君恋し

第八話 ビラの告白者

 週末が近づくにつれ、工場の空気は一層重くなっていった。
 給金の減額措置は続き、女工たちの不満は限界に達していた。作業場では、ため息と小さな悲鳴ばかりが聞こえる。疲労と絶望が、彼女たちを蝕んでいた。
 雅子は、そんな女工たちを見るたび、胸が痛んだ。
 だが、自分にできることは限られている。ただ、励まし、支えることしかできない。
 金曜日の朝。
 雅子が工場に着くと、また新しいビラが門の前に貼られていた。
「工場主は、我々の声を聞け。正当な賃金を支払え。労働環境を改善せよ。さもなくば、我々は行動する──」
 女工たちが、ビラの前に集まっている。
「また、ビラが……」
「誰が、こんなことを」
「でも、言っていることは正しいわ」
 女工たちの声が、ざわめく。
 雅子も、ビラを読んだ。
 書かれていることは、確かに正論だった。だが、このやり方は──。
「みんな、散って」
 監督の怒鳴り声が響いた。
「こんなものを読んでいる暇があるなら、働け!」
 女工たちは、慌てて作業場へ向かった。
 雅子も、続いて中へ入ろうとした時──。
「小野、ちょっと来い」
 監督が、雅子を呼び止めた。
「はい」
「お前、このビラのことを知っているか」
「いいえ」
「本当か?」
 監督の目が、鋭く光った。
「お前は、女工たちに人望がある。もし、お前がこのビラに関わっているなら──」
「関わっていません」
 雅子は、きっぱりと答えた。
「私は、ただ働いているだけです」
「……そうか」
 監督は、疑わしげな目で雅子を見たが、それ以上は追及しなかった。
「いいか、小野。お前が変な気を起こせば、他の女工も巻き込まれる。分かっているな」
「はい」
 雅子は、頭を下げた。
 だが、心の中では、怒りが燃えていた。


 その日の昼休み。
 雅子は、中庭で志津と一緒に昼食を取っていた。
 志津は、元気がない様子だった。
「どうしたの?」
「雅子さん……」
 志津は、涙ぐんでいた。
「私、もう限界かもしれません」
「何を言ってるの」
「毎日、怒られて……給金も減らされて……家族に、お金を送れないんです」
「志津ちゃん」
「それに……」
 志津は、声を震わせた。
「私……あのビラを、書いたんです」
 雅子は、息を呑んだ。
「え?」
「ごめんなさい……私が、書きました」
 志津は、顔を覆って泣き出した。
「どうして……」
「だって、誰も声を上げないから! このままじゃ、私たち、壊れてしまう!」
 雅子は、志津を抱きしめた。
「志津ちゃん、落ち着いて」
「でも、雅子さん……怖いんです。もしバレたら、私……」
「大丈夫。誰にも言わないわ」
「本当ですか」
「ええ。だから、もうビラは書かないで」
 志津は、頷いた。
 だが、雅子の胸には、重い不安が広がっていた。
 もし、志津がビラの犯人だと知られたら──。
 彼女は、クビになるだけでは済まない。
 警察に突き出されるかもしれない。


 その日の午後。
 工場主の中津川が、作業場を見回っていた。
 彼の表情は、いつもより険しい。
 やがて、彼は全員を集めるよう命じた。
 女工たちが、再び作業場の中央に集められた。
「諸君」
 中津川工場主の声が、響いた。
「ビラの件だが、警察が捜査を始めた」
 女工たちの間に、動揺が広がった。
「犯人は、この工場の者だ。それは、間違いない」
 工場主の目が、女工たちを睨みつけた。
「もし、心当たりのある者がいるなら、今すぐ申し出なさい。そうすれば、処分は軽くする」
 沈黙が、作業場を支配した。
 誰も、声を上げない。
 雅子は、隣にいる志津を見た。
 志津は、震えている。
「……そうか」
 工場主は、冷たく笑った。
「なら、全員を対象に、厳しい調査を行う。寮も、所持品も、すべて調べる」
「そんな!」
 女工の一人が、声を上げた。
「黙れ!」
 監督が、怒鳴った。
「お前たちの中に、犯人がいるんだ。嫌なら、出て行け」
 女工たちは、黙り込んだ。
 雅子は、拳を握りしめた。
 このままでは、志津が──。
「あの!」
 雅子は、思わず声を上げていた。
 全員の視線が、雅子に集まった。
「小野、何だ」
「その……犯人探しをするのは、仕方ありません。でも、私たちの所持品を調べるというのは……」
「何が言いたい」
「私たちにも、プライバシーがあります。勝手に調べられるのは──」
「黙れ!」
 工場主が、怒鳴った。
「お前は、犯人を庇っているのか!」
「いいえ、そうではありません」
「ならば、黙っていろ」
 雅子は、唇を噛んだ。
 しかし、これ以上は言えなかった。


 その夜。
 雅子と志津は、寮の部屋で向かい合っていた。
「雅子さん、ありがとうございました」
 志津は、涙を流していた。
「でも、私……もう隠しきれません」
「志津ちゃん」
「明日、調査が始まったら、きっと見つかります。ビラを書いた時の、下書きが残っているんです」
 雅子は、息を呑んだ。
「下書き?」
「はい……寮の机の引き出しに」
「なぜ、捨てなかったの」
「怖くて……捨てる勇気が出なくて……」
 志津は、顔を覆った。
 雅子は、考えた。
 このままでは、志津は確実に捕まる。
 そうなれば、彼女の人生は終わる。
「志津ちゃん、その下書きを見せて」
「え?」
「今すぐ、持ってきて」
 志津は、慌てて自分の部屋へ行き、紙を持ってきた。
 雅子は、それを受け取った。
 確かに、ビラと同じ文言が書かれている。
「これは……」
「どうすれば……」
 雅子は、決心した。
「私が、預かるわ」
「え?」
「調査が来ても、私の部屋には下書きはない。だから、志津ちゃんは安全よ」
「でも、雅子さんが──」
「大丈夫。私は、うまく隠すから」
 雅子は、微笑んだ。
「志津ちゃんを、守るわ」
 志津は、雅子に抱きついた。
「雅子さん……」
「泣かないで。明日も、いつも通りに働くのよ」
「はい……」
 翌朝。
 工場に警察が来た。
 女工たちの寮が、一斉に調べられた。
 雅子の部屋も、例外ではなかった。
 だが、下書きは見つからなかった。
 雅子は、それを細かく破いて、夜のうちに川に流していたのだ。
 調査は、何の成果もなく終わった。
 工場主は、苛立った様子だったが、諦めるしかなかった。


 その日の午後。
 監督が、再び雅子を呼び止めた。
「小野」
「はい」
「お前、何か知っているな」
「いいえ」
「嘘をつくな。お前が、犯人を庇っているんだろう」
「そんなことは──」
「いいか、小野」
 監督は、雅子の肩を掴んだ。
「お前が変なことをすれば、お前だけじゃなく、他の女工も巻き込まれる。分かっているな」
「……はい」
「なら、大人しくしていろ」
 監督は、そう言って去って行った。
 雅子は、その場に立ち尽くした。
 胸が、苦しかった。


 その日の夕方。
 雅子は、いつもより遅い列車に乗った。
 忠範に、会いたかった。
 彼の顔を見れば、少しは楽になるかもしれない。
 駅に着くと、忠範がホームにいた。
 彼は、雅子の姿を見つけると、駆け寄ってきた。
「小野さん、遅かったですね。心配しました」
「ごめんなさい……」
 雅子の声は、か細かった。
 忠範は、雅子の表情を見て、何かを察した。
「どうしたんですか」
「……何でもないわ」
「でも、顔色が」
「大丈夫です」
 雅子は、無理に微笑んだ。
 だが、その笑顔は──悲しかった。
 忠範は、雅子の手を取った。
「小野さん、何かあったんですね」
「伊藤さん……」
 雅子の目から、涙が溢れた。
「私……もう、どうすればいいのか分からないの」
「小野さん」
「工場で、色々なことが起きて……友達を守りたいのに、でも、どうすればいいか……」
 雅子は、泣き崩れた。
 忠範は、雅子を抱きしめた。
「大丈夫です。僕が、ついています」
「伊藤さん……」
「何があっても、僕は小野さんの味方です」
 雅子は、忠範の胸で泣いた。
 温かかった。
 優しかった。
 だが──。
 雅子の心には、罪悪感があった。
 志津を庇ったこと。
 それは、正しかったのだろうか。
 そして──忠範を、巻き込んでしまうのではないか。


 その夜。
 田村新吉は、倉庫で仲間たちと最終確認をしていた。
「明日の夜、決行する」
「本当にいいのか、田村」
「もう、引き返せない」
 田村は、不敵に笑った。
「線路の継ぎ目を、もう一度狙う。今度は、もっと大規模にやる」
「だが、警備が厳しくなっている」
「心配するな。俺には、考えがある」
 田村の目に、狂気の光が宿った。
「そして──小野雅子を、こちらに引き込む」
「どうやって」
「あの駅員を、失墜させる。そうすれば、雅子も分かるだろう」
「でも──」
「黙れ! 俺の言う通りにしろ!」
 田村の声が、倉庫に響いた。
 男工たちは、黙って頷いた。
 嵐が、すぐそこまで迫っていた。
 翌日──日曜日。
 雅子と忠範が、約束の日だった。
 だが、その日──。
 すべてが、動き出す。
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