貴方と奏でる夜想曲 貴女に奏でる小夜曲
それはアップライトといっても、ちょっとめずらしくて高価なピアノだった。
「ベヒシュタインだ!」
実物を目のまえにして、思わず感激の声が出る。
世界の三大ピアノメーカーの一つ、ベヒシュタイン。
繊細でクリアな音色が魅力で、ドビュッシーにこよなく愛されたというピアノ。
一般家庭に普及しているピアノかというと、決してそうではないのに。
まさか“お友達”のお家でお目にかかるなんて。
「とりあえず弾いてみる?」
「ううん。弾きたいのはやまやまだけど、今は我慢する」
「我慢?」
本当は、その素敵な音色を確かめたくて仕方がないけど。
「当日弾かせてもらうのはヤマハのピアノ?」
「ヤマハのグランドピアノだけど」
「であれば、こちらのピアノで練習するのはちょっと」
素敵なピアノだけれど、わざわざ個性の違うピアノで練習するのは得策ではないよね、と。
「確かに……そうだよね、ごめん」
「え?」
「シライシはこのピアノ好きかと思って、つい誘導するようなまねを……」
(なんで??? って、もしや……)
「得意だと聞いたので。ラヴェルやドビュッシー」
(もおぉお! 真秀のお喋りめぇえ! 正確には、得意というか……)
「大好きなだけだよ」
(あ……)
瞬間――うまく言えないけど、ちょっと空気が変わった気がした。
「そっか」
「そうだよ」
クロカワといると「好き」という言葉が、何かにつけてバグって困る。
ほんっと、私ってば自意識過剰にもほどがある。
脳内でふるふる大きくかぶりをふって、気を取り直す。
「あ、だからその、練習が終わったら弾かせてもらってもいい? てか、絶対弾きたい!」
「もちろん。聞かせてよ、シライシのラヴェル」
「ただ好きなだけなんだからね。くれぐれも誤解のないように」
「わかったわかった」
(ただ好きな……大好きなだけ、なんだから)
今回演奏する曲は、おそらく誰もが一度は耳にしたことのある映画の曲だった。
「私、アニメも実写も大好き!」
「僕はこのために初めて見たよ」
「うそでしょ!?」
それは、魔女の呪いで野獣にされてしまった王子様と、純粋で心優しい町娘の物語。
この映画といえば、ロマンチックで美しいあのメロディーが有名に違いない。
けれども、今回演奏するのはそれだけでなく、ヒロインが朗らかに歌う軽快な曲とのメドレーだ。
グランドピアノのあるお部屋で、まずはそれぞれ軽くスケールで指慣らし。
「このピアノ、よく鳴るピアノだね」
もともといい楽器なのだと思うけど、そのうえとても大事にされている感じがする。
「調律してもらったばかりだよ」
クロカワは嬉しそうに微笑むと、楽器を構えて弓を引いた。
(ああ、クロカワのビオラだ……)
それだけでちょっとキュンとしながら、自分の音に集中する。
「どう? そろそろ始められそう?」
声をかけられ、気持ちシャキっと背筋を伸ばす。
「うん、大丈夫だよ」
「頑張って最後までさらってきてくれたんだよね?」
「一応は……」
何しろ楽譜をもらってから、まだ3日くらい?
クロカワは最後までさらえなくても大丈夫といってくれたけど、その……いいところを見せたくて。
よせばいいのに、見栄と意地で頑張った。
「じゃあ、せっかくだし、どんな感じか1回通してやってみようか」
「うん」
「速さはどうする? インテンポでいける?」
「とりあえずそれで」
(譜面どおりの速さで練習してきたもの)
「何があっても止まらないでやってみよう。それでいい?」
(何があっても、って……どんなにグダグダになろうとも止まらず走り切るということね)
くすりと笑うクロカワに、私は気合い十分請け合った。
「おうともよっ」
(どうしよう、緊張するっ。でも……めっちゃ、ワクワクする!)
始まりはビオラのソロから――。
心地よい清らかな音が澄み渡り、穏やかな“朝”がやってくる。
そこへピアノが加わって、重なって――。
キラキラ輝く音の粒が、美しい旋律を奏でて、降り注ぐ柔らかな光の中を、ヒロインが新しい今日へ駆け出していく。
ピアノが弾むように軽やかに踊り、ビオラが朗らかに伸びやかに歌う。
そうして、晴れやかに歌い上げたあとは――。
静かに訪れる、切なくも優しい小さな恋のはじまり。
心に芽生えた温かな“何か”。
互いの心を寄せて合わせてかよわせて。
まるで蕾が豊かに花開いていくように、曲も華やかに盛り上がっていく。
そうして最後、再び温かな静けさが訪れて、優しい余韻とともに曲は終わる――わけなのだけど。
(私の演奏、荒削りにもほどかある……)
「ほんっと、ごめん……」
「謝らないでよ。短期間でこんな弾けちゃうなんて、シライシってすごいね」
「うぅ、どんなにグダグダのグスグスになっても最後まで弾ききったことだけは褒めて……」
「うん。えらいえらい」
(クロカワは優しいなあ)
「どう? 初めてのデュオの感想は?」
(それはもう……)
「すっごく楽しい!」
ただ弾くので精一杯で余裕なんてまるでなかったけれど、それでもじゅうぶん感じられた。
誰かと音を合わせて、ひとつの音楽を奏でる楽しさ。
しかも、その誰かが他の誰でもない、大好きな誰か、なのだもの。
「それじゃあ、お昼までしばらく、最初から丁寧にやっていこうか」
(クロカワの音、もっと聞きたい。ちゃんと聞きたい。一緒に、いい音楽が作りたい)
「うん。頑張るね!」
「もう頑張っているじゃない。だから、そのままで。ゆっくりしっかりやっていこう?」
この人の笑顔は、どうしてこんなに優しいのだろう。
彼の期待に応えたい。
彼のビオラに恥ずかしくないピアノを。
「ゆっくりしっかり、もっと頑張るし」
「あなたねえ」
(だって、頑張らずにいられないんだよ。大好きに、なっちゃったのだもの……)
「ベヒシュタインだ!」
実物を目のまえにして、思わず感激の声が出る。
世界の三大ピアノメーカーの一つ、ベヒシュタイン。
繊細でクリアな音色が魅力で、ドビュッシーにこよなく愛されたというピアノ。
一般家庭に普及しているピアノかというと、決してそうではないのに。
まさか“お友達”のお家でお目にかかるなんて。
「とりあえず弾いてみる?」
「ううん。弾きたいのはやまやまだけど、今は我慢する」
「我慢?」
本当は、その素敵な音色を確かめたくて仕方がないけど。
「当日弾かせてもらうのはヤマハのピアノ?」
「ヤマハのグランドピアノだけど」
「であれば、こちらのピアノで練習するのはちょっと」
素敵なピアノだけれど、わざわざ個性の違うピアノで練習するのは得策ではないよね、と。
「確かに……そうだよね、ごめん」
「え?」
「シライシはこのピアノ好きかと思って、つい誘導するようなまねを……」
(なんで??? って、もしや……)
「得意だと聞いたので。ラヴェルやドビュッシー」
(もおぉお! 真秀のお喋りめぇえ! 正確には、得意というか……)
「大好きなだけだよ」
(あ……)
瞬間――うまく言えないけど、ちょっと空気が変わった気がした。
「そっか」
「そうだよ」
クロカワといると「好き」という言葉が、何かにつけてバグって困る。
ほんっと、私ってば自意識過剰にもほどがある。
脳内でふるふる大きくかぶりをふって、気を取り直す。
「あ、だからその、練習が終わったら弾かせてもらってもいい? てか、絶対弾きたい!」
「もちろん。聞かせてよ、シライシのラヴェル」
「ただ好きなだけなんだからね。くれぐれも誤解のないように」
「わかったわかった」
(ただ好きな……大好きなだけ、なんだから)
今回演奏する曲は、おそらく誰もが一度は耳にしたことのある映画の曲だった。
「私、アニメも実写も大好き!」
「僕はこのために初めて見たよ」
「うそでしょ!?」
それは、魔女の呪いで野獣にされてしまった王子様と、純粋で心優しい町娘の物語。
この映画といえば、ロマンチックで美しいあのメロディーが有名に違いない。
けれども、今回演奏するのはそれだけでなく、ヒロインが朗らかに歌う軽快な曲とのメドレーだ。
グランドピアノのあるお部屋で、まずはそれぞれ軽くスケールで指慣らし。
「このピアノ、よく鳴るピアノだね」
もともといい楽器なのだと思うけど、そのうえとても大事にされている感じがする。
「調律してもらったばかりだよ」
クロカワは嬉しそうに微笑むと、楽器を構えて弓を引いた。
(ああ、クロカワのビオラだ……)
それだけでちょっとキュンとしながら、自分の音に集中する。
「どう? そろそろ始められそう?」
声をかけられ、気持ちシャキっと背筋を伸ばす。
「うん、大丈夫だよ」
「頑張って最後までさらってきてくれたんだよね?」
「一応は……」
何しろ楽譜をもらってから、まだ3日くらい?
クロカワは最後までさらえなくても大丈夫といってくれたけど、その……いいところを見せたくて。
よせばいいのに、見栄と意地で頑張った。
「じゃあ、せっかくだし、どんな感じか1回通してやってみようか」
「うん」
「速さはどうする? インテンポでいける?」
「とりあえずそれで」
(譜面どおりの速さで練習してきたもの)
「何があっても止まらないでやってみよう。それでいい?」
(何があっても、って……どんなにグダグダになろうとも止まらず走り切るということね)
くすりと笑うクロカワに、私は気合い十分請け合った。
「おうともよっ」
(どうしよう、緊張するっ。でも……めっちゃ、ワクワクする!)
始まりはビオラのソロから――。
心地よい清らかな音が澄み渡り、穏やかな“朝”がやってくる。
そこへピアノが加わって、重なって――。
キラキラ輝く音の粒が、美しい旋律を奏でて、降り注ぐ柔らかな光の中を、ヒロインが新しい今日へ駆け出していく。
ピアノが弾むように軽やかに踊り、ビオラが朗らかに伸びやかに歌う。
そうして、晴れやかに歌い上げたあとは――。
静かに訪れる、切なくも優しい小さな恋のはじまり。
心に芽生えた温かな“何か”。
互いの心を寄せて合わせてかよわせて。
まるで蕾が豊かに花開いていくように、曲も華やかに盛り上がっていく。
そうして最後、再び温かな静けさが訪れて、優しい余韻とともに曲は終わる――わけなのだけど。
(私の演奏、荒削りにもほどかある……)
「ほんっと、ごめん……」
「謝らないでよ。短期間でこんな弾けちゃうなんて、シライシってすごいね」
「うぅ、どんなにグダグダのグスグスになっても最後まで弾ききったことだけは褒めて……」
「うん。えらいえらい」
(クロカワは優しいなあ)
「どう? 初めてのデュオの感想は?」
(それはもう……)
「すっごく楽しい!」
ただ弾くので精一杯で余裕なんてまるでなかったけれど、それでもじゅうぶん感じられた。
誰かと音を合わせて、ひとつの音楽を奏でる楽しさ。
しかも、その誰かが他の誰でもない、大好きな誰か、なのだもの。
「それじゃあ、お昼までしばらく、最初から丁寧にやっていこうか」
(クロカワの音、もっと聞きたい。ちゃんと聞きたい。一緒に、いい音楽が作りたい)
「うん。頑張るね!」
「もう頑張っているじゃない。だから、そのままで。ゆっくりしっかりやっていこう?」
この人の笑顔は、どうしてこんなに優しいのだろう。
彼の期待に応えたい。
彼のビオラに恥ずかしくないピアノを。
「ゆっくりしっかり、もっと頑張るし」
「あなたねえ」
(だって、頑張らずにいられないんだよ。大好きに、なっちゃったのだもの……)