙うって、誰かが言っていたそうです」
「鉄道を?」
「はい。詳しくは分かりませんが」
 雅子は、息を呑んだ。
 鉄道──忠範。
「まさか……」
 雅子の手が、震えた。


 その日の夕方。
 雅子は、作業を終えると、すぐに駅へ向かった。
 忠範に、警告しなければ。
 何かが起きる前に。
 駅に着くと、忠範が構内を巡回していた。
「伊藤さん!」
 雅子が呼びかけると、忠範は驚いて振り返った。
「小野さん?どうしたんですか」
「お話が……あります」
 雅子の表情を見て、忠範は真剣な顔になった。
「こちらへ」
 二人は、駅舎の裏へ回った。
 人目につかない場所だ。
「どうしたんですか」
「伊藤さん、危険かもしれません」
「危険?」
「工場の男工たちが……鉄道を狙っているかもしれないんです」
 忠範の顔色が、変わった。
「本当ですか」
「確かなことは分かりません。でも、噂を聞いて……心配で」
「小野さん……」
 忠範は、雅子の手を取った。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「伊藤さん、気をつけてください」
「はい。でも、小野さんも」
「私?」
「そんな情報を教えてくれたこと、もし工場の人間に知られたら──」
 雅子は、頷いた。
「大丈夫です。誰にも言われていません」
「でも、念のため、気をつけてください」
 二人は、見つめ合った。
 短い沈黙の後、忠範が口を開いた。
「小野さん、今度の日曜日……会えませんか」
「日曜日?」
「はい。ゆっくり話がしたいんです。朝の短い時間だけでは、足りなくて」
 雅子は、少し戸惑った。
「でも……」
「お休みは?」
「月に一度だけ、日曜日に休みがあります」
「では、次の休みの日に」
 雅子は、迷った。
 工場の外で、忠範と会う。
 それは、リスクがあった。
 もし、誰かに見られたら──。
 だが、忠範の真剣な目を見て、雅子は頷いた。
「……はい」
「本当ですか」
「ええ。次の日曜日、休みです」
「では、その日に。場所は──」
 忠範は、考えた。
「町外れの、あの桜並木はどうでしょう。人目につきにくい場所です」
「分かりました」
 雅子は、微笑んだ。
「楽しみにしています」
「僕も」
 二人は、再び手を握り合った。
 しかし──その様子を、遠くから見ている影があった。


 その夜。
 田村新吉は、倉庫で仲間たちと集まっていた。
「小野雅子が、駅員と会っていた」
 見張りをしていた男工が、報告した。
「何を話していたんだ」
「分からない。だが、親密そうだった」
 田村の拳が、壁を叩いた。
「あの女……」
「どうする、田村」
「計画を、早める」
「早める?」
「ああ。今週末に、やる」
「だが、まだ準備が——」
「いい。できる範囲でやる」
 田村は、不気味に笑った。
「あの駅員を、叩き潰す。そうすれば、雅子も目が覚めるだろう」
「本当に大丈夫か?」
「心配するな。俺に、考えがある」
 田村の目に、狂気の光が宿っていた。


 翌日。
 忠範は、駅長に雅子からの情報を報告した。
「工場の男工が、鉄道を狙っている可能性がある、と」
 駅長は、深刻な顔で頷いた。
「警察にも、伝えよう」
「はい」
「だが、伊藤くん」
「はい」
「その情報源は?」
 忠範は、一瞬躊躇した。
「……工場で働いている、知人からです」
「信頼できる人物か?」
「はい」
 駅長は、忠範の目を見た。
「お前の恋人か」
 忠範は、驚いて顔を上げた。
「みんな、知っているぞ」
 駅長は、微笑んだ。
「いい娘さんだ。大切にしなさい」
「はい……」
「だが、気をつけろ。恋は素晴らしいが、仕事と私事を混同してはいかん」
「分かっています」
「そうか。なら、いい」
 駅長は、立ち上がった。
「警備を、さらに強化する。夜間巡回も、増やそう」
「はい」


 その日の午後。
 町の巡査が再び駅を訪れた。
 三輪監査官も、本局から呼ばれてきた。
「状況を、説明してくれ」
 三輪監査官が、鋭い目で忠範を見た。
 忠範は、これまでの経緯を説明した。
 線路破損、工場の機械破壊、そして最近の情報。
「なるほど」
 三輪監査官は、腕を組んだ。
「工場の労働争議が、鉄道を巻き込もうとしているわけだ」
「その可能性があります」
「だが、証拠はない」
「はい」
「なら、現行犯で捕まえるしかない」
 巡査が言った。
「今夜から、警察も見回りを強化します」
「頼む」
 駅長が頷いた。
「これ以上、鉄道の安全を脅かされるわけにはいかない」
 会議は、そこで終わった。
 だが、忠範の胸には、不安が残っていた。
 本当に、守れるのだろうか。
 鉄道を。
 そして──雅子を。
 その夜。
 雅子は、寮の部屋で、窓の外を見ていた。
 遠くに、駅の灯が見える。
 忠範は、今も働いているのだろうか。
 日曜日、二人きりで会える日。
 雅子は、それを楽しみにしていた。
 だが、同時に不安もあった。
 田村たちが、何かを企んでいる。
 それが、忠範を傷つけることにならないだろうか。
「伊藤さん……」
 雅子は、小さく呟いた。
「どうか、無事で」
 窓の外で、月が静かに輝いていた。
 嵐の前の静けさだった。
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